著者名:湯浅治久著『中世東国の地域社会史』
評 者:中山 文人
掲載誌:「千葉史学」47(2005.11)

個別分散化の弊が指摘されて久しい歴史学にあって、短時日のうちに畿内近国と南関東で個別論文集を編む。これはひとつの事件である。さらに宗教史料を多用しつつも従来の寺家文書にとどまらず、紙背文書・聖教・曼荼羅本尊・金石文・棟札・過去帳・寺伝・僧伝・著作物、また物語・近世文書・地籍図・地名・屋号等を素材とするなど、近年の史料論の多様化を如実に反映している点も注目に値しょう。
 著者の姿勢は、「序章」の「「地域社会史」の方法にもとづき、鎌倉〜室町期における東国社会の特質について、宗教・在地構造・地域経済といったタームから解明することをめざした」という一節に集約される(「宗教」以下の項目はそのまま第一部〜第三部の構成に一致)。加えて留意されるべきは、研究が「「東国の固有性」を常に意識して進められてきた」ことである。これらを意識しつつ本書を紹介し、また若干の謬想を加えることにしたい。

 「宗教」を扱った「第一部 東国寺院と地域社会」には、千葉県市川市中山所在の日蓮宗法華経寺の史料群を多角的に検討・駆使した論考が並ぶ。
 「第一章 東国の日蓮宗」は、あらゆる意味で本書全体のイントロダクションの役目を果たしていよう。この、いわば総論でもっとも重要な点は、南北朝・室町期の東国社会を宗教史料を通してみることの有効性が、的確に示されたことである。一四世紀における中山門流や朗門流の「京上」の意味の捉え直しと一五世紀代のそれとの相違につき、後者を政治権力による宗教の取り込みと理解したり、法華僧が行き来する下総−鎌倉の流通ルートは、従来から律宗が確保していたそれに便乗したものなること、郷村レベルでの顕著な雑宗性から照射される百姓・地域領主の関係、教線の拡大が「都市的な場」から「村」・「辻の堂」へと進展してゆく現象を無縁の原理と領主の関係性から説明する等々のことがらが、宗派・宗門の枠を越えた東国の実像として炙り出されてゆく。寺家が多様な回路を有する社会的な存在、それもきわめて大きな存在であることが了解される。そこには著者が意図した、京都での華やかとも言える日蓮宗の布教とは別個の、地域社会を巻き込んだ独自な展開が看取され、同時に受容する俗世間の側にとっても、宗教的紐帯は不可欠なネットワークとして機能したことを論ずる以下の章のダイジェストとなっている。
 「第二章 東国寺院の所領と安堵」は、法華経寺と鎌倉および室町幕府・鎌倉府・守護千葉氏との関係を、寺領の安堵という側面から追究したもの。一四世紀前半から一五世紀前半に至る安堵のされ方を子細に検討した上、「安堵とは、あえて極論すれば誰の安堵であるかが問題ではなく、安堵の事実とその文書自体が、歴史的事実として蓄積されていくことが必要であった」との結論に達する。これは安堵主体が幕府→鎌倉府→守護と変化していく過程を追いつつも、権力・権限の下降分有という定型的な考え方に拠らず、寺領の形成史の立場から導かれたものである。
 「附論1 東国寺院史料の伝来と宝蔵」・「附論2 六浦上行寺の成立とその時代」では、法華経寺史料群の簡潔な解説と、同寺からみた「都市的な場」武蔵国六浦の様相や下総国千田庄との関わりが明らかにされる。自筆本・書写本を問わず、日蓮の著作が寺外の有力信徒から天台宗・律宗の寺院にまで預け置かれまた借用される現象自体が地方寺院の一特色であり、布教の手段でもあったと考える。そしてそれら「聖教が宗派を越えて「流通」」する事態の前提として「縁の世界の広汎な広がり」を想定している。とくに附論2で強調されるが、日蓮宗の排他性という通説を覆す「都市的な場」六浦と六浦氏の析出が鮮烈な印象を残す。
