著者名:植木行宣・田井竜一編『都市の祭礼一山・鉾・屋台と囃子』
評 者:笹森 建英
掲載誌:「音楽学」51-2(2006.2)

都市の祭礼としての山車行事の特質を解明しようとするのが,本書の趣旨である。しかし全国には1500件に及ぶ山車があるといわれ,本書が対象とした地域以外にも異った様相を呈する山車行事がある。それでありながら,山車行事を総合的に理解するためには極めて重要な論集となっている。京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターが,外部の研究者を加えて平成12年から14年度にかけて共同研究した成果である。第一部は「はやすもの」と「はやされるもの」として2篇の論考があり,第二部は「祇園囃子」と「江戸祭り囃子」として6篇,第三部は地域性と山車の変遷として6篇の論考が掲載されている。すべての筆者名,論考名は紙幅の関係で紹介できないので,音楽学に関わる者への紹介として,先ず山車の音楽に関する論考を見る。
樋口昭「拍子物とその音楽」では,拍子物といわれる音楽の構造を明らかにすべく,笛の旋律形と打楽器のリズムを採譜し,検討している。音組織を明示はしていないものの掲載された採譜によって構成音,旋律形を知ることが出来る。リズムパタンとそのフレーズ構造を明らかにし,次のように結論づけている。「音価が結合してリズムパタンをつくりだし,そのパタンが反復されることが,拍子物の音楽的特徴である」。また,「ケンケト・サンヤレの囃子と稚児と獅子の対になる拍子物の音楽は同位置には論じられない(pp.71-73)」と述べ,ジャンルの異る音楽を同位置に論じることの危険性を指摘している。増田雄「上野天神祭の囃子」では,口唱歌や数字化した記号によって音楽構造を示している。入江宣子「若狭の祭礼囃子の系譜」では,楽曲を選定し町内ごとの旋律を採譜し,読者が容易に比較出来るように提示している。
 名称を山車(ダシ)と一般には総称するものの,巡行されるものは,伝承の時代,地域によって山,屋台,ダンジリ,鉾,練り物,人形,印,町印など,多様な名称と,多種の造形物がある。本書はその実態が何であるかを説明している。また,祭礼における神輿との関係についても詳しい。
 囃子の実質は音楽であり,その構造を示し,分析・比較検討しなければ意味をなさないのは当然である。鉾・人形・屋台などの造形物,巡行形態,楽器編成,曲名,曲種,それらの歴史的変遷や地区ごとの変化は囃子の実質を知る背景である。この点,14篇の論考のどれもが,史料(含 絵画資料)を渉猟して厳密に考証しつつ正確に記述しようと努めている。しかし,背景が理解されても囃子の独自性や,伝播経路,相互の影響,巡行様態,担い手・奏者の意識については,「音楽面からのアプローチが必要である(p.411)」と指摘されているように,音楽構造・演奏様態からの検討なしには信憑性も,説得力も持たない。その点,前述の3論考はとくに研究の基本的方法を提示している。
 祭は,その動態を人間行動学の面からも考察しなければならない。主宰者が誰であるのか,取りまとめて他の組と交渉する幹部,指導者,実際の演者,補助をする人員,住民,観客,資金など。田井竜一「水口曳山囃子の成立と展開」では担い手である「若衆頭,親笛,子」などの機能が述べられている(p.256)。主宰者の意図,演ずる者の意識・目的が変化することによって,芸態も変化する。加えて,観客が祭における財政面に大きく影響するばかりでなく,芸態を変容させる要因ともなる。永原恵三「祭礼と観光のダイナミズム」は,こうした外的要因によって蒙る変化を論じている。
 芸態については伝承者が細部にわたって体得しているので,研究者は伝承者自身がすべき記録・研究等を援助する立場に立つべきである,と指摘されて久しい。坂本行広「佐原の山車祭と囃子」は伝承者が自身の保持する芸態を詳らかにしようとする報告である。植木行宣は「はやすもの・はやされるもの」,「見る・見られる」,「鎮送・娯楽」,「都市・地方」,「祭り・祝祭」の図式を提示している。この対立する2項の「引き出し」に事象を整理整頓し,しまい込む論述が大半であるが,前述した増田雄の論考では枝町,農民町での状況を指摘している(p.106)。米田実「郷祭としての曳山祭礼」には以下の重要な指摘が見られる。「地方の曳き山祭礼には,都市的とは思えない要素が,多くふくまれている」。「郷祭りは複数の村落が関与する祭であり,用水や山野の共同利用などの,地域政治・利害とかかわり,社会の課題に対応している。身分や階層が反映され.繰り返し確認され,受容させ地域の歴史と秩序を表す(要約pp.217-9)」。全国的な山車行事の分布はかつて城下町であった地域以外,宿場町や港町にも多い。そして,それらは「成立過程から見ても,ムラとマチの両方の性格を持ち,都市型祭礼とする本質論や,領主による城下町支配の論点だけでは,掬い切れない(要約p.220)」。
 編集者の一人である植木行宣が,自説を批判的にとらえる論考をも掲載しているのは,山車行事を通して日本の祭礼をさらに深く「読み・解釈」しようとする真摯な態度によるものと思われる。
 
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