著者名:吉川祐子著『遠野昔話の民俗誌的研究』
評 者:川森 博司
掲載誌:「日本民俗学」246(2006.5)

 岩手県遠野は、『遠野物語』(一九一〇年)の影響もあり、多くの研究者の言及の対象となってきた。その状況を、著者吉川祐子は「『遠野物語』は遠野の民俗誌風説話文学として独り歩きをし、この一冊から数かずの著書が生まれ、遠野解説がなされてきたのだった」(二頁)というように述べている。著者の意図は、遠野に伝承される民俗を『遠野物語』の強い影響のもとから解放しようとすることにある。「『遠野物語』を現実の遠野の民俗世界へ導き、その民俗から客観的な分析を試み、バイブル『遠野物語』の呪縛から解き放たれなければならない」(三三〇−三三一貫)と著者は述べている。
 昔話について言えば、「柳田監修」(三三五頁)ではない、地元の風土に根ざした素朴な語りが著者の求めるものとなる。その点で著者は、明治四十三年(一九一〇)生まれ、奇しくも『遠野物語』出版の年に生まれた白幡ミヨシの語りを評価する。「ミヨシさんの語りは飾りもせず流暢でもないが、人を引きつける魅力ある語りである」(三頁)と著者は述べている。著者は、本書以前に『白幡ミヨシの遠野がたり』〔岩田書院 一九九六年〕、『遠野物語は生きている−白幡ミヨシの語り−』〔岩田書院 一九九七年〕という書物において、白幡ミヨシの語りの原資料に注を加えて出版している。それらの資料をもとに考察を重ねた成果である本書は、著者自身の紹介によれば、「遠野の農家に生まれ育ち、農家へ嫁いだ一人の女性の、結婚・離婚・再婚・継子養育・出産・姑仕え・ガガヘの昇格、そして、楽隠居、という人生を綴った生活誌であり、そこから語りの伝承文化を見つめた遠野昔話の民俗研究誌」(六頁)と位置づけられる。目次は次のとおりである。

はじめに
第一編 遠野昔話民俗誌
 第一章 遠野プロフィール
 第二章 家督に嫁ぐ
 第三章 衣食の管理
 第四章 生業と嫁の役割
 第五章 年中行事と嫁の休み日
 第六章 嫁からガガヘそして語り手へ
第二編 語りの伝承論
 第一章 語りの変容−蛇聟入り苧環型をモデルとして−
 第二章 世間話と民俗意識−河童誕生譚をめぐって−
 第三章 語源説明譚の生成−ハカダチとハカガリ−
 第四章 記述と語り−サムトの婆様をめぐって−
 第五章 遠野への提言
あとがき

 第一編で、白幡ミヨシの語りの基盤となった遠野の生活文化的背景と白幡ミヨシ自身の生活史を記述し、第二編で、具体的な昔話の語りの様相と民俗誌的な背景との関わりを論じるという構成になっている。まず、第一編の内容を見ていくことにしよう。
 第一章「遠野プロフィール」では、「ダンコツケ(駄賃付け)のまち遠野」という位置づけがなされている。「遠野に出入りしたダンコツケは語りの文化も持ち込み、『民話のまち遠野』は『ダンコツケのまち遠野』から出発しているというのである。(中略)つまり、今現在人々の記憶の奥に残っている昔話や伝統的な世間話は、残るべくして残った遠野の民俗遺産なのである」(二七頁)というように、遠野にさまざまな話が集積していった背景を著者は指摘している。
 また、昔話の語りの場は次のように描写されている。

 婆様や爺様が孫に昔話を語るのもこの囲炉裏端である。糸繰りや繕い物をしながら、あるいは藁仕事をしながら、シボトの火をみつめて「むかす、あったずもな」と語り始める。孫はその傍らで親の仕事を手伝いながら眠い目をこすりこすり聞き入る。日常生活における語りは決して語るために語るのではなく、語りはあくまでも仕事の脇にあるもので、仕事に伴って語られるものだった。誰もがこの語りの情景とともに心のうちに昔話を仕舞い込んでいるのである。(四三頁)