 「附論3 史料としての曼荼羅本尊」では、法華経寺の三代貫首日祐が作成した曼荼羅本尊の形態・伝来と、授受の意味合いを検討する。日祐は「半切」形式の小型本尊を大量に作成・授与した形跡が濃厚であり、これは「日祐の活動により教線が伸長した事実と表裏一体」と見なし得る。さらに日祐他中山系寺僧の俗縁関係、在地の板本尊や板碑の交名などから、上総本一揆(一四一八〜一九年)につき「日蓮宗の信仰を媒介とした埴谷氏と胤貞流千葉氏の結びつきは、この一揆を担った人々の結合である可能性がきわめて高い」と判断する。政治的結合の前提に宗教的紐帯を見出すことで、当該一揆の性格をも規定する重要な指摘である。

 「在地構造」を論じた「第二部 東国「郷村」社会の展開」のキーワードは「郷村」で、とりわけ「「郷」固有の役割や意義を追究」する姿勢が顕著である。
 「第三章 室町期東国の荘園公領制と「郷村」社会」は西上総の郷荘の分析。地域の特性として、荘園公領制が再編されつつ一五世紀前半まで一定度維持されるとみなした上で、畔蒜庄横田郷ほかを分析する。大小の宗教遺物や棟札の交名から浮かび上がるのは、一五〜一六世紀の大名にとどまらず、郷村の領主−有姓侍層−無姓百姓といった重層性を持つ結衆の世界である。とくに一六世紀に顕著な侍層は「「横断的な階層」を構成しており、衆として「郷村」を主導する立場に」あったゆえに郷村の枠を越えた活動も顕著だが、彼らの広範な活動は「「結衆」の原理で地域に編成」する各「「郷村」の受け皿」あってこそ成り立つ、と結論付ける。また横田郷の場合、宿の形成に伴って「交通集落として再編」された結果、近世に至っても村切りされることなく大村として存続したと解釈する。
 「第四章 中世郷村の変貌」は、同様の問題意識を下総国八幡庄大野郷に限定して掘り下げたもの。近代・近世データから遡及的に中世を構築する東国村落史研究の手法を踏襲し、検地帳・地名・屋号・『本土寺過去帳』等を文字通り駆使して復元される郷の景観や集落の前後関係といった分析は、良質なフィールド・ワークと評し得よう。さらに新旧地域領主と本土寺・法華経寺の関わり、そして一五世紀における「城郭を主体とした大野郷=庶子系原氏の本拠という認識は、大野郷の一体性を担保する要件として作用したものと思われる」と、横田郷同様の現象(近世における大村に結果する)を、ここでは政治権力の要因から説明を試みている。なお本章が景観復元と地域領主の分析、その相互関連に多くの紙面を割きながら、最後に一六世紀における大野郷民(とくに侍衆)の政治的主体性を強く示唆して終わる点からは、著者の一貫した問題意識が看取されよう。
 「第五章 中世〜近世における葛西御厨の「郷村」の展開」は、『武蔵国田園簿』から『旧高旧領取調帳』まで四種の帳簿により東京低地の一角における水田の状況を概観することで、「近世初頭までにかなりの開発可能な耕地が開発され」たことが分かるゆえに「中世の開発の達成度の高さを示」すと解釈、さらに一四世紀末の「葛西御厨田数注文」と一六世紀半ばの『小田原衆所領役帳』での地名の対比から、開発の順序をも推定する。これまで鎌倉期の葛西氏、あるいは一四世紀末前後の農民闘争史といった考察に偏していた葛西御厨を、通時代的に見ることを可能にした初めての論考といえよう。
