著者名:小田原近世史研究会編『交流の社会史−道・川と地域−』
評 者:中山 学 
掲載誌:「法政史学」64(2005.9)

小田原近世史研究会は、『小田原市史』(通史編近世)の記述内容をよりゆたかなものにすべく、また、「出身・経歴や大学の枠を越えて、若い研究者たち相互の積極的な交流活動を」生み出すべく、平成七年三月に、『小田原市史』(通史編近世)の執筆担当者らを中心に結成された。同会は、年に四〜五回の例会を開催するとともに、会報の発行を続けている。このたび紹介する『交流の社会史−道・川と地域−』は、発足後一〇年の節目を迎えた同会の論文集である。
 本書は、後述するとおり、小田原・足柄地域をフィールドにした一一の個別研究を収めている。ただし、これら一一の研究は、対象地域を同じくするもののテーマは実にさまざまで、各論の総合化において何か一つの全体像が提示されるような相互連関はもたない。そのためもあってか、本書について、編者は、「協同研究スタイルを採用したが、総合研究を目指した訳ではない」と言及し、本書が論文それぞれの個別展開を尊重しつつ編まれたことを示唆している。そこで、このたび本書を紹介するにあたっては、一一の論文について個別に言及するにとどめ、その全体を総論的な視覚から取り上げることはしない。
 それでは、早速紹介に移ろう。まず、本書の構成は、次のとおりである。

  村上 直「発刊にあたって」
   T 道に生きる
  小暮紀久子「箱根関所における人見女」
  山本光正「旅日記よりみた小田原・箱根路について」
  大和田公一「間の村と湯治場にとっての『一夜湯治』」
  宇佐美ミサ子「大磯宿の飯盛女と茶屋町救済仕法」
   U 越える人びと
  下重 清「『道の者』たちの一七世紀−徘徊する人びとの実像にせまる−」
  木龍克己「尊徳の行動力と活動範囲−『日記』の概観と小田原出張−」
  坂本孝子「安政コロリの流行と人びと」
  中根 賢「戊辰戦争下の小田原藩と遊撃隊」
   V 川と暮らす
  関口康弘「田中休愚による酒匂川大口土手締め切り後の諸相−大口水下六か村を中心に−」
  荒木仁朗「水車経営と地域社会」
  松尾公就「堀と道普請にみる報徳仕法」
  あとがき

 小暮紀久子氏の論文は、箱根関所で女性たちの通関を監視した人見女について述べたものである。本稿の考察は、人見女の存在形態、およびその格式・職務内容・給与・相続実態など多岐にわたり、人物像にまでせまろうとするものである。小暮氏は、「僅少で断片的な史料」しか残されていない人見女について、それでも実に多くのことを明らかにしている。なかでも、幾人かの女性の旅日記や紀行文を用いて人見女の声や容姿についてまで明らかにしょうとした点は印象的で、あたかもその人を目の前にしているかのような生々しさを味わうことができる。読者は、実像のあまりよく知られていない人見女の全体について、よく理解することができるであろう。

 山本光正氏の論文は、江戸時代の旅に関する試論で、東海道の難関=小田原・箱根路について述べたものである。具体的には、箱根の山があることによって形成されていた江戸 箱根という「一つのブロック」の中を、江戸時代の旅人が「どのような経路を辿ったか」について調査したもので、同時に宿泊形態も明らかにしている。本稿は、明和八年から文久三年までに成立した二〇点の旅日記を素材に、旅人の行程パターンとの関連で小田原・箱根路の特質を問い直そうとしており、旅日記を利用した新たな試みとして注目されよう。今回の論考が試論としての位置にあることから、山本氏の研究が、今後どのように展開してゆくのかが楽しみである。
 ただし、本稿は、研究の目的がいま少し不透明で、交通史研究全体との関連でどのような意義をもつ研究であるのか、その位置するところが理解しにくい。地域・テーマ完結型の実証主義的な研究が頻出し、その総合化の困難な状況にあるいま、とくに地域史研究については、論文の目的やその内容のもつ意義に関して、執筆者自身が十分な説明を用意する必要があるように思う。

