著者名:小田原近世史研究会編『交流の社会史−道・川と地域−』
評 者:西海 賢二
掲載誌:「地方史研究」320(2006.4)

本書は、神奈川県の小田原・足柄地方の近世史研究に欠くことのできない街道や宿、町といった「道」の問題と、富士山の宝永の砂降りにともなう土地利用の在りかたや田中休愚・二宮尊徳らによる河川改修でよく知られた酒匂川などの河川を通じた人々や物の流れに注目した十一論文を「道に生きる」「越える人びと」「川と暮らす」の清新な三部のテーマにより構成されたものである。以下に主要目次を掲げる。

 発刊にあたって     村上  直
 T 道に生きる
  箱根関所における人見女   小暮紀久子
  旅日記よりみた小田原・箱根路について   山本 光正
  間の村と湯治場にとっての「一夜湯治」    大和田公一
  大磯宿の飯盛女と茶屋町救済仕法 宇佐美ミサ子
 U 越える人びと
  「道の者」たちの17世紀−徘徊する人びとの実像にせまる−      下重  清
  尊徳の行動力と活動範囲−「日記」の概観と小田原出張− 木龍 克己
  安政コロリの流行と人びと 坂本 孝子
  戊辰戦争下の小田原藩と遊撃隊 中根  賢
 V 川と暮らす
  田中休愚による酒匂川大口土手締め切り後の諸相 関口 康弘
      −大口水下六か村を中心に−
  水車経営と地域社会 荒木 仁朗
  堀と道普請にみる報徳仕法 松尾 公就

 本書刊行の主旨は「小田原・足柄地方(広義には神奈川県内)の近世史研究にとって欠くことのできない街道や関所・宿・町といった『道』の問題と、酒匂川をはじめとする『河川』に関する諸問題を取り上げることによって、道や川を通じた人や物の流れと地域の歴史との相関関係、あるいは道、川を移動する人びとの実像を描き出すことが可能となり、藩政史とは異なる社会史としての斬新な視点が提示できるのではないかという期待もあった」(三〇五頁)であるという。まことに近年の近世史研究の展開を反映させているものと確信するも、筆者も一応四十年近くを一生活者として、かつ研究対象としてきた「小田原周辺」という地域性を考えた時に、こうした主旨がどこまで反映できるかという疑問も付き纏う。このあたりを中心に、本書の概要と多少のコメントを寄せて責務を果たすこととする。
 小田原藩政史の研究をこの五十年来継続、かつ発展させてきた「小田原近世史研究会」の主宰者でもあり、当該地域(神奈川県の西部に位置する西湘地域)の小田原藩城付領(足柄上・下郡)下の『小田原市史』などに代表される自治体史の編纂を牽引してきた村上直氏(法政大学名誉教授)の言を借りれば、「本書は共通テーマを「道」「川」におき、『交流の社会史−道・川と地域』という題名により、地域の交流と特性を明らかにしようとした。このテーマは、各自治体史の編纂では充分に考察の行なわれていない分野でもある。つまり、周辺地域の人びとの生活へ与えた影響、人・物の情報が、道や川により移動し伝播する意味合いにも注目している。要は近世社会の持つ、独自の仕組みやシステムを明らかにしていこうとする新しい試みを目指している。」(三頁)というもので、この下りに本書の刊行された位置づけが凝縮されているといっても過言ではない。

