著者名:渡辺和敏著『東海道交通施設と幕藩制社会』
評 者:丸山 雍成
掲載誌:「交通史研究」58(2005.12)

  一
 本書は、東海道の街道・宿駅・関所や河川交通などに優れた業績を挙げてきた斯界の第一人者、渡辺和敏氏の前著『近世交通制度の研究』 に続く、本格的で力感あふれる研究書である。本書の「あとがき」には、序章と第一章が新稿で、残り第十三章までは自治体史の編纂や共同研究の分担執筆などが多い、と書かれているが、もちろん純然たる個人研究や依頼の執筆分もふくまれている。
 著者はまた、江戸時代の交通史を執筆する際は、まず全般的な交通制度史を可能なかぎり解明し、次に陸上交通・街道の諸施設とその利用者との関係をさぐり、最終的には全階層の旅人の実相を検討する、という三段階に分け、交通をハード面から解明して、逐次ソフト面を広範に紹介するのが重要だとする。この場合、本書はその第二段階に相当するというが、これは近年の近世陸上交通史のうち、ハード面からソフト面への過渡的研究として位置づけられ、無視できぬ内容の研究書といえよう。

   二
 著者は、本書が東海道全域を対象としたものではなく、その中間地域の遠江・三河国内に地域を限定しながら江戸時代のほぼ全期間を対象としていると、あらかじめ断っているが、その分析視角と高度な内容で一定の普遍性をもっているならば、地域の限定など問題ではない。
 本書の全体的な内容は、第一部が「街道と宿場」、第二部が「関所と川越」というように、旅人を支援した交通施設と、旅の障害となる施設をそれぞれ対象とする。それに先だつ序章では、「江戸時代における東海道交通施設の再検討」として、五街道等の宿場研究の先行著書若干を掲げたうえで、江戸時代の「道」の問題について、交通史上の制度的な五街道・付属街道・脇往還・脇道、さらに村落史・民俗研究などでいう各「ミチ」を総合的に把握しながら、最も交通量の多い東海道を論ずる、としている。次いで、第一・第二部と第一章以下の概要を説明した後、改めて第一〜十三章の研究史的意義にふれている。
 これによって、読者は各章の内容と著者の意図する論点を早く理解し、研究史的意義を把握できるが、それには各章の論理構成と史料的裏付けを直接検討することが必要であろう。次に各章と附論の標題を掲げる。
 第一章 東海道の宿立と初期交通行政
 第二章 二川宿の本陣役を継承した馬場家の経営
  附論1  本陣
 第三章 新居宿旅籠の紀伊国屋
 第四章 二川宿の本陣・旅籠屋と立場茶屋の係争
 第五章 幕末における舞坂宿の宿財政
 第六章 御油の松並木
 第七章 秋葉信仰と秋葉道
  附論2 本坂通(姫街道)
 第八章 吉田湊から出港する参宮船(以上、第一部)
 第九章 江戸時代初期の女手形にみる関所機能
 第十章 関所と口留番所
  附論3  旅の障害
 第十一章 箱根関所の北方に配置された裏関所
 第十二章 東海道天竜川渡船に関する諸問題
 第十三草 幕末における江戸周辺の関門(以上、第二部)

   三
 次には、序章が示す論点、研究史的意義と、各章の具体的論証を併せ見ながら、それぞれの要旨を紹介しよう。
 第一章では、東海道御油・赤坂宿の成立事情を中心に検討し、東海道の宿立ての準備が関ヶ原の戦後の慶長五年暮れから各宿伝馬五〇疋の予定で作業が準備されながらも、翌六年正月の両宿設置によって早くも矛盾が露呈した、という。その後は、幕府の宿場政策の拡充志向に反して機能が低下し、改廃をみる宿場や街道もあったが、これは駿府・江戸の二元政治と、駿府城主が徳川頼宣・同忠長だったためで、忠長の改易後は幕府の一元支配が進む。そして、元和二年の箱根など三宿、同九年の川崎など二宿の起立または着手によって五十三宿が出揃った、とする。
 第二章では、二川宿の本陣役を素材として経営状態を検討している。同宿の本陣・問屋・名主役などを勤め、享保十三年に持高一〇九石余の手作地主後藤家が火災その他で没落、その名跡をついだ紅林家の分家は安永九年に持高七四石余なるも本陣経営に行きづまり、文化三年には持高六石余に減少、同年末の宿内大火で類焼して本陣役を返上した。跡役には、伊勢より移住して農業経営をし、酒造業・米穀商に質屋兼営を通じて、安永七年に持高六八石だった馬場家が引きついだ。同家は本陣の継承後、すぐ赤字経営となり質草を売却、雇人を減少するも再建できず、所持田畑の売却金を元手に金貸業を復活、その商才を発揮して自家建物の賃貸、家族の内職などもし、嘉永元年以降は黒字経営に転じ、同六年頃には資産を旧に復した、とする。