 大和田公一氏の論文は、文化二年に箱根宿・小田原宿と湯本村・畑宿村との間に起きた「『一夜湯治』事件」を取り上げたものである。当一件は、宿泊客の安定確保を目指す箱根宿・小田原宿が、道中奉行布達の「『間の村休泊の禁』令」にもとづき、「一夜湯治」と称して旅人を休泊させていた「間の村」二ヶ村(湯本村・畑宿村)を訴えて起きた。大和田氏は、この事件の顛末を「再確認し、箱根における『間の村』『湯治場』の変容過程においてこの事件がどのように位置づけられるものであるかを考察」している。その結果、「『一夜湯治』事件」は、江戸時代中期以降の箱根の温泉場の質的な変化のなかに位置づくものであることが確認された。すなわち、同地が江戸の周遊観光地としての性格を濃くし、長期滞在型の湯治利用のみならず短期宿泊および立ち寄り湯として盛んに利用されるようになったことが、宿場とそれ以外の場所との集客競争につながり、当該一件を引き起こしたというのである。
 本稿は、人々の温泉利用目的の多様化にうながされる形で起きた箱根の温泉場の質的な変化のなかに、当該地域社会の秩序変容を読み込もうとする力作である。ただし、温泉場地域の観光地化の中で宿場以外の場所が旅人に対しいかなるサービスを提供するようになっていたのか、宿場とそれ以外の場所との集客バランスがどのように変化していたのかなど、変化の具体相については説明がやや乏しい。「宿財政の実態を検証する」ことも含めて、宿場とそれ以外の場所の経営実態を明らかにする作業は、なにも「本論の趣旨とは外れる」ものでもなかったのではないか。

 宇佐美ミサ子氏の論文は、飯盛女を素材としたものである。飯盛女については、明治五年の制度的廃止にそのすべてを帰結させる見方が一般的だったが、宇佐美氏はこの点を批判し、貸座敷営業許可法令(明治六年)への包摂というかたちで近代への事実上の連続があった点を改めて指摘する。そして、この連続が担保された要因を、飯盛女の社会的位置の中に確認しようとしている。具体的には、幕末の東海道大磯宿を事例に、飯盛女の雇い入れをめぐって発生した南・北両本町と茶屋町との利害対立を取り上げ、その対立の構図の中に浮上してくる飯盛女の社会的位置づけがどのようなものであったのかを検討している。このとき、宇佐美氏は、町の「相続」との関係で飯盛女がいかなる役割を担わされていたのかについて、町の経済的状況にも注意しながら構造的に説明している。その甲斐あって、本稿は、飯盛女の社会的な位置が町の存立状況に強く規定されるものであった点をみごとに描き出している。かくして検討の結果、飯盛女は、「性を売る商品」としてのみ価値を認められるような存在であり、各町の「相続はもとより、宿経済の活性化をはかる手段」として期待される位置にあったことが明らかにされている。
 飯盛女の「性労働」が町の利害に強く関連するものとして認識されていたことが明らかになったいま、明治五年の制度的な廃止にすべてを収斂させてはならぬという宇佐美氏の通説批判はより確かなものになった。また、明治六年の貸座敷営業許可法令へ包摂されつつ新たな展開をみるという事実、すなわち近代国家への連続性を整合的に理解するための素地も準備されたと評価できよう。しかし、「飯盛女を『性を売る商品』としての存在価値しか認めなかった社会システムこそ問題視しなければならない」というまとめの一文ついてはどうか。揚げ足をとるつもりはないが、社会システムがどうあれ、「性労働」は、性を売ることにおいてのみ評価されるものである。その点、氏のお気持ちを斟むならば、氏は、飯盛女という一つの労働の社会的位置づけと、それに従事せざるをえなかった女性自身の社会的位置づけとを区別すべきであったろう。本稿では、「性労働」がそれに従事した女性自身の社会的な位置をどのように規定したかについては具体的に検討されてはいない。近世社会における彼女らの社会的位置を問題にするのであれば、その時代における「性労働」観や、その観念の個人規定性についてより詳しい検討を要しよう。

