著者名:水野柳太郎編『日本古代の史料と制度』
評 者:河内 春人
掲載誌:「日本歴史」693(2006.2)

『日本古代の寺院と史料』『日本古代の食封と出挙』(一九九三年、二〇〇二年、ともに吉川弘文館)など寺院史・経済制度史の分野での堅実な研究で知られる水野柳太郎氏が二〇〇〇年三月に古稀を迎えられた。本書はそれを契機として水野氏を中心に奈良大学の水野ゼミの卒業生が集った論集であり、七本の論文を収めている。
 水野柳太郎「新羅進攻計画と藤原清河」は八世紀半ばの日本の対外関係について、新羅進攻計画と在唐の遣唐大使藤原清河の帰国問題を軸として論じる。前者は通常は新羅「征討」計画と称されるが、水野氏はこれを新羅「進攻」計画と呼ぶ。「征討」という語句の問題を捉えたものとしてひとつの見識であろう。
 内容は、一で天平宝字六年(七六二)の新羅進攻計画をめぐる日本と渤海の意図のズレを論じ、二でそれが計画開始時の小野田守の渤海派遣まで遡るとする。また、計画に三年の期間設定をしたのは藤原清河の帰国が必須のためであったと述べる。三では清河が大使として唐に赴いた天平勝宝二年(七五〇)の遣唐使の構成と任務について検討し、新羅進攻に対する唐の出方を見極める目的もあったと位置づける。そして四では、渤海は計画に消極的なことによる日本との関係悪化を避けるために清河の上表を伝えたと論じ、清河を帰国させる動きは計画破綻後に再燃し、宝亀六年(七七五)の遣唐使が派遣されると五で述べる。なお余論では宝亀九年の唐使の来朝と宝字五年に高元度を送ってきた沈惟岳らについてふれる。百三十頁に及ぶ長大な論文であり、それぞれの章立てが一本の論文となり得るテーマである。それを一本の論文としてまとめることによって新羅進攻計画の全貌を浮き上がらせようとするものであり、かつ新羅進攻計画と結び付けられることのなかった藤原清河の帰朝問題を明確に関連づけるのはきわめて興味深い。それによって従来の研究と異なる視角で当該期の外交を論じておられる。計画の三年という準備期間の解釈や渤海の計画に対する当初からの消極性などがそれにあたる。他にも新たな解釈が多く見受けられる。今後、こうした水野氏が提示した課題を検証していくことが八世紀外交史の分野で求められることになろう。ただ、時系列に沿って議論を進めていないため、プロパー以外にはいささか分かりづらくなっているのが残念である。とはいえ、近年停滞気味であった八世紀の対外関係研究の前進を促すものであることは間違いない。
 北條朝彦「「市原王」考」は、造東大寺司成立期からその中枢に関わる皇族である市原王の経歴について考察を加える。特に天平十八年(七四六)前後から玄蕃頭であったことと天平勝宝二年頃に「知事」と称するようになることから、その立場を「知造東大寺司事」である長官的立場として位置づける。また、仲麻呂政権下においての不可解な転任や、十五巻本万葉集の編集実務に携わっていたと考えられることから大伴家持との関係が推定されることについて注目する。律令官人として官歴を歩んだ市原王について単に制度的な履歴に押し込めるのではなく、歴史的動態としての政治史を絡ませる。ただ、長官的立場の問題については律令における「監臨」「因事管隷」との関わりについても論及すべきではなかったかと思う。
 南友博「品封小考」では、親王への品封について、@その実施状況、A増額時期、B無品封規定の三点について検討する。@は天平勝宝二年の八幡神への授与から令の通り実施されていたとする。なお女性神は減半されなかったことについては、女性だからではなく令規定が内親王のみを指定するためではないか。Aは位封が増額された慶雲三年(七〇六)に品封の増額はなく、実施状況からして勝宝二年以後とする。なお、八世紀前半の親王・内親王への益封は皇位継承に関わる問題であると指摘。Bは大同四年(八〇九)に制定される無品親王への食封である無品封について、光仁朝以降の皇子女の増加に伴い元服と初叙にタイムラグが生じ、その間の生活保障として定められたと位置づける。