 附論1は、前章を補う概説で、簡要な叙述なので、本陣一般を理解するには役立つ内容である。
 第三章では、東海道各宿の旅籠屋は元禄期前後が数的に最も多いが、ここでは新居宿最大の旅籠屋紀伊国屋を素材として検討する。同家は、近世初期の掛茶屋から出発して、和歌山藩の御用達、そして元禄年中には同藩の御用宿・船割宿を、次いで他大名・旗本の船割宿を勤めた。そして、殆どの講宿として独占化を進め、宿内の中小宿籠屋との階層的対立も顕著化して、後者は飯盛女を置くなどしたという。なお、同家での旅の武士の借金の状況なども興味深く紹介されている。
 第四章では、二川宿の本陣・旅籠屋に休泊するはずの幕府役人・諸大名を、同宿の加宿大岩町の茶屋が横取りした結果、両者の関係は険悪化するが、これは諸大名らの財政窮乏のためでもあり、大通行時には本陣以外に加宿の茶屋にまで下宿を引きうけさせる共存関係からきていたし、本陣が茶屋に刎銭を要求したことも逆効果となった、とする。他方、大山石村が商人宿を営業して二川宿と係争を生じたが、その背景に伝馬役負担の問題があった。
 第五章では、文久元年・慶応二年の舞坂宿の財政を検討している。同宿の人馬継立は浜松宿までの片継ぎ、浜名湖の渡船場は荷物の揚げ下ろし人足を提供するのみで、往還稼ぎ以外は漁業を生業とし、このため宿財政は構造的に逼迫化する。一方、天保改革での幕府貸は金政策の仕法替えと、その後の不完全な「復活」が宿財政計画に悪影響をおよぼし、文久元年の宿財政収支の赤字額、金四三一両余だけで同年の総収入を超え(※年間の支出が収入の二倍以上)、慶応二年は物価高騰の財政規模が先の三倍(※収支の比率は同じ)になったという。赤字の補填方法は、伝馬役からの徴収金と幕府からの拝借金、それに寺院の祠堂金と一般的借金であって、赤字が赤字をうむ体質だ、と指摘する。
 第六章では、慶長十二年来日の朝鮮通信使の記録に、中山道守山宿辺や東海道吉田〜浜松宿間に並松などの記事があるので、同九年はそれ以前の並木を土台として整備・拡充したとし、幕府の並木政策にふれたうえで、御油近辺の松並木景観を一覧表にし、大小の樹木数と年次的変遷を明らかにする。そして、松並木の損傷、伐採、補植とその植付間隔、根付率などまで示し、それを担ったのが往還掃除丁場の宿村だった、という。
 第七章では、火難除けなどの秋葉信仰が普及して、東海道の旅人が景観の異なる山道を周遊コースに取りこむ一方、種々の道中記類や地図等にも書かれて、大多数の東海道の旅人が往復のいずれかで秋葉道を利用した。この道は西遠江・東三河・南信濃の各地域をむすぶ内陸交通路で、人馬継立組織や休泊施設もでき、荷物輸送に女性も活躍したが、ここは東海道今切(新居)、本坂通気賀の両関所を避ける抜道で、幕府はこの道の利用が関所破りにならぬよう天竜川流域の渡船場に関所機能をあたえて、建前を取りつくろった、とする。
 附論2では、本坂通(姫街道)の名称と、東海道からの分岐点、コースに関する大山敷太郎氏と地元研究者との論争にふれ、この道筋が東海道の附属街道として道中奉行の管轄下に入る経緯を述べ、姫街道の呼称についての著者の旧説にも再検討を加えている。
 第八章では、東海道吉田宿の船町から年間・伊勢参宮者数千人、御陰参りでは一万数千人を伊勢まで直輸送した参宮船の運航権をめぐる問題にふれる。この場合、吉田船町以外の周辺村落でも伊勢参宮船を運航しはじめて、両者の紛争が生じる一方、桑名七里渡しの熱田(宮)宿や佐屋路の佐屋宿とも訴訟となったが、いずれも吉田船町の運航独占権が幕府に公認された経緯と、それが幕末期に崩壊する過程を述べている。
 第九章では、近時新発見の新居宿旧本陣飯田家の最古の女手形、特に元和元年のもの三点と、同年と同五年の借金証文や女手形申請状二点、その他を素材として、近世初期の関所政策を論じている。それによると、江戸・駿府の将軍・大御所の二元政治の下では、双方に関所手形の発行権者がいて、女性自身も女手形の申請ができ、その文言には人身売買の風潮が反映しており、当初の関所は人身売買による人口移動を阻止して、小農自立を側面から推進していた、とする。
