著者名:井上定幸著『近世の北関東と商品流通』
評 者:和泉 清司
掲載誌:「日本歴史」693(2006.2)

著者は長年、群馬県における地方史誌の編纂や上州(群馬県)地方史・地域史研究の指導的役割を果たしてきた歴史研究者である。
 本書は、その著者が長年フィールド・ワークとしてきた上州の近世史における農村構造、農民家族形態、領主年貢米の地払いと流通形態、農民的米穀市場の形成と流通形態、上州麻や煙草など商品作物の流通形態、生糸・繭の流通形態などについて従来の群馬県史や雑誌等に掲載された諸論稿に新たな視点を加えて改稿したもので、いわば上州近世史の総合的な研究の集大成である。
 本書の内容は以下のようになっている。

  T 農村の家族形態と雇用
 第一章 近世における農村構造と家族形態に関する一考察
 第二章 近世期農村奉公人の展開過程
  U 領主米の地払いと流通
 第三章 高崎藩城米のゆくえ
 第四章 旗本領における貢租米の地払い形態
  V 信州米と越後米の流入
 第五章 西上州における信州米市場をめぐる市立て紛争の展開
 第六章 上州沼田藩領における米穀流通統制
  W 特産物の生産と流通
 第七章 近世西上州における麻荷主の経営動向
 第八章 館煙草の流通をめぐる二、三の問題
  X 製糸地帯の形成と糸繭商人
 第九章 幕末・維新期東上州における糸繭商人の実像
 第十章 横浜開港後における越後生糸・繭の関東流入形態

 Tの農村の家族形態と雇用では、第一章で上州における農村構造と家族形態の関係について元禄から享保段階までの家族の血縁形態を丹念に分析され、小農民自立の展開を背景に二・三男の分家が広く展開していく様子が描き出されている。また第二章で、養蚕地帯における奉公人の展開によって農村労働力の変化をきたしたこと、豪農経営にもこれら大量の奉公人が採用され豪農経営および養蚕経営が一層展開した過程が描かれている。
 Uの領主米の地払いと流通では、第三章で高崎藩の城米の地払いと払米制度を分析する一方、払米の流通が先の高崎藩領に限らず広範囲に及んでいることを明らかにしている。第四章では、旗本久永氏の知行所における年貢米の地払いについて豪農が担う陣屋元の財政収支を分析し、旗本財政がこれら豪農に依存していた実態を描いている。これは川村優氏らの旗本財政の研究と軌を一つにするものでこの方面の研究を一層発展させるものといえよう。
 Vの信州米と越後米の流入では、第五章で天明五年の西牧本宿村と市野萱村との穀市立て訴訟の分析を通して、西上州における信州米の流入と新興市との争いについて詳細に考察している。このような旧来からの市と新興市との争いは近世後期になると、上州各地で頻繁に起きており、他所の紛争の状況とも比較しつつ、実証的な研究の積み重ねによって上州における商品流通の全体像が解明されてくるであろう。第六章では、沼田藩領において越後から流入していた米の統制と米相場をめぐって藩の津留政策について考察しているが、この津留政策が領主財政とどのようにかかわるのか、その点の考察がほしかった。
 Wの特産物の生産と流通では第七章で近世西上州下仁田における麻の集荷と販売経路をめぐって麻荷主の経営動向について経営帳簿の分析を通して詳細に考察している。これによれば、江戸や近江へ多数出荷されていることが窺え、生糸・絹織物以外でも上州が全国的な流通体系の中にあったことが窺われる。第八章では、近世において全国的に著名であった高崎館地域の煙草の流通をめぐって産地荷主と仲買人・職人との確執・争論について考察したものであるが、著者も指摘しているように史料の残存が少ないので、争論の詳細が知り得ないのが残念である。今後の展開を期待したい。
 Vの製糸地帯の形成と糸繭商人では、第九章で幕末・維新期の東上州山田郡大間々糸繭市場の形成過程と同郡塩原村における糸繭商人草高木家の経営について考察し、ついで第十章ではその生糸・繭の流通をめぐって幕末開港後、上州八木沢番所における越後生糸・繭が関東の桐生や伊勢崎などへ上州絹の原糸として流入や開港場の横浜へ流入した形態について史料を丹念に分析されて考察したものである。前者では草高木家が初めは大間々市場での売買や利根・沼田方面への出買を行っていたが、横浜開港以後は需要の高まりとともに武州・信州・奥州などの繭産地へも出買を行い、それによって経営を大きく延ばしていく過程を解明している。また後者では、同じく開港後、横浜へ生糸が多数流出したため絹織物生産地帯においてはその流出分を越後から補充していたことなどを明らかしている。いずれにしても生糸の大生産地上州にあっても、幕末期には不足をきたし、他国から補充していたことなどは大変興味深い指摘である。

 以上個別論文の集成によりやや論点が広がりすぎるというきらいはあるものの、多岐にわたる内容であるため限られた紙数で述べることは評者の能力もあって十分ではないが、本書は上州における膨大な史料を丹念に収拾・分析して導き出した理論であるだけに十分説得力のあるものであり、近世上州における商品流通や農村構造・農村労働力などの個別研究の分野の必読書であるのみならず、上州の近世史の全体像を明らかにする上でも重要な一書となるものと確信する。
 なお脱稿後、井上氏の訃報に接した。ご冥福をお祈りするものである。
               (いずみ・せいじ 高崎経済大学地域政策学部教授)
 
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