 下重清氏の論文は、小田原藩主稲葉正則の記録=「稲葉日記」を駆使して、「草創・黎明期の『道の者』たち」の実像にせまろうとする論文である。「道の者」たちとは、そもそも「士農工商」世界からどのようにしてはじき出された人びとなのか、彼らはどのような方法で生を送っていたのか。本稿は、いくつかの事例を提示しながら、われわれが一般的に抱くそうした疑問を具体的に解き明かそうとする。
 下重氏は、まず、「道の者」と呼ばれた人びとを「『無縁』世界を漂泊する人びととして通時代的にとらえる歴史理解には慎重」であるべきだとし、それが「士農工商」世界を成り立たせるために生み出された「一七世紀以降の極めて幕藩体制的な存在」であった点を強調している。そして、次に、「士農工商」世界の外にはじき出されている状態をもって「道の者」を単純に「周縁」と類型化する近年の研究の指向性を総括的に批判し、彼らの生成そのものを問題にすべきだと主張する。下重氏は、以上のような視点にたって、「道の者」たちの生成を検証するとともに、彼らが近世社会においてどのような位置にあったのかを改めて確認している。事例が豊富に用意されているだけに、読者は、そこに見えてくる「道の者」たちに関心を高めるだろう。
 しかし、本稿は、その研究目的や仮定と証明との関係などが不分明で、さらに結論も整理されていないため、言わんとすることが的確に伝わってこない。本書の冒頭にある村上直氏の紹介によれば、本稿は、「『身分的周縁』論に疑義を呈示している」とのことだが、「身分的周縁」論の何をどのような視点から批判しょうとしているのかについてはよく理解できない。いまいちど論文の構造を見直されたい。

 木龍克己氏の論文は、報徳仕法に生涯をかけた二宮尊徳の行動を、彼の残した「日記」類を頼りに、「総合的」に把握しようとする試みである。具体的には、「活動の中心地となった各陣屋や出張先などの主要な所を八か所に分け、これを編年順にして、彼がいつ、どこにいたのかを概観できるように」一覧表を作成している。木龍氏がこうした試みを行った理由は、それまでの研究の大半が尊徳という個人像の追求や報徳仕法の局地的な検討にとどまっており、全体からみる眼を失っていたことにある。作成された一覧表は、根気強く「日記」類を追跡した努力の現れであり、今後研究する者にとっては大変便利な資料となるであろう。ただし、二宮尊徳の出張地を示すとき、「桜町・東郷・真岡」という具体的な場所と「北関東」という曖昧な地域総称とを並列させている点には問題が残る(「江戸・小田原・箱根・南関東」と並べてある所も同様である)。
 ともあれ、今後は、二宮尊徳の活動の全体を把握することで、仕法適用上の地域相互の経験の交流や影響の有無などについて明らかにされてゆくことが期待されよう。

 坂本孝子氏の論文は、安政五年のコレラ流行の実態と、その恐怖に対する人びとの反応および対応を、相模国および武蔵国三郡(久良岐・橘樹・都筑)について明らかにしたものである。坂本氏は、まず、コレラの被害状況と、この災害に対する領主の対策について検討している。具体的には、コレラ被害の波及地域や流行時期・伝染経路、各地での被害状況が特定され、領主が施薬(芳香散の配布)や薬法書の頒布に代表される医薬対応と神社の祈祷という宗教的対応とを併用したことが明らかにされている。そして次に、氏は、コレラという恐怖に対する人びとの反応および対応について検討している。その結果、コレラが「疫神や狐、異国人がもたらしたものと」理解されていたことや、「神仏の力によって」その災いから逃れようとした人びとの「迷信深い」姿が克明にされている。本稿は、幕末のコレラ流行時の世相を詳しく教えてくれる秀作であるといえよう。
 本稿のさまざまな考察のうち、興味深いものの一つとして、廻船問屋に関するものがあった。坂本氏は、廻船をコレラ被害拡大の要因の一つとして捉えている。コレラ・パンデミーの原因が、当時の主要な交通手段、すなわち船にあったことを思えば、氏の理解は正しいであろう。ただし、廻船を含む流通機構は、コレラの拡散にのみ寄与したのではない。コレラについてのさまざまな情報を集積し、それを短時間のうちに広範囲に運ぶ機能をも果たした。そして、流通機構のこうした機能は、特に、それに直接関わる商人たちの心性を強く規定し、社会経済的にも大きな影響を及ぼしたのである。たとえば、コレラ情報の交換にもとづいて、米穀商人たちの間には一様に恐怖が伝心し、これが危険地帯での経済活動を自粛させる大きな要因になった。江戸における米価の高騰も、コレラ情報の交換−恐怖心の蔓延−中央市場(江戸)における経済活動の鈍化といった一連の流れの中で深刻さを増した可能性がある。筆者は、ここで、視点の移動が今後の研究のありようを大きく左右すると言いたい。本稿は、コレラ災害の実態を詳しく理解するための実証論文だが、そこに描き出された事柄は、実のところ、近年ではかなり周知されている。坂本氏においては、今回の論文をきっかけにより多くの視点・論点を見出し、その研究がいくつもの側面から日本社会史に大きく寄与するものになるよう期待したい。