 「附論4 お寺が村をまるごと買った話」は、中世東国村落研究の「史料不足を克服するための方法論の模索と錬磨」が必要との問題意識に立ち、在地寺社の寺領形成や教線拡大という切り口から「いくつかの方法を試験的に提示」したもの。下総国臼井庄神保郷の小室村・ふるまかた村を出発点に、武家・寺家両権力と百姓の結合の実態、その前提たる百姓の独自の動きを望見している。それは「所」・「指出」といった用語を導きの糸として、他地域の検証結果を導入する野心的な方法論の提示である。「在地領主支配下の村落を寺社領と区別する、その認識自体を疑ってみる必要がある」・「百姓の村であり、同時に領主の支配する村、なのである。問題はその質であり、重層する結合の個々の性質と関連を問うこと」といった一節は、相当刺激的な、しかし第二部の結語としても相応しい指摘である。

 「第三部 地域経済と「都市的な場」」では、後者を通して前者を見通すという態度に徹する。
 「第六章 鎌倉時代の千葉氏と武蔵国豊島郡千束郷」は、鎌倉期の東国経済を考える上で重要な史料「長専書状」(法華経寺文書)にみられる千束郷を、現台東区の浅草寺所在地付近に比定することから始まる。そうすることで、「寺社の郷」たる「都市的な場」であるこの地へ、幕府・千葉氏らが強く関与した諸事実が一層理解し易くなる、という趣向である。
 「第七章 肥前千葉氏に関する基礎的考察」は、肥前国小城郡に関わる実証性の高い地域史研究の形を取りながら、同時に鎌倉期の御家人経済圏ともいうべき隔地間のネットワーク(東国−京−九州)を、千葉氏を素材に論証したもの。
 「第八章 東京低地と江戸湾交通」は、葛飾区郷土と天文の博物館シンポジウムの報告。品川は西日本、市川は房総、石浜・墨田は関東内陸部との玄関といった位置づけから「港湾業者が住み寺院が林立する」「都市的な場」が「東京低地を取り囲むように成立してくる」状況を説明、「湾岸領主」葛西氏・千葉氏らと宗教者の水運への関与から鎌倉府の進出、有徳人の簇生、同時に日蓮宗の低地部への布教等々、鎌倉・室町期の現象を抽出してゆくことで地域の特質に迫る。第一章と共通した題材を、ここでは「都市的な場」と地域間交流の視点を全面に出して検討する。双方とも、その後の中世関東の流通史研究に大きな刺激を与えたことは贅言するまでもない。
 「第九章 中世東国の「都市的な場」と宗教」の検討は関東各地に広がるが、課題は「地域における村落と村落以外の場(=「都市的な場」)が、互いにいかに関わり合うかであり、領主権力はこれにいかに対処するか」とより明確かつ進化している。「中世的荘郷の内部に形成され」る「微小地域」、すなわち品川・市川・船橋・風早庄戸ヶ崎・横田郷など、砂州上の湊や河川に面した関・市とそれらへの宗教の進出、しばしば見られる有徳人と並べ、これらは「おおむね一四・一五世紀に顕著な動きを見せ」「鎌倉府や地域権力はこうした「都市的な場」とその住人たちのもたらす冨を自らのもとに編成しようとしていた」と結ぶ。一方、常陸国信太庄佐倉郷古渡宿では、武家権力と有徳人の交点として寺院が招致・維持された事実が説得的に論証される。寺院は法縁・俗縁・師檀・主従などの関係が重畳する中で存立し得たことを具体的に示しつつ、庄内諸寺社(つまりは村落も)が「同心」して個別寺社領の安堵を申請するに至るなど、在地の状況がいきいきと解明されるさまは鮮やか。最後に上総国富津湊につき、近隣にも複数の港湾があり、内陸部の宿との関わりも密接な様子を描き、「東国においていかなる場所に「都市的な場」が形成されるのか、またそこにはいかなる領主・住人、そして宗教者の活動があるのか」を「概観」した「試論」は幕を閉じる。

 著者は畿内近国の在地領主研究の第一人者でありながら、そこでの知見・事例を安易に接木しないことを高く評価したい。本書の問題意識自体が、かの地での研究に鍛えられたこと明瞭なるにもかかわらず、である。それは冒頭に紹介した、約めれば、東国の固有性を意識した地域社会史の模索、という態度に忠実な結果であろう。ならばそれは、具体的にどの程度果たされたのかが問題となる。