 第十章では、幕府・諸藩の関所・番所の存在形態や意義・作用について、従来の定説に若干の訂正論を呈すると述べ、関所機能の基幹である「入鉄炮に出女」は寛永年間に方向性を確定する一方、それ以降の商品流通にも対応、出女は大名の人質逃亡のほか一般女性の移動制限、人口確保策の反映だとする。また、幕府は「私関」を禁ずる一方、津留を大目に見たので、諸藩はそれを利用して口留番所を設置したが、小規模な関所や番所などには流通商品から分一運上を徴収するものもあった。大規模な関所でも関所抜けがあったが、その行為は社会体制を崩壊させるものでなく、関所ではその捜索・取締りを徹底させなかった、ともいう。
 附論3では、旅の障害要因となる領主の規制、関所・川越(渡船・徒渉)制度の実態にふれ、従来見のがされてきた史実などにふれ、山道・雪道や盗難・旅人接待を述べる。
 第十一章では、箱根関所の裏関である矢倉沢(他国の男性旅人は検閲して通関、女は通関不可)、仙石原・川村・谷ヶ村(他国の男性はすべて通関不可) を取りあげ、その施設・役人数、地元村々による関所での検閲・警備・普請への協力態勢や特典・運上徴収などを詳述し、関所の存在は周辺村々の日常生活を厳しく制限するものではない、と指摘する。
 第十二章では、天竜川とその支流馬入川の池田村、船越一色村の船頭衆保護に関する、徳川家康の天正三年朱印状などにふれ、十七世紀前半の渡船場の移動と、馬入川の架橋により渡船運営権を喪失した船越村が天竜川へ新規参入し、池田村と船越村が三対一の割合で運営するに至った経緯を述べる。また、大通行時の渡船場の定助・加助船と人足・差村、琉球使節・朝鮮通信使や明治天皇の通行時の状況、さらに天竜川の決壊時の東海道の道路への河水流入と往還仮渡船、そして渡船賃以外の船勧進の徴集、そして右の渡船運営の独占を打破していく横越渡船にもふれる。
 第十三章では、幕末期の横浜開港後、幕府はその周辺の要所七ヵ所に関門を、数十ヵ所に見張番所を設けて、横浜の長崎出島化を意図し、さらに東海道筋の多摩川・相模川・鶴見川の渡船場にも増設したが、これは対外的のほか国内的要因、打ちこわしの防止策でもある、とする。そして、将軍徳川家茂の上洛とも関連して、文久三年に五街道筋の江戸端四宿にも番所を設け、さらに脇往還の江戸出口や関東地方の河岸にまで関門をひろげ、伝統的な箱根関所などよりも新設の関門が厳重な検閲体制を布いたが、これは関東以外の諸街道の要地や城下町、京坂周辺でも、さらに地域住民が自ら設置した例もある、とする。

   四
 本書は、右に紹介したように優れた力作であり、多くの新見解も出されて通説化も予測される性格の研究書である。もっとも、その通説化には厳格な学問的批判をクリアする必要があるが、評者としても各章を徹底的に検証したうえで云々すべきながら、ここでは紙数の関係から若干の印象的感想にとどめ、詳細は今後の拙著にゆずりたいと思う。
 第一章では、伊奈忠次が慶長五年十二月付で「五井赤坂両宿」へ宛てた書状の「一宿へ五拾疋ツゝニ相定、屋敷可被下候由御意候、赤坂へ廿五疋、五井(御油)へ廿五疋、両宿へ可申付由御意候」なる文言から、東海道の「御油・赤坂宿間は短距離なので、両宿を合せて一宿とし、それぞれに伝馬二五疋ずつを常備させる予定」だったとするが、これは東海道各宿の常備人馬を五〇疋→三六疋→(七五疋?)→一〇〇人一〇〇疋の推移とする点で、新説となろう。もっとも、五井・赤坂両宿を合せて一宿なのかは史料の解釈次第で、二五疋予定説も生じうる。なお、寛永元年指定の庄野宿が、鈴鹿川対岸の古庄野の集落よりの移住ではなく、それ自体の住民増加策による宿立だと主張される史料的根拠は何であろうか。
 第二章の馬場家の本陣経営が「質屋・金貸」によって再建・維持されたことは、先行の後藤・紅林両家が地主手作経営の崩壊を背景とするのと、まさに好対蹠である。馬場家は寄生地主への転換さえも避けて、高利貸経営によって生きのび、前二家は地主手作経営の矛盾増大を随伴しつつ没落したのである。著者が要望される「根本的な経営方法の再検討」は、馬場本陣収支一覧表の13〜16・20・23・33・34の数値の変化がよく示しているはずである。