   T 道に生きる

 小暮紀久子論文「箱根関所における人見女」は、一昨年九一歳で亡くなられた木暮さんの遺稿となった。小暮さんにはじめてお会いしたのは一九七〇年代の半ば、確か小田原地方史研究会主催によるある講演会であったかと記憶する。還暦を迎えた頃であったが、いつも私は歴史家ではありませんからと謙遜しながらも、その後、箱根関所をめぐる研究をライフワークとされていた。小暮さんは箱根関所の日記を丹念に読み解いて、これまでの五街道の整備拡張を中心とした一政策として展開する関所という視点ではなく、徹底した庶民の立場かつ女性の立場をいつも念頭においた多くの論文を作成され「近世における女性の関所−主として箱根山之内村々の女性関所通行−」(『総合女性史研究』一七号、二〇〇〇年)などにまとめられ、「入り鉄砲に出女」的な一般的な関所をめぐる女性の立場ではない側面を明らかにしてきたことは高く評価されている。
 本論文は、江戸時代の女性が関所を通過するにあたり検閲する「人見女」について、その実像を箱根関所から追究したものである。人見女が江戸幕府の関所機能の一端を担っていた「公的」存在であったことを、関所記録からではなく、小田原藩士の分限帳から具体的に提示したものである。

 山本光正「旅日記よりみた小田原・箱根路について」は、旅日記を一つの資料として、この地域を素材に庶民の旅への類型化を試みて独創的である。本論文は江戸・東京周辺の観光地の拡大化を小田原・箱根で紹介したものである。
 具体的には、東海道の特色を地形・風土からいくつかのブロックに分け、旅日記の持つ歴史的意味合いを追究し、旅日記に一つの歴史情報資料としての可能性のあることを提示している。とくに当該地域である小田原から箱根路を東海道の象徴的な境界の一つとして位置づけたことは、西山松之助氏が江戸周辺の行楽地の在り方を宿泊の伴わない、いわば一日の行動文化圏のなかに位置づけようとしたことはよく知られているが、この文化圏を拡大することによって一泊もしくは数泊の宿泊の伴う範囲で観光地化がどのように展開していくかを、小田原と箱根を西国と東国の分水嶺として読むことの可能性を示唆しつつ、豊富な当地域の関連資料を呈示し、庶民の旅の類型化を試みている。この類型化の妥当性があるか否かは今後、小田原・箱根の呈示だけでなく、相模国における鎌倉・金沢八景や矢倉沢往還を中心にした足柄・大雄山(最乗寺)、大山という地域が江戸周辺を取り込んで観光地化(遊楽化)を図っていったことなどとあわせて論ぜられればこの類型化はより説得力をもつものとなるであろう。なお、小さいことだが四六頁の「田村(厚木市)」は平塚市の誤植であろう。

 大和田公一「間の村と湯湯治にとっての『一夜湯治』」は、箱根における「間の村」「湯治場」の変容過程を文化二年(一八〇五)に起きた「一夜湯治」事件の訴訟資料を用いて詳細に検討・分析し、その二つの背景を析出している。一つは江戸中期の庶民の生活、とくに行楽形態の変容が箱根湯本の存在目的を「長期滞在型湯治場」から「観光地」へと変化させたことと、もう一つは、「間の村休泊の禁」令に起因する畑宿村(「間の村」)の休泊客獲得運動の存在を指摘したことである。こうした時代の趨勢がそれまでの幕府方針をはねのけ、今日の温泉観光地発展の基礎を用意した点を高く評価して、地域社会論としてまとめている。大和田氏の仕事はすでに数百点の箱根周辺の旅日記を収集するとともに、その一部が翻刻されており、この間の諸史料が展望されればもっと視野の拡大がなされたのではないか、かつ「小田原近世史研究会」の例会が数十回となく開催されたのであれば前掲の山本論文との整合性は取れなかったのであろうか、まさに山本氏の箱根・小田原周辺を旅日記から展望するものと地域的にも十九世紀以降の時代性からも相関関係にあると思われるのだが。

