渡辺尚志編 『近世地域社会論―幕領天草の大庄屋・地役人と百姓相続―』
 評者・浜 野  潔  掲載誌・社会経済史学65-6(2000.3)

 本書は,近世天草の地域社会に関する共同研究の成果である。渡辺尚志氏を中心とする6名の研究者は,複数の大庄屋文書を中心に庄屋,銀主および地役人文書など膨大な一次史料を解読することによって,本格的な地域研究をまとめられた。
 幕府直轄領では,正徳3年に大庄屋制度が廃止されたが,天草では2年足らずの内に復活し幕末まで存続した。近世後半には,大庄屋の役威はますます高まり代官をもしのぐほどだったとされ,天草はきわめて特殊な地域であると位置づけられてきた。本書は,この通説を批判的に検討し,天草の大庄屋制についてその実態に迫るとともに,地域社会における政治的・経済的権力構造の解明をめざしている。
 本書は大きく3編に分かれており,次のような構成になっている。
序章(志村洋・渡辺尚志)
第1編「天草の大庄屋制と地域社会」
第1章「18世紀半ばの幕領大庄屋」(志村洋),第2章「18世紀後半の統治制度と社会状況」(江島万利子),第3章「文化〜天保期の大庄屋と地域社会」(渡辺尚志)第4章「中間支配機構と商業高利貸資本」(志村洋)
第2編「天草の百姓相続方仕法と地域社会」
第5章「寛政8年百姓相続方仕法と村社会」(平野哲也),第6章「幕末維新期における百姓相続方仕法と請地出入」(後藤雅知)
第3編「天草の地役人と地域社会」
第7章「天草郡地役人の存在形態と問屋・船宿」(舟橋明宏),第8章「天草郡地役人江間家と地域社会」(舟橋明宏),第9章「天草郡地役人江間家の『御館入』関係について」(舟橋明宏)終章(渡辺尚志)
 序章では,最近の近世地域社会研究の批判的検討,大庄屋制度の全国的概観,近世天草の地域的特色が述べられる。各藩における大庄屋について,これまで個別報告の蓄積はあるものの,全国的な俯瞰を試みた分析は行われていない。ここでは,大庄屋制に関するデータが地方史研究の成果などから収集され,整理された。サンプルが必ずしも一様に取られたわけではないので全国的分布の解釈には慎重であるべきだが,それでも職務・管轄村数・役給・転任の有無・庄屋(名主)との兼帯について,そのヴァリエーションが明らかにされた。今後,大庄屋制研究の出発点となる有用なデータベースが構築されたと評価できる。
 つぎに第1編では,大庄屋を中心とする地域社会運営のあり方と,その変化が扱われている。天草では大庄屋制が復活すると,苗字・帯刀が相次いで認められ,幕末に向けてその役威がますます拡大したと解釈されてきた(大庄屋専横論)。本書では,これまでの研究が依拠してきた「大庄屋勤方書上」について再検討を行うとともに,「御用触写帳」「万覚」といった膨大な御用留史料を読み解き,大庄屋の行動を丹念に追いかけている。
 その中から見えてくるのは,大庄屋の権力が地域社会において突出していたわけではないということである。たとえば,各村の庄屋は必ずしも従順に大庄屋に従っていたわけではなく,職務内容からみても大庄屋・庄屋は同一の階層とみなせるという。また,陣屋の権威を利用するような振る舞いは確かに存在し,そのことは領主側からも問題にされていたが,一方では領主への嘆願にあたって陣屋と百姓代,つまり上下双方の階層と協調をはかるような場面もあった。そういう意味で,大庄屋はあくまで中間権力層であったと結論づけている。
 第2編においては,天草の近世史を特徴づける「百姓相続方仕法」の検討が行われた。この法令は,寛政5年以降,明治元年まで前後4回にわたって出されており,質流となった土地を一定期間以内であれば「元銀のみ」の返済で請け戻せるとするものである。高利貸商人である銀主(ぎんし)層はこの法令に対して猛烈に反対したが,大庄屋・庄屋層はむしろ小前の側に立って,法令の施行を後押しした。大庄屋・庄屋と銀主は,ともに上層農民として姻戚関係を結んでいたものの基本的には別のグループであり,庄屋層は潰百姓化の阻止という点で,むしろこの法令を支持する立場に立っていたと指摘する。また,銀主にとってこの法令が一方的に不利であったとする通説にも疑問を投げかけている。天草では,無年季に質地請戻しができるという慣行が存在する村もあった。この法令が,一定期間の過ぎた質地を質流としたのは,むしろ慣行を否定し幕府法の枠にはめこむ措置として評価できるし,請戻し条件が次第に厳しくされたのは,「土地所有権をめぐる争いに終止符を打ち,(最後の明治仕法においては)地租改正に道を開くという客観的意義を持っていた」と述べている。
