著者名:小田原近世史研究会編『交流の社会史−道・川と地域−』
評 者:椿田 卓士
掲載誌:「小田原地方史研究」23(2005.9)

本書は、一九九五年の発会から一〇年目を迎えた「小田原近世史研究会」が、その研究の到達点として編集した研究論文集である。
 神奈川県西部に位置する西湘地域は、富士・箱根・伊豆に連なる豊かな自然と歴史遺産に恵まれた地域であり、市町村史の編纂も『小田原市史』をはじめとして広く実施されてきた。江戸時代の西湘地域は、小田原藩城付領すなわち相模国足柄上・下郡の範囲であり、内包する各自治体史の枠を越えた領域全体および周辺の考察がなによりも求められている。本書においては、そうした西湘地域の交流と特性を明らかにすべく、共通のテーマを「道」と「川」においている。すなわち、人や物の交流と情報がそれらを通じて移動・伝播するシステムを明らかにしようとする試みである。
 総勢一一名の執筆者は、いずれも『小田原市史』をはじめとする自治体史編さんはもとより、小田原を中心に広く神奈川県をフィールドとした近世史研究者たちである。研究範囲も、小田原藩政史以外に経済・文化・交通・風俗・女性史など幅広い分野に及んでいる。
 既刊の『小田原市史』『南足柄市史』『開成町史』といった個々の自治体史にて積み上げられた成果が、今回本書によって西相模を中心とした広い視野でさらに深化されたことは、当該地域の歴史研究が新たな一歩を踏み出したといえるのではあるまいか。
 本書の内容構成については以下の通りである。

 〔目 次〕
 発刊にあたって(村上 直)
T 道に生きる
 箱根関所における人見女(小暮紀久子)
 旅日記よりみた小田原・箱根路について(山本光正)
 間の村と湯治場にとっての「一夜湯治」(大和田公一)
 大磯宿の飯盛女と茶屋町救済仕法(宇佐見ミサ子)
U 越える人びと
 「道の者」たちの一七世紀−徘徊する人びとの実像にせまる−(下重 清)
 尊徳の行動力と活動範囲−「日記」の概観と小田原出張−(木龍克己)
 安政コロリの流行と人びと(坂本孝子)
 戊辰戦争下の小田原藩と遊撃隊(中根 賢)
V 川と暮らす
 田中休愚による酒匂川大口土手締め切り後の諸相−大口水下六か村を中心に−(関口康弘)
 水車経営と地域社会(荒木仁朗)
 堀と道普請にみる報徳仕法(松尾公就)
 あとがき

 まず、「T 道に生きる」は、西湘地区の主要な交通路である東海道に焦点をあて、街道沿いに住む人びとの存在とその実像についての論考がまとめられている。
 小暮論文は、箱根関所におかれた人見女の役割を僅少な史料をもとに詳細に分析し、その実態と関所政策における女性の通行の詳細について具体的に検討された。これまで通関する女性をチェックをする特異な存在として捉えられがちな人見女について、公務に携わる重要な職務としてその存在を実証的に追究したものは例がないのではないか。
 次に、山本論文は、小田原〜箱根路を東海道の象徴的な境界の一つとしてとらえ、旅の記録である旅日記や紀行文を基礎資料に、庶民の様々な旅の類型について検証したものである。近年の自治体史においては、観光ブームとあいまってか地元に残る旅日記を取り上げることも多くなっているが、おおむね一地域一個人の事例紹介にとどまっている。本論考では、二〇点の旅日記を詳細に分析し、江戸〜小田原・箱根路の行程を類型化して旅の実相に迫っている。史料としての旅日記の使い方について、新視点を提示してくれるという点において興味深い。
 大和田論文は、文化二年の箱根「一夜湯治事件」を題材に、事件の顛末を通じて、箱根における「間の村」「湯治場」の変容過程についての位置づけを論証したものである。「一夜湯治事件」は、すでに長期滞在の湯治場から周遊観光地へと質的な変容をとげつつある江戸中期の行楽形態を背景に、箱根・小田原両宿と湯本温泉場・畑宿との間におきた休泊客確保をめぐる争いである。この争いが、以後の箱根の温泉観光地としての趨勢を左右する画期となったとしているが、「間の村」の役割がどのように変容していったのか、また、箱根以外のケース(関本、梅沢など)の位置づけも含めて広く街道沿いの地域を考える上での展望をも提示してくれたように感じた。
 宇佐美論文は、天保〜万延年間の大磯宿での飯盛女(めしもりおんな)をめぐる抗争について分析し、宿繁栄のためにおかれた飯盛女の存在意義、そして明治五年宿駅制廃止と、それに続く翌六年の貸座敷営業許可法令による新たなシステムヘの包摂について具体的な史料を掲げつつ検討された。飯盛女を、宿駅制度を財政的に支える重要な存在としてとらえる視点は宿場財政の本質を考える上で極めて重要な指摘であると思われる。なお、宿駅制度廃止以降における旅籠経営と、飯盛女の存在意義の変容については、明治期以降の町場経営の動向もからめた新たな検証が必要となるのであろう。たとえば、浦賀などのように近世から近代にかけて遊郭が存在した事例も含めて、その実証的積み重ねが求められるかと感じた。