 中根賢氏の論文は、慶応四年五月に起きた小田原藩と旧幕府遊撃隊との箱根戦争について検討したものである。箱根戦争は、これまでほとんど注目されてこなかったが、中根氏は、この箱根戦争こそ戊辰戦争が東北日本へと戦域を展開するきっかけになったいう仮説をたて、その経緯を全面的に洗いなおしている。その結果、中根氏は、「旧幕府・新政府の両勢力から南関東西部防衛線としての役割を期待され」た小田原藩が、藩論を二転三転させざるをえない微妙な立場に立たされていたことを明らかにした。そして、小田原藩同様に勤王と佐幕の狭間でとるべき道を決めあぐねていた諸藩にとって、箱根戦争の結果は、藩論決定の大きな要因になったという。つまり、「箱根戦争での勝敗こそ」が、「『表面的に政府に忠誠を誓っていた東海・甲信・関東の諸藩の動向を完全に決定させ』」たのであり、それがために、戊辰戦争は東北日本へと戦域を展開することになったというのである。
 これまで注目されてこなかった対象だけに、中根氏による箱根戦争の新たな位置づけは、今後少なからず疑義を呼びそうである。しかし、各藩の藩論決定経緯についてはいまだ検討が不足していよう。中根氏の説明により、箱根戦争の影響については確かに無視できぬものとなったが、諸藩は、生き残りをかけてあらゆる情報に耳目を集中させていたはずである。各藩の動向がどのようにして決まったのかについては、もう少し慎重に見定める必要がありそうである。また、そのほうが、むしろ箱根戦争の位置づけをより正確なものにできると思われる。

 関口康弘氏の論文は、宝永四年の富士山噴火の二次災害(酒匂川の岩流瀬(がらせ)土手・大口土手の二度の決壊)の影響で疲弊しきった、「大口水下水損家立六か村」(班目(まだらめ)村・岡野村・千津島村・壗下(まました)村・竹松村・和田河原村)の復興について明らかにしたものである。本稿の主要な考察時期は、正徳元年七月の岩流瀬土手・大口土手の二度目の決壊から数えること一五年後の享保一一年春から、「被災地の開発復興がほぼ行きわたった」と解される安永年間までで、「地方巧者」田中休愚の復興事業が開始されて以降の状況が克明にされている。具体的には、「大口水下水損家立六か村」の復興過程について、決壊した大口土手の締め切り事業、田中休愚とその後任蓑笠之助の民政、村々の復興への取り組み、荒廃六か村の開発・復興状況、開発・復興に伴って発生した新たな土地問題などが取りあげられている。紙数の都合上、関口氏の考察内容を詳しく紹介できないのが残念だが、本稿は、災害によってほぼ完全に破壊された村々が次第に復興してゆく様を生々しく描写しており、災害史の一つの到達点を示す論文としても高く評価できよう。また、「地方巧者」と許された田中休愚と蓑笠之助についても、その事業内容が詳述されており、彼らの優れた技術力と高度な政治能力には改めて驚かされた。門外漢の筆者にとっては、その極めて高度な治水技術や統治技法が、どこでどのようにして準備されたのかが非常に気になったし、こうした有能な技術官僚が登場し、その上に幕府の統治が成立している状況を関口氏がどのように見ているのかについても興味をそそられた。関口氏の研究のさらなる展開を今から楽しみにしたい。

