著者名:五島邦治『京都町共同体成立史の研究』
評 者:村上 紀夫
掲載誌:「歴史の広場−大谷大学日本史の会会誌−」8(2005.11)

一九七〇年代以降、中世都市の研究は大きく進展したといえる。その背景には、中世考古学の発展により、それまで主な研究対象とされてきた京都・奈良以外にもさまざまな地方都市が存在したことが発掘によって明らかにされたこと、網野善彦が非農業民に着目して「都市的な場」という概念を導入したことなどにより、歴史学のみならず地理学・考古学・民俗学など様々な視点から学際的研究が進められてきたことがある。しかしながら、近年では都市の独自性が見えなくなるなど「かげりが見えた」とする意見があるのも事実である(仁木宏『空間・公・共同体』青木書店、一九九七年など)。そうしたなかで刊行された本書は、ながく京都をフィールドとして研究を重ねてこられた五島邦治氏の京都の都市民の成熟過程と共同体の成立についての研究成果を一書に編んだ論集である。その論文はどれも京都という都市とその住民を徹底して掘り下げたもので、近年の都市論とはやや一線を画したものであるという印象を受けた。

 まず、簡単に本書の議論を要約しておこう。本書は大きく三部構成となり、第一部は祭礼を手がかりに平安期から「都市民」の成熟を明らかにする。第一章「平安京の成立と都市住民の形態」では初期平安京における「都市民」の呼称を検討し、未分化な状況ながら次第に官司や高家との帰属を軸に「党類」を結んだ社会集団を構成し始めたことを指摘し、典型として木工寮に技術者集団として帰属しつつ、交易などに関与していた存在があったとする。続く第二章「摂関時代の都市民」では、そのような「都市民」の典型として「保刀禰」があるとし、都市祭祀が祇園御霊会などの民間主導のものに移行する背景に都市の地縁的発達があるとした。そして、第三章「平安京の祭礼と都市民の成熟」では祇園御霊会や稲荷祭に着目し、祭礼が旅所を中心に行われていることから地縁共同体の発展を見いだし、祭礼を通じて都市民が組織力を強めてきたと論じられた。また、第四章「郊外の御霊会」では紫野と花園の今宮神社で行われていた御霊会から、平安京近郊の御霊会は新興商工業者を中心に成熟しつつあった地縁的結束を背景に興ったものとされた。第五章「稲荷旅所の変遷」では、第三章の議論を踏まえ、稲荷祭は商業活動を営む神人によって組織された座によって旅所を中心に行われたが、院政期には神人制度だけでは祭礼が維持できなくなり馬上頭役制となる。しかし、巨額の負担が嫌われ差定が忌避されるようになったため永仁七年(一二九九)にはこの制度も破綻し、敷地内の住民に均等に祭料を割り振る制度となるとした。また、稲荷社旅所神主と本社との関係に着目し、中世には自立的な祭礼センターであったが、近世には本社の下部組織に組み込まれていくことを指摘された。
 第二部では、「町人」という存在に注目し、室町期の町共同体が成立する過程を明らかにしている。第六章「『町人』の成立」では、これまで正確に定義されてこなかった「町人」という語が、室町期には「町」の防犯や民政の保証行為を行う特定の「町人」に限定された意味で使われたことを「酒屋等請文」の保証人記載から指摘された。第七章「山鉾風流の成立」では、祇園会の神輿渡御は、土倉方による馬上功程銭によって維持されたとし、山鉾風流は本来は神輿渡御のための在地の諸役であった敷地役により第六章でみた「町人」が調進したとされた。続く第八章の「『町人』組織と土倉・法華宗寺院」では、土一揆に対して都市民が結束する際には「土倉衆」が中心となっており、史料上「町人」とは明確に区別されていることから、「土倉」と「町人」の両者の間には地縁的利害が共有されてなかったとし、そこで教線を開いていった法華宗寺院は檀徒個人の経済力に依拠し、地縁結合とは直接的な関わりをもたなかったとされる。そして、続く第九章「天文法華一揆と惣町の展開」で「町人」の語を中心に天文法華一揆関係の史料を再検討し、「町人」組織は法華一揆とは別の動きをしようとしていたことを明らかにし、一揆前後から一貫して維持された「町人」によって町組からなる惣町が整備されるとされた。また、第十章「下京惣町文書」では、複数の町に伝来する下京惣町文書の写しを比較することで、原文書が失われた下京惣町文書の復元を試みている。
 最後の第三部は上京、下京の具体的な事例検討から中世から近世への町の移行を検討されている。第十一章「上京一条小川界隈」では、天文期に既に「小河一町中」として共同体を形成していたことが知られる一条小川付近の室町期の景観を史料から丹念に復元し、第十二章「下京岩戸山町」では、下京惣町の中心的な町であった岩戸山町について、室町期から近世初期までの様子を復元している。第十三章「下京石井筒町記録」は石井筒町の記録から政権と惣町、個別町の関係を見ている。
 本書は、平安期から近世まで非常に長い時代にわたる京都の住民の「共同体成立史」を追ったもので、論旨も一貫しており論文集にしばしば見られるような「寄せ集め」という感じは全くなかった。その全体を見渡して論評を加えることは全く評者の能くするところではないが、以下に本書を読んだ感想を述べることにしたい。