 宇佐美ミサ子「大磯宿の飯盛女と茶屋町救済仕法」は、幕末の大磯宿の事例をもとに近接する宿町と在郷町の対立構造を分析し、宿駅のなりたちを取り上げたものである。宇佐美氏はその近業である『近世助郷制の研究−西相模を中心に−』(法政大学出版局、一九九八年)で東海道の要衝に見る人馬徴発の実態を究明したものと対をなす著作である。
 本論文は『大磯町史』に全面的に依拠したものであり、その点からも本書のタイトルに準拠するものであろう。具体的には、天保年間以降の大磯宿の事例をもとに、二宮尊徳の仕法の実践者である茶屋町の藤兵衛による町救済の展開を通して、近接する宿町・在郷町間の対立構造を明らかにしている。この対立構造を分析することによって、女性史・交通史における単線的な飯盛女設置=宿駅維持・宿駅財政救済手段説を再検討している。氏のこれまでの著作は徹底した文献調査による分析であり、かつ交通史を近世史の幕藩体制下における政策論に位置づける手堅いもので、後学として多くのことを学んでいる。しかし、大磯宿を取り上げるときには宿の記録のみで論ずれば明らかにこうした結論を導き出すことに異論はない。しかし、大磯宿のもっている特質とくに平塚・小田原を結ぶラインで特殊な状況は存在しなかっただろうか。それは旅人を受容した宿記録には表出しない、旅人が記した旅日記(山本前掲論文参照)に表現された大磯宿、たとえば後述するが宗教社会史的な側面、特定の宗教者たちが定宿(富士講の導者)として大磯に宿をもとめた事実、さらに棒手振の多くが大磯、平塚になぜ集中したのか、まさに生活史レベルの問題が大磯宿財政とどう関連していたのかなど幕藩体制という枠組みでみることだけでなく捉えることはできないだろうか。このあたりが「飯盛女」の存在と関わっていることは言うまでもないことなのだから。

   U 越える人びと

 下重清「『道の者』たちの17世紀」は、譜代大名の稲葉正則(一六二三〜九六)という人物に注目しつつ、その周辺に残された「史料」を手がかりとして一七世紀中葉の小田原藩を活写している。その中心となるのが正則の日記「稲葉日記(永代日記)」(淀稲葉御社蔵・京都府立綜合資料館寄託)である。年欠もあるが三二冊が現存し、正則の行動、交際記録だけでなく小田原藩政や領民の動向・はたまた幕藩関係、江戸での出来事が事細かに記述されている。「稲葉日記」の一部は『神奈川県史』『小田原市史』など関係する自治体史の資料編に多く収録されており、小田原藩政史にとっては貴重な「史料」であり、本論文もこの史料を近年の近世史研究の動向を批判的に意識しつつまとめられている。
 とくに「稲葉日記」を素材にして、一七世紀中葉以降の「道の者」たち(巡礼者・門付け芸人・虚無僧)の実態を描いている。そうした描かれた「道の者」たちを「士農工商」からはじき出されてしまった「道の者」として、これらを幕藩体制の枠から外れたものとして位置づけ、これを一九九〇年代以降の近世史の潮流である「身分的周縁」論に対する疑義として呈示している。
 確かにここ十年来の研究動向に即していえば「身分的周縁」論が実態を抑えないままに横行している事実がある。本論で取捨された行人・薦僧・巡礼者・座頭・瞽女などはその最たるものである。それに対して下重氏も一七世紀における譜代あるいは下人の問題を意識しながら「身分的周縁論」に疑義を呈示されたことは記憶に新しい。小田原藩領下のこうした輩の存在を制度上の問題として捉える事は一面有効性をもっていると思われるが、本書は小田原藩領内を中心にすえた社会史であるならば、何故こうした輩が当該地域に多く現れたのか、これは制度論において片づけられる問題ではなく、それこそ本書の「道・川と地域」に関連するものであろうことは宗教考古学・宗教文化史の面からも明らかにされている事実で、とくに一七世紀というのは小田原藩という縛りを越えてこうした宗教的職能者が結集しやすかった土地柄であることは視野に置くことが必要であろう。