 このように著者は、昔話の語りが「あくまでも仕事の脇にあり、仕事に伴って語られるものだった」ということを強調している。そのなかでも重要な位置を占めていたのが、ツマゴ作りの藁仕事であった。「ゴム靴が出て藁仕事がなくなると、デエドコ(台所)のシボトも食事がすむと櫓を置いて炬燵にするようになり、昔話も語られなくなった。ゴム靴(遠野への普及の年代ははっきりしないが、昭和十年代には一般に普及しだしたようだ)の出現は冬の生活を大きく変え、昔話伝承の危機を招くことになった」(四三−四四頁)と、生活の変化が昔話伝承のあり方に影響を及ぼしていた契機を著者は示している。シボト(囲炉裏)の消滅に先立って、ゴム靴の登場が昔話伝承の機会をなくしていったというのは重要な指摘である。

 次に、第二章「家督に嫁ぐ」、第三章「衣食の管理」、第四章「生業と嫁の役割」においては、白幡ミヨシの嫁としての生活の苦労が描かれている。なかでも、オシュウトガガ(お姑嬶)との葛藤はその中心をなすものであるが、それを象徴的に示す昔話として、米櫃の管理をめぐる嫁への嫌がらせを描く「鬼になった婆様」の例が挙げられている(八四頁)。「オシユウトガガ(お姑嬶)は身罷るまでキスネビツ(米櫃・ケスネビツともいう)の権利を握り、ケグラザ(嬶座)を譲らなかった。ケグラザの者が食事の権限を持つ。食事はお姑嬶が作り、子どもの分と合わせてひとつ皿に盛られて食べさせられた」(八三頁)というように著者は、遠野での姑の権限のあり方を描いている。そして、「当時、妻が母や継子に苛められても、夫は稼ぐのが精一杯で、見て見ぬふりをして妻の支えにはならなかった」(七一頁)と当時の状況を示している。
 田植えに関しても、嫁の役割は過酷であった。「手間取りに出る田植えは楽しい仕事だが、自宅の田植えは嫁にとっては地獄の数日だった。もちろん家によってちがい、御馳走作りにニンプ(人夫)を頼む家では嫁は田植えだけしていればよかった。白幡家のようにお姑嬶がしっかりしていて田植えもし、御馳走作りもしてしまうような家では嫁も同じように働かされ、しっかりしたお姑嬶につかえた嫁は人一倍働かなければならなかった」(一二六−一二七頁)というような状況があった。しかし、機械化により、田植えに関する状況は一変した。その変化の様子を著者は、「機械は男が動かす。女の田仕事の歴史は機械化とともに閉じられ忘れ去られてしまった。田植えの喜びを伝えたくても伝えられない時代がやって来たのである。もちろん嫁が酷使された時代も機械化とともに閉じられた」(一二七頁)というように記述し、農業の機械化が農家の女性の労働のあり方に大きな変化をもたらしたことを指摘している。
 第六章では、白幡ミヨシが昔話の語り手になっていった経緯が述べられている。まず、白幡家が単なる一農家であることを越えて、遠野の文化を外部に示す際に重要な役割を果たすようになっていったのは、地元在住のカメラマン浦田穂一との出会いが契機であった。浦田は白幡家を三〇年以上にわたって撮り続け、「白幡家は遠野の顔のように、遠野の写真集には欠かせない存在」(一九九頁)となった。「浦田との出会いはミヨシのそして白幡家の生活を変え、浦田も写真家としての名声を不動のものとした。運蔵(ミヨシの夫)は『人生を二度生きた』と浦田に感謝して逝ったという」(二〇〇頁)と著者は述べている。このような契機を経て、観光客も白幡の自宅を訪ねてくるようになり、これらの人たちに「細ぼそと昔話を語っていたが、NHKのゆく年くる年で放映されると、本格的に採集家が聞き取りに来るようになり、また修学旅行生も来るようになって、しだいに語る機会が増えていった」(二〇〇頁)のである。
 このように観光の文脈に入って昔話の語りがおこなわれるようになったのであるが、著者は、昔話はあくまで語り手自身の日常生活の営みを基盤にして語られるものであることを強調している。そして、「かつて自然に行われていた行為でも今は意図的に仕組まねばならず、昔話の命ある伝承は風前の灯なのである」(二〇四頁)と著者は、遠野における昔話伝承の現在の様相を総括している。