 第3編では,天草の地役人である江間家の分析が行われた。地役人とは,幕領の堤方・関所・鉱山・山方などで任命された地付の役人のことであり,多くは地元の有力者から任命され,士分の地位を得ていた。本書で分析の対象とされる江間家は陣屋の置かれた富岡町で山方役を勤めた家である。
 地役人,つまり地付の役人ということばからは,在地性が強いという印象を受けるが,実際には転勤や転役も頻繁に行われており,手代など陣屋詰の下級役人にきわめて近かった。また,地役人の親類関係を分析すると,同じ地役人・宗教者・島原藩士などとの結びつきが強く大庄屋・庄屋・銀主などとの関係は薄い。したがって,少なくとも社会的には地役人と庄屋層は別個のグループであると見ている(ただし,ここで分析対象となった江間家は例外的に庄屋層との姻戚関係が多いことが判明している)。
 江間家について特に注目されるのは,地役人という幕府役人の最末端にいる存在でありながら,島原藩や肥後藩とのあいだに「御館入」という関係を結んでいたことである。御館(立)入とは,藩の「御召使」としてさまざまな役儀を勤め,扶持をうける関係のことである。江間家の場合は,もともと島原藩の陪臣であり,18世紀前半に幕府の地役人となった後も御館入として島原藩との関係を維持しつづけていた。さらに,嘉永年間には肥後藩とのあいだにも御館入の関係を結んでいる。
 本書は,御館入の制度が藩と江間家の双方に利益をもたらしたと分析する。御館入は,海防や海運などの世話役,領民間(幕領と藩領)のトラブル解決,産物移出入の世話などを勤めた。幕領と藩領にまたがる交渉において,江間家のようないわば「正式な位置付けがない」者は便利な存在であり,「一種のフィクサー」ではなかったとする評価は興味深い。
 本書は,近世天草という地域を取り上げ,領主と小前百姓の間に存在する中間権力,すなわち大庄屋・庄屋・年寄・百姓代・銀主・地役人などを分析した。そこから浮かぶもっとも重要な結論は,天草では,政治的支配層である大庄屋・庄屋と経済的支配層である銀主が並存し,そこに地役人のような「第三類型」が絡んでいたという権力構造が明らかにされたことだろう。
 ところで,本書では天草について,くりかえし「過剰人口」であったと述べている。確かに石高の割には人口が多く,近世においても「高不相応之多人数」といわれたほどであった。このような人口増加の理由として「天草に間引きの風習のなかったこと」があげられている。このような見方は,おそらく天草が他の地域にくらべて人口圧の高い,したがって貧困な地域であることを含意するだろう。しかし,人口については,まったく逆の見方も可能である。すなわち,農業以外の収入が十分に拡大し,結果として人口増加が生じたのだとすれば「過剰人口」であったといえるかどうか疑わしい。天草では,農業の他に山稼ぎや漁業が行われ,また近世後期には石炭や陶石などの採掘もさかんになった。このような非農業の拡大は,必然的に貨幣経済の発達をもたらしただろう。かつて,横山十四男氏は『百姓一揆と義民伝承』の中で,百姓一揆が多発したのは石高に対して人口の多いような,つまり現金収入へのアクセスが日常的に行なわれた地域であると述べたことがある。近世後半の天草において,質流地の返還要求が高まったこと,またその要求が,百姓一揆など暴力的な示威行為を背景としていたことが貨幣経済のあり方とどう結びつくのか,興味深い。
 本書は,天草のみならず,近世社会の政治・経済構造分析へ新しい視角を提示した労作である。この研究を一つの足がかりにして「地域社会論」をめぐる議論がますます高まることを期待したい。

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