成清弘和著『日本古代の王位継承と親族』
評者・荊木美行 掲載誌・古代文化52-5(2000.5)



日本史・民俗学関係の学術書を意欲的に出版している岩田書院から,このたび園田女子大学講師の成清弘和氏(以下,『著者』と略称)の『日本古代の王位継承と親族』(以下,『本書』と略称)が刊行された。岩田書院では,御影史学研究会民俗学叢書というシリーズを,昨年4月出版の八木康幸『民俗村落の空間構造』に至るまですでに12冊刊行しているが,本書は,おなじ御影史学研究会が企画する歴史学叢書の第1冊として上梓されたものである。評者は,著者が二十数年の長きにわたって取り組んでこられた研究を,こうして一書にまとめられたことを心から慶賀するとともに,本書の存在を江湖に知らせたいと思い,ここに紹介の筆を執った。蕪雑な一文ではあるが,これによって本書の一端をうかがう手がかりにしていただくことができれば,幸いである。


本書は,王位継承のメカニズムやそれに関連する律令親族法の研究を中心に構成されているが,全体は大きく2篇にわかれる。そこで,まず,各篇所収の論文を,目次にしたがって紹介しておく。
(目次省略)
つぎに,上の各章について,順を追ってその内容を紹介しておきたい。
まず,第1編『王位継承の諸相』。ここには5篇の論文が収録されている。
第1章『継体紀の「五世孫」について』は,継体天皇の出自について,記紀が応神天皇五世の孫としるす点について検討したものである。著者によれば,継体天皇を応神天皇五世の孫に位置づける,記紀および『上宮記一云』の記載は,その史料的根拠が跡づけられないという。そして,記紀の『品太王五世孫(誉田天皇五世孫)』という記載も令制の五世孫知識による後世の造作という可能性が大きく,そこに王権の移動や動揺を読み取ることができるのではないかという。
第2章『欽明紀の「嫡子」について』は,記紀の帝紀的記載(とくに続柄記載)に注目し,欽明天皇の継体天皇との続柄を示す『嫡子』を手がかりに,継体〜欽明天皇間における王位継承をめぐる問題についての見解をのべたものである。著者によれば,継体天皇から安閑・宣化・欽明天皇への王位継承において混乱が存在したと考えられるにもかかわらず,『日本書紀』編者が欽明天皇を継体天皇の『嫡子』としるさなければならなかったのは,欽明天皇がその母である手白香皇女を通じ,武烈天皇で途絶えた仁徳皇統の後継者であったことが,その第一の理由であるという。
第3章『大后の史料的再検討』は,記紀の大后・皇后観や律令制下における皇后観の分析を通じて,大后の成立について論じたものである。著者によれば,最初の大后は,欽明天皇朝に勢力を拡大した蘇我氏出身の堅塩媛であって,こうした大后の設置の背後には,大王位の継承を直系間でおこなうことへの志向が内在したのではないかという。なお,第3章の附論『大后と大兄』は,第3章に対する田中嗣人氏の批判を承け,記紀の皇后記載の取り扱いについて若干の修正をおこなうとともに,大兄制の存在について再確認したものである。
第4章『女帝小考』は,北山茂夫・佐藤宗諄・河内祥輔・瀧浪貞子諸氏の研究を承け,孝謙・称徳女帝を『真の女性天皇』と評価する理由について論じたものである。著者は,孝謙(称徳)天皇が中継ぎ的ではない正統な女帝という佐藤氏の所説を高く評価しつつも,さらに独自の考えをいだいておられる。すなわち,著者によれば,『不改常典』が担った皇位の嫡系継承という理念は,継嗣を厳密に限定しようとするその本質ゆえに,はやくも聖武天皇の段階で破綻することになり,同時に,嫡(直)系継承の維持という目的と本来不可分の女帝もその終焉を迎えることとなったという。しかし,孝謙・称徳天皇は,その血統ゆえの嫡系意識と未婚に終わらざるを得ない現実から,天武・草壁皇統の最後の天皇として,たんなる中継ぎの女帝ではなく,律令の規定を支えとした真の女性天皇として行動したという。
第5章『日本古代王位継承法試論』は,第4章までの個別論文で展開した持論をもとに,古代の王位継承法に関する見通しを総括したものである。著者によれば,6〜8世紀の古代日本において王位継承『法』として明確に捕捉できるのは,嫡(直)系継承を規定した『不改常典』(天智天皇が制定し,天武・持統天皇が改変)のみであり,しかも,それが実質的な効力を発揮したのは,文武から称徳天皇までの,わずか6代の天武系皇統の王位継承の場においてのみであったという。そして,その前史として,大后―大兄制,女帝などがその時々の政治状況に即応するかたちで案出され,それによって直系継承が志向されたが,『不改常典』は,桓武天皇の即位を契機として王位継承の場から退場し,しかも,王位継承そのものの意義もしだいに矮小化されていくという。
つぎに,第2編『親族形態の諸相』。ここに収められた5篇は,いずれも律令親族法に関する考察である。第1編から読み進めていくと,王位継承法という古代支配者層の血縁原理の解明に取り組まれた著者が,進んで律令の規定する親族法の分析に力を注がれるようになったプロセスがよくわかる。
まず,第1章『「祖」に関する基礎的考察』は,『令集解』の諸注釈を中心として,親族名称としての『祖』の検討をおこない,さらに中国との比較を通して親族集団の問題に言及し,日本古代にキンドレッド的な集団の存在を推定したものである。
第2章『律令における「外祖父母」について』は,日唐の律の比較を通じて,日本古代の『外祖父母』の特質を論じたものである。著者の分析によれば,日本古代の高度に完成された法体系である律令のなかで,『外祖父母』は,実体として二等親(唐制では期観)にほぼ準ずるものとされ,ことに私的・個人的な親族規定の性格が強いとされる律(養老律)の諸条においては,唐制とはちがって,『祖父母』と同等にさえ扱われていたという。著者は,こうした現象を,『日本古代の親族集団か,父方,母方双方に同等の広がりを有していたことをより鮮明に証するもの』(225頁)とみておられる。
第3章『古代親等制小考』は,これまで研究の乏しかった唐袒免親の日本律令への継受について論じたものである。著者によれば,日本律令は,唐の袒免親を継受するに際し,その対象を天皇の親族にのみ限定し,皇親という語に対応させたが,直系観を重んずる日本の親族構造と,天皇の親族は直系五世孫をふくむとする認識(著者は,これが天武天皇朝ごろから存在したと推定)によって,その規定は大宝令施行後数年を経ずして変更されることになったという。
第4章『古代における所生子の帰属について』は,古代における良賤通婚や所生子の帰属について論じたものである。著者によれば,大化の男女の法では良賤通婚は禁じられていなかったが,律令法の本格的導入とともにこうした原理は後退し,律令法では,所生子の帰属は主として身分確定のためのものであって,父方母方への帰属は二義的なものとなってしまったという。
第5章『令規定における皇族称号について』は,儀制令平出条について唐令との比較をおこないつつ,日本古代の天皇家の血縁原理について考えたものである。著者によれば,律令の皇族称号の規定には,母方に一定の配慮を示すという,キンドレッド的要素があり,そこに古代天皇家の血縁原理が残存しているという。