 木龍克己「尊徳の行動力と活動範囲」は、すでに相模国の金目川を題材にした治水に関連した論考「享保期における治水政策の転換過程」(『法政史論』七号、一九八〇年)を基礎にしつつ、その後もいくつかの小田原藩領下の論考を下敷にして、関東を中心に農村復興運動を展開した二宮尊徳の行動を、彼の「出張日記」などの文献から考察したものである。膨大な文献のなかから彼の具体的な出張先・活動地・宿泊施設・滞在期間、地域と人びとの交流の状況を明示し、かつそのなかで、文政五年(一八二二)から安政三年(一八五六)まで尊徳の二四年間の活動実態を詳細に論じたものであり、近年の史料のデータベース化という方法論を駆使して新たな報徳仕法の研究に展開するものであろう。

 坂本孝子「安政コロリの流行と人びと」は、相模国において安政五年(一八五八)に大流行したコレラの伝播経路について論じたものである。氏の近業は民衆運動の伝播論にあるらしく「幕末の民衆運動『ええじゃないか』の伝播」(『社寺史料研究』六号、二〇〇四年)にも詳細な報告があり、幕末期における民衆運動論(豪農論)、佐々木潤之介以来の古くて新しい題材であるが比較的研究が少ない現況にあることは周知の事実であろう。本論ではコレラの伝播そのものよりもコレラ病原の伝播に注目している。病原体は陸路と海路を通して拡大し、その各地に及ぼした被害状況と人びとに与えた影響を相模国と武蔵国久良岐・橘樹・都筑三郡に限って検討したものである。またコレラが蔓延しつつあるなかで、情報・流言の伝播もあわせて役所記録と村方記録の双方から論じられ、疫神、狐つき、異国人にコレラ蔓延の要因を求め、かつ神仏によって予防しようとする庶民の信性を明らかにしている。内容そのものは興味深いが、コレラによってどのような神仏あるいは宗教的職能者が関わったかなど、具体的にいえば題材にした足柄上郡曽比村の例などに当地の疫神の信仰がどう展開していったかなども視野に入れる必要はないだろうか。当地域には小田原藩領でも数少ない「疫神塔」が確認されている。また小田原藩領下の大稲荷大明神の存在は小田原竹花町、須藤町、大工町の鎮守という枠組だけではなく、コレラが流行した当事に曽比村をもふくめて厄病神に関連した小祠を建立している事実もある。さらに小田原藩領内は「厄病神」を福の神に転化させようとする「厄神大権現」信仰が特定の修験者の手によって幕末から展開しており、今日もこの行事は継続されている。そのほかにも「厄神の年越し」という行事も荻窪・久野周辺で行なわれており、このあたりを安政のコレラ流行と関連させることはできないだろうか。これは当該地域の幕末の医者と修験者らとの葛藤も背景にあることは指摘されていることであるから。

 中根賢「戊辰戦争下の小田原藩と遊撃隊」は、戊辰戦争が東北日本へ戦域を展開していった要因をもう一度問い直したものである。これまで正面からこの問題を論じたものはほとんどなく、とくに箱根戦争については、新政府軍の反対勢力といわれた遊撃隊の行動と、旧幕府・新政府両陣営より南関東東西防衛線としての役割を期待された小田原藩の微妙な立場をはじめて論じたものとして注目される。

   V 川に暮らす

 関口康弘「田中休愚による酒匂川大口土手締め切り後の諸相」は、宝永四年(一七〇七)富士山噴火後における酒匂川氾濫など二次災害に対処した被災住民たちの復興への取り組みを、治水事業(指導)を通して明らかにしている。わけても民政家田中休愚の治水事業が展開していたことを論じている。近年こうした天災をどのように克服していくか歴史学からのアプローチも多いなか、その復興政策は今日的課題としても傾聴すべき視点である。