 第三章は、紀伊国屋という特殊事例が中心でありながら、宿内旅籠屋の変貌さえうかがわせる興味深い研究であり、第四章も宿駅本陣と立場茶屋の対抗関係などを現地史料にょって具体的に示した意義は高く評価される。
 第五章の舞坂宿の宿財政については、一般的な宿駅制度の矛盾のほか、前項にみる理由に加え、宿住民の伝馬・人足の減少と幕府による貸付利金(御下ゲ金)の受給不足額を挙げ、商荷輸送用の運河掘鑿計画にもふれている。宿駅制度の矛盾とは人馬の公用使用者の特権的運賃体系などをさすが、ここで重要なのは舞坂宿収支一覧表をどう読み取るかであって、これこそが宿財政問題を解くカギとなる。ちなみに、収入部分では、伝馬役負担者の月掛・日掛銭や賃銭割増分(1・4〜10・20〜22)、宿助郷の人馬賃銭・庸代(20〜22)など、支出部分では、宿助郷の伝馬関係(25〜32・50・62・64)と休泊(御用宿足銭33)があるが、前者が大宗を占める。これ以上の言及は不要であろう。
 第六章は、松並木を現代でも引きつづき生育させ、生活環境や美的景観の保全に寄与しようとするものであり、第七章は秋葉信仰・山道景観を歴史過程とのからみで詳述していて評価される。附論2の本坂通・姫街道の問題については、かつて評者も陋見を呈したりしたが、著者はその後の史料博捜により整合的に説明、長年の懸案を解決した。
 第八章は、幕藩権力の特別の政治的庇護の下、伊勢参宮船運航の独占権を行使しながら、しだいに新しい勢力によって打破されていく歴史のうねりがよく描かれていて、興味深い。
 第九章は、近世初期の女手形により、当時の関所機能が関ヶ原の戦、大坂の陣とその戦後処理のためと指摘する点は首肯できるが、それに関連しての人質逃亡や人口減少の防止策、そして元和二年の人身売買禁令以降これも検閲対象とする、との評価は、なお慎重を要しよう。史料61・62の「売買ものにても、又ハ出入有之女にても無御座候間」との断り書は、通関者が独立した個人格、または紛争を生じない女性たるを保障した文言である。
 第十章において、海の関所として相模の下田番所および三崎・走水番所を簡要に述べたのはよいが、幕府の対外的な「格別」の関所、長崎の西泊・戸町番所にも是非ふれてほしかった。次に、関所機能に関して、本書は各論者を、@政治的(大山敷太郎・五十嵐富夫)、A治安警察的(双川喜文)、H軍事的(丸山雍成)、C社会的(渡辺和敏)、D経済的(同上)に区分するが、実際には大山氏は「政治的要素の強い警察的機能」とみる点で、双川氏の「政治警察機能」論に近く、評者丸山は「軍事に政治、それに警察機能が加味」されるが、それは矛盾関係の転化に対応する、としている。C・Dはともかく、他は正確に区分すべきであろう。
 関所と口留番所の区別について、評者は本州中央部の幕領・私領(藩・旗本領)のうち、江戸防衛に不可分の交通の要衝上にある戦国以来の関所、および口留番所等を幕府の関所に格付し、在地の領主・代官に管理を委託して幕府法を適用、このため純然たる関所(「重キ関所」)と、口留番所でありながら関所格のもの(「軽キ関所」など)とから構成されたとみる。これが流通機能(運上徴収)、関所(番所)破りの処罰の差として、幕府法と領主法とが適宜適用されると見なければならず、評者と著者の見解の差は大きい。
 第十一章は、箱根裏関所群の研究水準を大きく引き上げた点で評価されるが、関所としてでなく口留番所の流通機能(運上徴収)に関する理解の問題が残る。第十二章は、すぐれた労作で敬服のほかないが、松井秀次「近世における天竜川の渡船制度」(『史潮』四四号、一九五一年)以下の研究史を捨象し、その批判もなされていないのは渡船史料がきわめて豊富で、ふれる必要がなかったからだろうか。第十三章は、幕末期の関所研究上、必読論文である。これは本州は京坂周辺までのみならず、北部九州でも確認される。

 以上、数々の忌憚なき評言を繰り返したが、それは本書のすぐれた価値とは無関係であって、東海道をはじめ諸街道の宿駅・関所・水上交通の研究に多大の寄与をなす業績といえよう。

 
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