以上,本書の内容について駆け足で紹介したが,いずれも重要な問題を取り扱っているだけにその価値は少なくない。
ただ,全体としてみれば,律令法の解釈を中心とする第2編所収の各論文が実証的で堅実な印象を与えるのに対し,第1編のほうは,先行学説に異を唱えるに急なあまり,いささか論証不足ではないかと思われる点が目立つ。
たとえば,第1章で,著者は,継体天皇の出自について記紀が応神天皇五世の孫としるすのは,後代の作為であって,これは皇親の範囲が四世王から五世王に拡大された慶雲三年(706)以降の造作であることを唱えておられる。しかし,評者には,これがそれほど説得力のある説とは思えない。著者は,応神から継体天皇に至る中間系譜が省略されていることを『謎』とされるが,こうした中間系譜がしるされていなければならないとする前提そのものが,著者の先入観ではないだろうか。五世孫のような遠い皇親が登極した事実はほかに例のないことだから,『古事記』にしても,『品太王五世孫袁本杼命』(継体天皇記)と書けばそれでこと足りたわけである。なにより,もし著者のいわれるように,五世孫が後代の造作なら,『古事記』はその中間の系譜を偽作してでも文中に掲げたはずである(塚口義信『継体天皇と南山城』〔『ヤマト王権の謎をとく』所収,東京,平成5年9月〕)。また,いっぽうの『日本書紀』にしても,応神〜継体天皇間の系譜は,撰進の際に附されていた『系図一巻』に記載したために,本文では省略したと理解すべきではないだろうか。著者は,『日本書紀』本文がこうした中間系譜を『詳しく』しるした例として顕宗天皇紀の『立皇后難波小野王。赦天下。難波小野王。雄朝津間稚子宿祢天皇曽孫。磐城王孫。丘稚子王之女也』という記載をあげておられるが,逆に『気長足姫尊。稚日本根子彦大日本天皇曽孫。気長宿祢王之女也』(神功皇后摂政前紀)・『大鷦鷯天皇。誉田天皇之第四子也。母曰仲津姫命。五百城入彦皇子之孫也』(仁徳天皇即位前紀)『天豊財重日足姫天皇。初適於橘豊日天皇之孫高向王。而生漢皇子』(斉明天皇即位前紀)などのように,中間系譜を省略したケースも少なくないことを思うと,著者のあげる顕宗天皇元年正月条の例もそれほど有効な論拠とは思えない(これとて,みかたによっては,直系の子孫だけをあげた略系譜なのである)。やはり,こうした皇統譜の省略は,『系図一巻』に譲った結果であると考えるのが妥当であろう。また,著者は,『釈日本紀』の引く『上官記一云』の逸文にみえる応神〜継体天皇の系譜については否定的であるが,系譜が現在みるようなかたちを整えた時期と原系譜の成立とは別問題であって,『命』・『王』といった表記があることによって系譜の内容まで疑うことはできないと思う。むしろ,この系譜は,その文体とも相俟って,かなり信頼がおけるのではないだろうかというのが,評者の印象である(この系譜の史料的価値については,塚口義信『継体天皇と息長氏』〔同氏『神功皇后伝説の研究』所収,大阪,昭和55年4月〕,など参照)。
このほかにも,第2章で,継体天皇から欽明天皇に至る記載に混乱・矛盾があることをもとに,いわゆる『継体・欽明朝の内乱』を想定することなども,やや論旨の飛躍があるように思われるが,与えられた紙幅も盡きたので,これらの所説の検討はべつな機会に譲りたい。評者の力量不足から,著者の真意を曲解することがなかったかを懼れるが,この機会に,著者の説に賛意を表しがたい点も存することをあえて申し添えた次第である。
なお,最後に,蛇足ではあるが,版元の岩田書院は,創業6年に満たない小規模出版社である。しかしながら,すでに百五十冊近い学術書と十数種の学術雑誌を刊行し,日本史・民俗学界で次第に地歩を占めつつある志の高い出版社である。そうした書肆が,地味ながらも,一つのテーマを倦むことなく粘り強く探求しておられる著者の業績を見逃すことなく,本書の公刊に踏み切った英断を多としたい。(皇學館大學助教授)
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