 中世から近世にかけての京都と庶民信仰、被差別民について拙い研究をしている評者の関心からいえば、中・近世移行期の都市景観を住民も含めて具体的に明らかにされた三章の論文は極めて示唆に富んだものであった。また、中世的な稲荷旅所の信仰が近世には小社の庶民信仰に転化していったとする指摘(一四二頁)は、かつて京都の小社に注目した小文を書いた評者としては非常に興味深く思ったところであった。
 さて、極めて大雑把に、都市史研究の流れの中に本書を位置づけるとすれば、林屋辰三郎氏による「町衆」の議論を批判的に継承したものであるといえよう。その点は、室町時代に京都で自治的な共同体を確立した「町衆」について触れたうえで、「少なくともその成立の契機は平安京成立当初にあった」とされ、その系譜につながる存在を「都市民」と呼び、都市がもつ「新しい環境」が生んだ問題を解決するために出された「答案」が「『町衆』による町共同体」であるとしていることに象徴されよう(二頁)。このような、平安期からの「都市民」を想定し、「町衆」への発展を描く手法は、近年の都市研究と比べれば、京都という土地の極めて強烈な個性に徹底してこだわったものとして非常に興味深いものといえる。それ故、五島氏と同じ史料を使い、林屋氏が生活組織としての「町」の中で防犯の保証行為を行った「『町衆』のういういしい姿」とした(林屋辰三郎『町衆』中公文庫、九九頁)「町人」についての再検討は恐らく本書での核のひとつといえるであろう。しかしながら、「町人」を現地では「おとな」と呼ばれた「一つの町の責任者(もしくは代表者)」(一七四頁)とする見解についてはもう少し論証が必要ではないかと思われた。というのは、「町人」の人数が一定せず「かなり場当たり的」とされることからも町の「代表者」といえるのか、あるいは「一定の資格(身分、財力、居住年限)を有する」特定の住人(仁木前掲書)にすぎないのか判然としないのである。実際、氏が挙げられた「町人」の史料のいくつかは町の代表者にとどまらず広く有力者層を指す語として読むこともでき、当該期の史料全体を通覧できていない評者には「町人」が「住民全体といった広い範囲」とは言わないまでも「『町』の責任者の意味」に果たして限定(一八〇頁)できるのかやや分かり難いという印象をうけた。
 なお、聊か気にかかった点として、氏が使った「都市民」という概念について、後に「町衆」となっていく集団であるという結果を先行させた定義にとどまり、厳密な定義がなされていないことがある。「都市民」という語に「都市」という言葉が使われていることに象徴されるように「都市」であることが所与の前提となっているため、京都が古代の宮城から中世、そして近世となるにあたって彼らの居住した場である古代・中世・近世の「都市」の違いが見え難くなってきた。五島氏が敢えて京都の「都市民」を整理したことで他の都市にない京都の特異性を見出すことができると思われるだけに聊か残念でもあった。また、「町衆」という結果をあらかじめ想定した集団を「都市民」としたがために、地縁的結合、つまりは氏が主題とする都市共同体の成立が予定調和的に成立したかのような印象をうけてしまった。地縁的結合を日本の中世が達成した成果の一つとする見解(朝尾直弘『都市と近世社会を考える』朝日新聞社、一九九五)がある一方、「結果としてさまざまな可能性や選択肢のなかから歴史的に残されてきた」とする意見(河内将芳「都市共同体と人的結合」〈仁木宏編『都市 前近代都市論の射程』青木書店、二〇〇二年〉)もあり、かかる問題の立て方をしたがために、その共同体成立に至る模索の過程がそれほど問題にされないような感をうけるのである。

 以上、浅学を顧みず書評を試みた。評者の誤読や不十分な理解のために的はずれな意見を書いたのではないか危惧されるが、その点は何とぞご容赦頂きたい。いずれにせよ、本書が京都、あるいは都市共同体について考えるうえで重要な位置を占める必読の文献であることは疑いのないところであろう。本書の議論を踏まえたうえで、他の都市との比較をすることで都市史研究に新たな論点を浮かび上がらせることもできるであろう。
 
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