 多様な史料論の深化は、今後我々が一層取り組むべき課題である。著者のそれはまさに適材適所ともいうべき活用法で、驚くべき成果を挙げていることはすでに述べた。しかし解釈も含めて多少の疑問もある。たとえば第六章、「長専書状」中の「千束郷」の現地比定は、蓋然性はあるにせよ、いかにも強引である。さらに地域のイメージを象徴するものとして−慎重に−『義経記』が引用されるが、結局は史実を一定度反映した産物として、他の章も含め論拠と化している。現代に生き残った物語は、その成立事情はもちろんのこと、広く受容されたがゆえに蒙った変容をも視野に入れなければならないだろう。第四章の掉尾を飾る寺伝「下総国千葉荘池田堀内北斗山金剛授寺不入之事」は稀有な史料で、ある意味「喉から手が出るほど欲しい」類だが、その具体的な叙述への評価もさることながら、紛争の一方当事者の物言いである点、留意が必要である。同様のことは第五章での「名主百姓」・「地下百姓」の解釈にも存する。葛西御厨と相馬御厨との差異が指摘されるが、後者で頻出する神税対捍者「地頭」は、時に「地下」に書き換えられる(拙稿「中世後期の相馬御厨に関する基礎的考察」『松戸市立博物館紀要』八号)。よそ者である守護被官・陪臣を含む地頭を地下とみなすのは訴人の事情に起因するが、同様の(逆の表現を用いる)事態は葛西御厨でも想定されなければならない。
 郷村、とりわけ郷に着目した第二部の視点は正鵠を得ている。著者は明言しないが、ここには荘園公領制概念の揺らぎが反映されていよう。近年、この概念への異論が多出して華やかな状況だが、已然として史料に恵まれた荘園に研究が偏っている事態に変化はない。郷が固有に担った役割や意義を、元来文献史料が乏しい東国であえて探る視点は、今後も重要視されねばならないと考える。しかし荘園公領制の再編の結果、「社会編成のコア」となった室町・戦国期の郷村のうち、その典型である横田郷・大野郷がそのままの規模で近世村化する説明は、あまりに一点突破に過ぎよう。いうまでもなく、交通集落にせよ城郭にせよ、両郷に限ったことではないからである。近世史研究においても、村切りで分割された郷が種々の要請によって再度結合形態として浮上する事例が報告されはじめたが、中世的要因の析出と同時に、視野を広げる必要を感じる。千束郷同様、性急な結論を求めることはないだろう。
 著者の根源的な問題関心は、再編を蒙りながらも残存する荘園公領制的規制下で誕生した中世後期の「地域」にあり、それらを結びつける交流−それも流通・経済・都市といった問題に限定されない多種多様な交流−の全体像解明を意図していることが明らかになつた。したがって、著者の言う「地域社会史」とは単に「ある地域の社会史」ではなく、個別内部および多数の個別間において、垂直・水平方向に張り巡らされた関係性を解析することで始めて可能となる史観と言えよう。そう考えると、著者の意図は充分に達成されていると評価できる。一方、「東国の固有性」は浮かび上がっただろうか。残念ながら、多くの論点は中世史全体の問題に昇華することで、かえって東国の問題から離れていった観を持たざるを得ないのである。
 誤読・曲解も評者の能力のうち、とご容赦いただくしかない。書評の機会を下さった著者および佐藤博信氏に感謝しつつ、筆を擱きたい。      (松戸市戸定歴史館)

 
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