著者名:瀧音能之編『日本古代の鄙と都』
評 者:亀谷 弘明
掲載誌:日本史攷究 29(2005.11)

本書はヴェテランの手堅い論文から中堅・若手の力作・意欲作まで八編を収める。個別論文集であるものの、鄙=地方・民衆、都=中央・貴族という二つの視点を設定し、鄙からの視座、都からの視座、鄙と都の間の交流という視座から、古代史を論じようとした書である。「T鄙からの視座」は、瀧音能之「古代出雲と朝鮮半島」、杉山浩平「東日本弥生社会における大陸系磨製石器の出現」、石津輝真「神宮寺の機能と運営主体」、茂木直人「地方における祥瑞の意義」の四論攷からなる。「U都の諸様相」は、李在硯「大化前代における大臣の位相」、古谷紋子「道鏡の「赤皮[クツ]」」、八馬朱代「十世紀における石清水八幡宮と境界意識について」、鈴木織恵「平安時代の皇后附属職司長官の変遷について」の四論攷からなる。

 まず、「T鄙からの視座」の瀧音論文は、古代出雲地域と朝鮮半島との関係を『出雲国風土記』所載の韓[金+至]社と加夜社の二社から検討する。次に杉山論文は、弥生時代前期から中期における東日本地域の大陸系磨製石器の出現について検討した力作。本州島中央部と東北地方北部・仙台湾沿岸とのその導入のされ方の違いを指摘する。石津論文は八、九世紀のいわゆる初期神宮寺の運営について各地の例を史料に即して検討。その運営主体は統一された形式を持たず、経典安置の空間としての機能があったとする。ただ各地の神宮寺でなぜ統一的な運営形式が採られなかったのか知りたいところである。茂木論文は『続日本紀』の祥瑞献上記事を、献上した側の地域の立場から検討する。地域への利益として、国司・郡司への考課・叙位、地域への免税などを挙げる。中央から派遣される国司と地域勢力の郡司との立場の違いはなかったのだろうか。李論文は群臣会議での意思決定における大臣と大夫との違い、殯宮儀礼における「代理誄」などから、六世紀と七世紀の大臣の地位に質的変化があり、「オホオミ」から「オホマエツキミ」に位相したとする。

 「U都の諸様相」では、まず、古谷論文が源帥房の日記『土右記』の中の後朱雀天皇の礼服御覧にみえる「道鏡の赤皮[クツ]」に注目して、律令官人、天皇・皇后、僧侶のクツを検討し、道鏡の「赤皮[クツ]」は仏事の際に使用したものではなく、神護景雲三年(七六九)正月三日に朝賀を受けた時に履いたものであるとする。また、『続日本紀』の道鏡観は問題とする。八馬論文は従来あまり検討されなかった「八幡新宮破却事件」に注目した好論。この事件は石清水八幡宮の新宮の放生会が本宮の法会の日と同じ日であったことに端を発し、道俗数千人が新宮に向かい神社を壊し、尼を捕らえその霊像を本宮に移したという事件である。新宮の八幡信仰の性格は、所在する山科(粟田口)が境界地域であり、都の人々の「疫神」祭祀と病気平癒・病除が結びついたものであったとする。鈴木論文は、藤原光明子から後一条皇后までの皇后在位中の皇后附属職司長官の大夫と権大夫について、T期(藤原光明子〜井上内親王)、U期(藤原乙牟漏〜正子内親王)、V期(藤原穏子〜藤原威子)の三時期に区分し詳細かつ大胆に分析した力作。平安時代中期の皇后不在期(U期とV期の間)に画期があるとし、V期以降、大夫の官位も令の規定よりも高く、大夫や亮の人事において、次第に皇后や皇后の両親との血縁・姻戚が重視されるようになるとする。

 以上、各論文に都と鄙という視座が垣間見られる。欲をいえば、瀧音論文で従来の古代地域史研究においては各々の地域と中央政権との関係の考察に大きなウェイトが占められてきたのに対し、各々の地域とその隣接地域との関係性の究明の必要が提起されている。ところが、その問題については、本書では、史資料の少なさからか、瀧音・杉山論文以外では扱われていない。これは、本書だけの問題ではなく、古代地域史研究の課題であるのかもしれない。

 
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