 荒木仁朗氏の論文は、足柄下郡府川村の名主であった稲子家を中心に、その水車経営の実態がどのようなものであったのかという視点から、水車経営が地域社会の中で果たした役割を検討したものである。
 荒木氏は、まず、@足柄上・下郡における水車経営の開始時期が、文化年間以前に遡る可能性のあることを指摘した。そして次に、A弘化二年から翌年にかけて行われた小田原藩の「水車御改」を素材に両郡の水車経営の実態を探り、水車稼ぎの出現が旧来の用水秩序を崩壊させつつあったとしている。荒木氏は、さらに、B稲子家の水車経営を分析し、同家が、「有り合わせ売買」の形式で水車を他人に売り渡しつつ、一方では年季売にて「自村ないしは周辺村落の農民に水車を貸し付けていた」事実を明らかにした。荒木氏は、以上の考察をもとに水車「有り合わせ売買」の意義を唱え、水車の所有者(地域中間層)にとっては自身の多角経営を円滑に行うための一手段であり、地域社会側からみれば、「地域社会の中核となる家(大塚英二氏の言葉でいえば、地域における『金融の家』に相当するだろう)を潰さないための行動のひとつといえる」ものであったとした。
 本稿は、近世の水車経営という、実態把握の難しい対象を積極的に取り扱ったものとしては興味深い。しかし、本稿には、指摘すべき問題が二つある。まず、一つ目は、先のAの問題である。そこで、荒木氏は、水車経営が地域の用水秩序を崩壊させつつあったと指摘しているが、これについては、無断分水の事実を明らかにするための史料が示されていないことにより、また、氏の史料読解に疑問が残ることにより(「貴殿[善兵衛のこと]水車堰筋分水致候間、貴殿御不承知ニ而者御届ケ出来兼歎敷奉存候」という抜粋記事を、荒木氏は、「善兵衛の水車堰からの貰い水許可がないと水車営業届を提出できない」と読解しているが、普通ならそのようには読めないであろう。荒木氏が、未提示の史料を果たして正確に読解されているのかどうか、読者として不安を覚えざるをえない)、論証不十分といわざるをえない。二つ目は、論文構造の問題で、各節の要点相互の関連がみえないということである。これは、各節の要点を整理した結果として最終的な結論を引き出すという論文の仕組みが崩れていることを意味するが、その通り、本稿では、A・Bの関連が不明で、考察Bの結果が論文全体の結論になっている。そのため、本稿の論点も、地域社会における水車経営の役割を問うものから、「有り合わせ売買」について云々するものへとずれてしまっている。レジメにせよ、論文にせよ、他人に自己の見解を伝えるためには、説明の仕方についての十分な配慮が不可欠である。せっかくの努力を活かすためにも、改めて論文の構造を大切にされたい。

 松尾公就氏の論文は、報徳仕法の高揚期に行われた足柄上郡西大井村近辺の用・悪水堀や道の普請について検討し、報徳仕法の意義を改めて問い直そうとしたものである。
 竹松村報徳堀の開削や西大井村の用水・悪水堀普請がどのようにして成就したのかを考察した結果、松尾氏は、「報徳仕法の一環として行われた普請で近郷近村の者が多数助成に駆けつけている」事実を再発見することになった。そして、他所の普請とはいえ、「他村のこととは思えず、『一村同様』の心得で参集」する人びとの姿に報徳仕法の本質を読み解き、堀や道の普請、すなわち「公共性をもった普請」をとおして、「人々に自村と『地域』(地域社会)を改めて意識させる機会を与えた」と評価している。本稿は、報徳仕法の影響下に再生した地域の結合をとらえ、それが荒廃村落の復興に果たした役割を改めて問い直そうとする極めて意義深い論考であった。

 以上、一一の論文について、批判をまじえつつ簡単に紹介してきた。冒頭に述べたとおり、論文のテーマはさまざまであり、視点や論点も執筆者それぞれによって全く異なる。そのため、とくに筆者に知識のない分野の論文については、適切にその要点をつかみえたかどうか、正直なところ不安も残る。もし誤りがあるようなら、そこは筆者の未熟さに免じてお赦し願いたい。
 ところで、筆者は、先の論文紹介のなかで、いく度か論文の構造について批判を加えた。少々失礼な言い方をしたようにも思うが、収載論文の多く−あえて指摘しなかったものもある−は、説明の仕方または論文の構造そのものに対する配慮が不足しがちであったように思う。とくに、論文の目的・意義に関する説明が不十分であったり、仮説と論証との関係が極めて曖昧であったりするものが目立ち、なかには説明手順の不手際から何を論証しようとしているのかが理解しにくいものもあった。これでは、論文の内容をどのように理解すべきかについて、読者は頭を悩まさねばならないし、誤解も多く生まれるであろう。
 個別分散化が進行し、総合化の困難になりつつある近年の研究状況にあって、とくに個別事例研究を基礎にすえる地域史研究においては、論旨のみならず論文の位置づけをどこまで正確に伝えることができるかが重要になるはずである。ときには、基礎的な部分を見直すことも必要ではなかろうか。

 
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