 次に、「U 越える人びと」は、道や川を越えて移動する人びとに焦点をあてた四本の論考を収載している。
 下重論文は、「稲葉日記」を題材に、「道の者」(巡礼者・門付(かどづ)け芸人・虚無僧(こむそう)など)たちの様々な生活を描写しつつ、士農工商から除外された「身分的周縁」な存在であるこれらの人びとがどのように創出されていったかを論究した労作である。定住する農民はともかく、村むらを移動通過するこれら「道の者」の存在については、史料上においてその実像を捉えることは困難である。そうした社会からはじきだされ徘徊する人びとに焦点をあてたという視点自体が、従来の西相模地域史研究に新たな問題を投げかけたと考える。なお、本論考とあわせて下重清『稲葉正則とその時代−江戸社会の形成−』〈小田原ライブラリー6〉(夢工房、二〇〇二年)を併読することをお勧めする。
 木龍論文は、二宮尊徳の出張先・活動地・宿泊・滞在期間・人びととの交流といった動きをデータベース化し、広い範囲にわたる精力的かつ膨大な尊徳の活動を総体的に集成したものである。従来、尊徳については仕法実践の状況や人物像についての研究は多いが、実際の活動の足跡を年次的に網羅されたことはなかった。本論考は、そうした活動状況を追究するための基礎資料として、極めて貴重なデータを提供してくれるものである。
 坂本論文は、神奈川県域を中心として、安政五年に流行したコレラの伝播経路を検証し、その被害の状況や人びとに与えた影響を具体的に検討したものである。コレラの蔓延から身を守るために神仏に頼らざるを得なかった人びとの心性を多くの史料により提示されたことは、災禍に対する近代以前の人びとの迷信深さというものを改めて再認識させてくれた。
 中根論文は、これまであまり取り上げられなかった箱根戦争に注目し、遊撃隊と小田原藩の動向を詳細に検証しつつその新たな位置づけを試みたものである。従来、単なる局地的なゲリラ戦争とされてきた箱根戦争の勝敗を、その後の戊辰戦争の流れを決定づけたものとして再評価されたことは、幕末維新史の研究に新しい視点を示したものとして大変興味深く思われた。

 最後の「V 川と暮らす」に収められた三本の論考は、西相模地域の近世を語るにはかかせない酒匂(さかわ)川を中心に、河川に関わる人びとの動きを明らかにしたものである。
 関口論文は、宝永四年の富士山噴火後における酒匂川氾濫などのいわゆる二次災害に対する人びとの復興活動を、被災の中心である大口水下六か村の取り組み過程を通して検証する。とくに田中休愚や蓑笠之助といった民政指導者の活動は、地域の復興開発を左右した重要な要因であるとして新たな評価を加えている。安永年間の小田原藩による地押(じおし)検地を、災害復興の一つの到達点とみなす点は、今日においても災害とその復旧への取り組みの問題に通じる部分であろう。
 荒木論文は、小田原藩領下の足柄下郡府川村稲子家文書を素材として、村役人家の水車経営のあり方やその仕組みを検証し、地域社会における近世地主の役割について論究する。また、稲子家にみられる水車所有権の有り合わせ売買を、これまでの有り合わせ質地慣行と異なる視点でとらえ、地域社会の核である家を維持存続させるための信頼に基づく融通行為と評価した点は興味深い視点である。
 最後の松尾論文は、小田原領の村々で行われた報徳仕法の中で、西大井村の用水悪水堀普請を取り上げ、仕法が地域社会に果たした役割についてその意味を検討する。一つの村に多くの村々が自発的に手伝いに駆けつけるという現象から、村という枠を越えた公共性のあり方を追究したところは、前掲木龍論文にも見られるような仕法の地域的広がりやネットワーク形成の問題とも関わって興味深い視点であると考える。報徳仕法がなにゆえにそれだけの動員を可能としたのか、その思想的な背景についての考究も含めて、報徳仕法研究に新たな視点を提示してくれたと感じた。

 以上、本書収載の各論文について稚拙ながらその紹介を試みた。書評とはほど遠い内容となってしまったが、これはいうまでもなく筆者の力量不足によるものである。最後に、本書を通読しての筆者の若干の感想を述べて筆をおくこととしたい。
 筆者もかつて『南足柄市史』編さん事業に関わっていた一人であり(表向きは近現代担当)、日々の業務において様々な史料を目にしているうちに、しばしば市史の領域を越えた地域の問題におのずとつきあたったものである。近世西相模地域の歴史がどのような動きををみせ、またそれが近代に入ってどのように展開していったのかという問題を考える上でも、本書のような道と川をテーマとする地域史像構築の手法はきわめて有効な試みであると感じた。
 この本書により、『小田原市史』『南足柄市史』といった既刊自治体史の成果をふまえ、自治体の領域を越えて地域の歴史に新たな視点を投げかけ、これまで視座にすえられなかった部分に研究の道を拓いたことの意義は大きい。本書が、今後の西相模を含む地域の社会史的考察に大きく寄与することを願ってやまない。

 
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