 牧伸行「『続日本紀』玄ム伝考」は、『続日本紀』の卒伝の成立について諸史料の玄ム伝を相互比較して原玄ム伝がもとになったと論ずる。仏教史のみならず政治史的にも重要な玄ムの行跡を考える上で重要。その伝記作成の動機は玄ム将来経典の由緒を強調することによって、寺院が自らの経済的特権を主張するところにあったとする。また玄ムが将来した経典については『開元釈経録』であったとする山下有美説を支持する。諸史料の丁寧な比較は説得力を増すものであるが、史料ごとの成立年代と影響関係を明示するとさらに分かりやすくなったと思われる。また玄ム関係史料を一括して最後に掲出し、本文では番号で史料名を指示するため読みづらくなっている点が残念。
 平山圭「藤原貞幹著『逸書』抄録の『藤原家伝』上巻」は、タイトルの通り『逸書』が「家伝 異本」の題で録している『家伝』上巻鎌足伝について書誌的な考察と翻刻を収める。特に貞幹が書写上関与した国会図書館本・好古日録本と比較することで逸書本との関係を引き出し、逸書本は好古日録本と同系統であるがそれほど近い関係ではないと位置づけている。その中でも『家伝』国会図書館本上巻の奥書に記す「古本」について、これまで好古日録本といわれてきたのを逸書本と推定するのは『家伝』の写本研究上きわめて重要な指摘であろう。今後の『家伝』写本研究のさらなる進展が望まれる。
 山本和幸「加賀国の交通路」は、加賀国の駅路について駅の現地比定を試みながら論じたものである。当該期の遺跡の出土状況はもちろんのこと、中近世の街道との比較や明治期の陸地測量部作成の地図を活用して論じている。特に、駅の多くが陸路と水上交通の結節点に作られていることを指摘している点は重要である。なお駅の比定地のうち、深見駅については先年出版された古代交通研究会編『日本古代道路事典』(八木書店、二〇〇四年)の比定地と若干異なる推定をしており、より詳細な検討が求められる。また、田上駅〜深見駅間にある観法寺遺跡が八世紀末に廃絶したとされるように、時期によるルートの廃絶問題などについても言及があってもよかったように思う。
 脊古真哉「郡上安養寺の成立と展開」は、近世奥美濃において勢力を持った真宗寺院安養寺が近江から美濃安八郡を経て郡上に至るという寺伝を検証する。本願寺下付物裏書にみる安養寺門末は郡上郡内に限られること、安養寺に関わる初期真宗絵画からは本願寺に属する以前の安養寺がいかなる門流に連なっていたか確定できないことなど、初期安養寺の様相を表すものが史料的に少ない中で『天文日記』から安八郡大榑庄に所在していたことを確定、さらに開基伝承に近江佐々木氏の流れである「垣見」という名字を持つ人物が開基であるという点に着目して安養寺のルーツを推定する。そして、安養寺の移動は初期真宗門流の土地を基盤としない性格によるものであり、本願寺の傘下に入ることで美濃に定着していくとする。
 以上、各論文についての紹介と簡単な所感を述べた。論集の性質上ひとつのテーマで一貫しているというわけにはいかないが、いずれも史料にこだわった丁寧な研究であり、寺院史を中心に史料にこだわった水野ゼミの学風を彷彿とさせる。なお、本書の末尾に水野氏の年譜と業績目録が収録されており有用である。ただ、目録で論文について著書への収録を明示するとなおよかったのではないかと思われる。
 論文によってはまったくの門外漢のため適切な紹介ができたかどうか心許ないところもあるが、ご海容を乞う次第である。水野柳太郎氏の今後ますますのご活躍を祈念して筆を擱くこととする。         (こうち・はるひと 明治大学文学部兼任講師)
 
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