 第二編の「語りの伝承論」は、全体を通じて、「語りの変容」ということがテーマになっている。第一章では、全国レベルで「蛇聟入り苧環型」の事例を検討して、生活の変化にともなう語りの変化を追跡している。そして、「儀礼を取り込んだ肉厚な深みのある語りから、表面だけを走る薄っペらな語りにと、昔話の語りの文化が移行しつつある」(二五四頁)との分析を示している。
 第二章では、河童誕生譚を例にして、遠野におけるこの型の世間話の生成の背景を検討している。著者は、異常児の誕生がなぜ河童という形で語られるのか、という問いを立て、「中世文学に書かれるような、川の神に返して再生を願うという捨て子の民間信仰は、時代を下るにしたがい失われ、再生信仰から始末の間引へと意識は移動」(二八三頁)したことにより、「成仏できない子どもの霊が河童の姿で戻ってくる」(二八二頁)という考えが生じたため、生まれた子は河童として語られるようになったのだと解釈している。
 第三章では、『遠野物語』一一一話の「今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり」という記述に見られる棄老伝承にまつわる語源説明譚が、実際に遠野でどのように語られてきたかを考察している。
 第四章では、『遠野物語』の記述が現地の語りを変化させた事例を、批判的な視点から検討している。『遠野物語』八話は「サムトの婆」の神隠し譚を扱っているが、「松崎村の寒戸と云ふ所の民家にて、…」という記述について、「遠野には寒戸はなく、正しくは『登戸』だということから、柳田の創作があったのではないか、あるいは喜善が正しく語らなかったのではないかと、何かと取り沙汰されてきた」(三〇六頁)。著者は、伊能嘉矩および佐々木喜善の記述、菊池照雄の考察、赤坂憲雄の考察を検討した後に、「喜善が柳田に遠野を語った時点では、従来からあった『サムトの婆様』の俗信と、登戸の神隠しにあった女性サダの事実譚(登戸には神隠しにあって帰ってきたサダの事実譚があった)が結合して、『遠野物語』八話の世間話が成立していたものと思われる」(三一二−三一三頁)と述べている。問題は、現在につながる語りに『遠野物語』の記述がどのような影響を及ぼしているかである。白幡ミヨシが現在語っている「サムトの婆様」には「『遠野物語』やその解説書から知識を得た訪問者から逆輸入した知識」(三二一頁)が含まれている。しかし、ミヨシの語りは「下女を流した話」が前半部にくっついており、また「『サムトの婆様』という名詞を使わず『白髪ほうげの婆さま』と表現している」(三二一頁)。つまり、『遠野物語』の記述をそのまま取り入れているわけではない。一方、一九七六年に出版された『遠野に生きつづけた昔』に収録された鈴木サツの語りは、『遠野物語』八話の筋を踏襲する形になっている。「サツの語りは遠野物語研究の語りなのである」(三二二頁)と筆者は位置づけている。
 第五章「遠野への提言」では、「民話のふるさと遠野」のキャッチフレーズのもとに「観光のための語り」が主流になっている遠野の現状に対して、批判的な考察を展開している。著者は「観光語りの語り手として活躍していた鈴木サツは『柳田監修』の語りをしていた」(三三五頁)と述べる。そして、「サムトの婆様」の語りについては、「遠野から来た語り手のはずが、『寒戸の婆さま』を知らないでは世間は許さなかった。勉強せざるを得なかったのが実状であろう」とし、「サツはいわば観光語りの犠牲者なのである」(三三五頁)と位置づけている。それに対して、「いっぽうで『遠野物語』語りをしながら、いっぽうで民俗伝承の語りを持っているのが、一遠野市民の白幡ミヨシなのである」(三三七−三三八頁)とミヨシの語りを位置づけている。そして、観光客へではなく市民へ語る語りの会を実施するなど、「村落内伝承を復活させる手立てが必要である」(三四一頁)という提言をおこなっている。