 荒木仁朗「水車経営と地域社会」は、府川村稲子家など村役人の水車経営を通じて、その多角経営、経済的仕組みについて論じている。小田原周辺は酒匂川、久野川をはじめとしてその他の河川を利用した水車が今日も現役で活躍しているのを目にすることができる。わけても荻窪の水車は童謡「めだかの学校」の舞台になった場所として、現在でも十数軒の組合で米搗きが行なわれていたりする。また開成町周辺には戦前まで三軒の線香販売に関わる水車が存在し、この線香業者と大山・道了山・富士の導者たちとの連繋が特定の村役人を介して展開していたことなどが確認されており、こうした水車経営に関わる人びとの交流が展開されれば地域社会との繋がりも見出すことができるであろう。これは水車経営の問題だけでなく、水車そのものの形態も小田原・開成・山北で異なっており、これが水利問題にも関連していることを考え合わせれば是非とも導入していただき視点である。

 松尾公就「堀と道普請に見る報徳仕法」は、これまで内田清さんらが報告してきた竹松村(南足柄市)、曽比村(小田原市)の報徳仕法とは別に、これらの一村仕法の影響をうけて実施された用水掘普請・悪水掘普請・道普請に注目したものである。普請には酒匂川流域の住民が自発的に手伝い、人足として駆けつけたことなど視点を絞り込みながら、地域社会の本来有している結合原則が「村」の荒廃状況の克服にとって果たしてきた役割をあくまで文献から紹介して、報徳仕法の本質を地域から問い直すことを試みている。このあたりに酒匂川流域の「川浚い」「堰浚い」の展開を地域論のなかに見出すことはできないだろうか。例えば小田原市内では今日も数十ケ所で村(地区)あげての川などの改修が年数回行なわれている。この行なわれている地域が不思議と尊徳仕法の語られている地域に多いという事実もある。仕法の展開が意外なところで運用されているのである。このあたりは文献には比較的みえにくいが「村」「地域」の繋がりとはこういう点にも見出すことはできないか。「出不足金」を出さざるを得ない立場の地域住民としては切実である。

 以上三部からなる本書のテーマ別の個別論文を紹介してきたが、最後にここ三十年来、当該地域を調査対象地かつ生活者として関わってきた者として気になる点を掲げてまとめとしたい。
 本書はこの地方(相模国足柄地方)の自然と歴史の垣根を低くして、人びとが生活文化の過去と今を共有し、希望を将来に託するという新しい視点で作り上げた論文集であろう。これまでにも当該地域では『小田原文庫』をはじめとして多くの「歴史モノ」を中心とした企画ものが刊行されたものの、どういうわけか数年で途絶えてしまうというある種の地域性があった。そうしたなか小田原周辺の地域史は、ある研究会とそれらに参画した人びとによって地方史が盛んになっていった経緯がある。その団体が「小田原地方史研究会」であり、それが小田原藩政史を中央政権の幕府の視点から論ずるのではなく、あくまで地域の人々からの「まなざし」で当該の地方史に没頭した内田哲夫氏、小田原・松田・御殿場・小田原の各自治体史を編纂するとともに東国の中世史研究を牽引されてきた福田以久生氏、立ち遅れていた小田原・箱根の宗教文化・温泉史・箱根細工の研究を進展された岩崎宗純氏、小田原・南足柄・山北を中心に日曜歴史家を標榜されながら地域史と地域住民のパイプ役を進められている内田清氏、これら四名の仕事が残念ながら本書に反映されなかったのは残念である。とくに志半ばにして五十代で黄泉の国に旅立たれた内田哲夫氏の仕事を引き継いでいくのが本書の企画に参画している下重清氏(「小田原地方史研究会の『継続は力なり』」『地方史研究』二七九号、一九九九年)や松尾公就氏らであり、こうした方々が小田原地方史研究会や他の地域団体と交流をはかることによって、先年完結した『小田原市史』『南足柄市史』などによって収集された諸文献がいかに地域に還元されていくかなど、これからの「小田原近世史研究会」の「道」と「川」と地域が交差される研究を祈念しつつ紹介を閉じる。
               (〒254-0016 神奈川県平塚市東八幡二−八−二〇)
 
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