著者名:有泉貞夫編『山梨近代史論集』
評 者:上山 和雄
掲載誌:「日本歴史」693(2006.2)

本書は、山梨県史編纂委員・近現代部会長として県史編さんに携わっておられる有泉貞夫氏の古稀を記念するため、編さん関係者が執筆された論文集である。山梨近現代史に詳しくもない筆者が評者として適切とは思われないが、関東の近現代地域史に関心を持つ者として、及ぶ範囲で各論文の内容を紹介し、責めをふさぐこととする。
 有泉「善光寺灯籠仏占い禁止前後」は、藤村紫朗県令が推進した勧業施策・学校建築・道路開鑿などの可視的な政策がどのような文脈で登場したのかを明らかにしている。佐野広乃を招き、「陋習」打破、啓蒙と教化を図るが、それらは人々に息苦しさを与え、政策の変化もあり布教活動は沈滞していった。藤村は人々の気分を転換し、同意調達のために新たな政策を展開し、藤村との関係が悪化した佐野は官を辞し、山梨県自由民権運動の中心になっていった。主テーマが大きく転換する明治初期をクリアーに整理した論文である。
 秋山敬「梵鐘売却一件」は、明治初年の山梨において梵鐘売却が頻発した原因を明らかにした論文である。学校建設のために梵鐘売却を強要する動きがあり、その対策として社寺の什器処分に際しては教部省の許可が必要となった。この売却許可申請と県営勧業製糸場建設の過程で購入された梵鐘とを比較し、大量の梵鐘が鋳物師たちに支給され、完工後も商人や鋳物師は将来の需要を見込んで蓄積したことを明らかにしている。
 加藤要一「明治の交通地理と道路県令」は、諸物価に鉄道開通が与えた影響を示した後、藤村と三島通庸の道路政策と成果について論じている。両地域とも道路の必要性は高かったが、種々の理由によって開鑿の成否・遅速が左右される。藤村が失敗するのに対して三島が成功した理由は、三島が中央に太いパイプを持ち、隣接県令とも気脈を通じ、中央の開発構想に乗り、広域の論理を駆使したからであるとする、説得的な論理展開である。
 佐藤弘「明治十七年の郡内地方における自由党員の動向」は、沈滞の中で郡内に党員が集中し、猿橋広徳館の設立など、解党直前にも活発な活動を展開したことを明らかにした。
 牛島利明「山梨県における中央線の開通と地域経済」は、鉄道開通が富士川舟運に大きな打撃を与えるとともに、県内産業や物価、沿線各地域に様々な影響を与え、甲府も多様な影響をこうむったことを示している。ただ、運賃負担力の高い甲斐絹を「鉄道開通の恩恵を享受した製品の代表的事例」としているが、加藤要一氏が指摘しているように、交通機関整備の恩恵を最も受けるのは重量安価物(六一頁)であり、生糸や絹はそう恩恵を受けないはずである。また、甲府卸商業の商圏拡大と縮小も述べているが、もう少し緻密な議論が必要とおもわれる。
 山本多佳子「日露戦争と山梨県民」は、実利・現実重視、観念的事柄に対して冷淡という県民性を持つ山梨県民が、日露戦争に際してとった態度を新聞資料によって検討する。県庁の勤倹貯蓄・農業技術指導などを冷ややかに見ていたものの、戦勝祝賀に際しては、したたかな計算のもとに商店街のカーニバルのような雰囲気を持つ行事を繰りかえし、そこに「国家の戦争のやり方への批判」を見ている。県民性なるものを十分に承知しないが、結論部分は全国に共通するようにも思われる。
 浅川保「若き日の湛山と兆民」は、湛山が兆民の『一年有半』に関して記した県立第一中学校時代の随筆と、東洋経済新報入社後のいくつかの評論の検討により、若き日に学んだ兆民やルソーの思想・生き方が湛山に少なからぬ影響を与えたことを明らかにしている。
 斎藤修・尾関学「第一次世界大戦前の山梨農村における消費の構造」は、三か村の村是調査により消費生活を検討したものである。冠婚葬祭など、農村生活に留意しながら、衣食住に関する数字を追い、衣・住支出は二割に過ぎず、食が圧倒的であり、非食料ストックのうち衣が二、三割を占め、近世と比較してその重要性が増したことを示している。
 島袋善弘「山梨県の物的純生産推計」は、生産価額を示す県統計から『長期経済統計』の付加価値率・純所得率を援用することにより、純生産価額を推計したものである。
 飯野正仁「『ハラショウ』と呼ばれた男」は、一九三〇年代初頭、農民と少年の闘争を主題に油絵・版画を残し、三二年には消えて行くプロレタリア美術家同盟員室順治(本名斎藤治良)の、山梨・東京における足跡を追った興味深い論文である。
 池上和夫「山梨殖産銀行の成立」は、多くの破綻銀行を輩出した峡西・峡南五行の再編を論じたものである。県債を発行して出資・融資を行った県是銀行は、岩手・日向・群馬の三行とされているが、峡西・峡南五行が正常債権を持寄り、出資を募り、中小商工業者への融資に県からの損失補償契約を得て設立した本行も県是銀行の一つとしている。
 中村章彦「湖上の攻防」は、河口湖水運の盛衰を記したものである。街道・鉄道交通との競合・補完を踏まえつつ、富士山麓・富士五湖の観光開発に伴う河口湖渡船業の発展と戦後の再編を述べ、麓鉄(富士急の前身)が押えていた交通・観光事業に、麓鉄自体の買収も視野に収めつつ進出してくる東急や小田急、それに対抗して零細業者を買収し、大手の進出を封じようとする麓鉄の動きを新聞記事や聞き取りによって明らかにしている。
 杉本仁・有泉貞夫「甲州選挙語彙」は、選挙を民俗事象の一つと見たて、流布している言葉の解説・分析によりその実態に迫ろうとするものである。「甲州選挙」の実態を地縁・血縁・ムラ、義理・人情・儀式、中傷・カネ・利権にまとめているが、それらは程度の差こそあれ、日本各地に共通するものである。しかし、オトボレー市長・無尽市長・無尽県議・仲人会などを提示されると、改めて驚かされる。「甲州選挙」を象徴するものとして「金丸信的」なるものが描かれているように、山梨県政治史の側面史・裏面史たりえている。
 白倉一由「宮崎汀亀とその俳諧」は、韮崎で活動し、一七九七年に没した蕉風の俳人宮崎汀亀と近辺の俳人の活動を紹介し、宮崎が八ヶ岳山麓の代表的俳人であったとしている。
 大門正克「有泉貞夫氏の『思考の始まる場所』−一九六〇年代の国会図書館−」は、氏の論文三点をもとに、歴史認識がどのように形成されたのかを追究しようとした論考である。氏の主要なテーマは、社会主義の理想と現実、進行する高度経済成長の二つをどう理解するかにあり、それらは同時代の歴史研究者の共有する課題でもあった。有泉氏は前者からカーの研究に踏み込み、後者からは日露戦後の欲望水準高度化に関心を深めて行ったとする。氏の関心を温め、孵化させる役割を果たしたのが、読書会であり実践の場でもあった国立国会図書館職員組合サークル六月会だったとしている。
 色川大吉「有泉さんと共に三十八年」は、長い交友を温かく振りかえっている。
 最後に有泉氏の年譜と著作目録が付されている。
 不十分な紹介と書評ではあるが、有泉氏の著作から多くを学んだ世代の一人として、またその世代の苦悩を知る世代の一人として、氏の古稀を祝う論文集が刊行されたことを心からお祝いしたい。         (うえやま・かずお 國學院大學文学部教授)
 
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