 以上、本書の流れに沿って、内容を見てきた。著者は自身の考察を「宗教民俗学の立場」(三五四頁)と位置づけている。したがって、著者の関心は、昔話の語りそのものよりも「その裏に潜んでいる民俗」(三五二頁)へと向けられている。そして、そのような立場をとおして、柳田國男の『遠野物語』だけからは見えてこない地元の生活に密着した口頭伝承の背景を提示することに成功している。『遠野物語』が有名なだけに、その検証に集中しがちであった遠野を舞台とする研究のなかで、現地の昔話の語りを手掛かりにその民俗誌的背景を探ろうとする本書の試みは貴重なものといえる。
 そのような評価を踏まえたうえで、評者は、本書がそのタイトルである「民俗誌的研究」として成功しているかどうかに疑問を持った。これは「民俗誌」というものの捉え方に関わっている。第一編の「遠野昔話民俗誌」は、白幡ミヨシの「人生を綴った生活誌」(六頁)を目指したものとされているが、ライフヒストリーといった形では記述されていない。また、白幡ミヨシ自身がどのように語ったのかという、その具体的な語り口は部分的にしか記録されていない。これは本書を読み始める前の評者の期待に反することであった。評者の頭には、安渓遊地・安渓貴子の『島からのことづて−琉球弧聞き書きの旅』〔葦書房 二〇〇〇年〕における対話的民俗誌の記述のスタイルや、文・佐々木章、語り・椎葉クニ子という形でコンテクストを含めた語りの忠実な記録を目指した『おばあさんの山里日記』〔葦書房 一九九八年〕の例などがあったからである。再検討可能な形でデータを提示するということを考えると、著者吉川の旧来の民俗調査報告書の方式を踏襲した記述のスタイルは不十分なものであると思われる。特に「特定の個人の民俗誌」(三二九頁)ということを主張するのであれば、一般的な遠野の民俗ということに吸収されない、個人的な色合いを込めた記述が求められるのではないだろうか。
 また、「民俗誌」が捉えるべき対象に対する考え方にも違和感を持ったところがある。著者は、第二編第一章「語りの変容」の終わりの部分で、「現在、昔話を好んで聞くのは、残念ながら記録を目的とした調査者や、聞くことそのものを楽しみとしている趣味の人びと、そして教育目的の人びとが大半である。生活の営みとして聞くことも語ることもなくなってしまっている」(二五九頁)と述べて、これらを自身の民俗誌の対象から除外している。現在、それらが大半を占めているというなら、なぜ「記録を目的とした調査者」や「聞くことそのものを楽しみとしている趣味の人びと」や「教育目的の人びと」に対する語りの場を民俗誌の対象としないのであろうか。おそらく遠野の内と外という区別の意識とも重なっているのであろうが、内と外が入り組んでいるのが現在の特徴である。評者としては、「現在」の記録ということに徹したほうが、特定の歴史的時点を記述した民俗誌として、後にさまざまな領域で活用の可能性を持つものになるのではないかと考える。
 「観光の語り」についても、評者は別の捉え方をしている。著者は「サツはいわば観光語りの犠牲者なのである」(三三五頁)と述べているが、それはどのような根拠に基づくのであろうか。たしかに、例に挙げられた「サムトの婆さま」の語りは『遠野物語』の筋の展開を踏襲している。しかし、その語り口は遠野の古い方言で構成され、そこに独特の味わいが込められている。つまり、語り口の側面から見ると、鈴木サツの語りは決して「柳田監修」とは言えないのである〔川森博司『日本昔話の構造と語り手』 大阪大学出版会、二〇〇〇年 参照〕。昔話研究の側面から言うと、本書には、このような昔話の語り口に対する配慮が欠けている。それぞれの状況において言語表現を組み上げていく行為も民俗であり、民俗誌の対象にするべきであると評者は考える。

 以上は、「民俗誌的研究」という点についての見解の相違でもある。本書は、右に述べたような「もうひとつの民俗誌」のあり方を評者に真剣に考えさせる骨太の力を持っている。日本民俗学における「民俗誌的研究」という課題を考えるうえで、試金石ともいえる書物である。今後の議論の発展を期待したい。
 なお、早く依頼を受けながら、評者の個人的事情により、この書評の執筆が大幅に遅れてしまった。関係各位にお詫び申し上げたい。
 
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