書誌紹介:浪川健治編『近世武士の生活と意識「添田儀左衛門日記」天和期の江戸と弘前』
掲載誌:「日本歴史」691(2005.12)
評者:千葉 一大

元禄時代、弘前藩士に添田儀左衛門貞俊という人物がいた。弘前藩政史に詳しい方を除けば、読者にはあまりなじみのない名前であろう。彼は藩主津軽信政の側近として活躍し、七〇〇石の禄を食む、当時の津軽家中における上級家臣層に属した人物であった。彼については、明治に入って津軽家が編纂した『津軽藩旧記伝類』にある略歴と、「天性勇烈廉直」ぶりを示す逸話が、比較的我々の目に触れやすい手がかりであった。
 その儀左衛門貞俊が記した延宝九年(一六八一)五月から天和三年(一六八三)三月までの日記(以下「添田日記」)を弘前市立図書館が所蔵している。本書は、その全文翻刻と、編者による解説、そして関連する四編の研究論文によって構成される。編者浪川健治氏は、いわゆる「北からの日本史」の牽引役の一人として知られる。筑波大学大学院人文社会科学研究科(歴史・人類学専攻)助教授として、研究活動と後進の指導に力を注ぐ傍ら、『青森県史』『新青森市史』編纂でも近世部会の中心として活躍している。このところ『アイヌ民族の軌跡』(山川出版社、二〇〇四年)、『近世北奥社会と民衆』(吉川弘文館、二〇〇五年)といった著作の出版も相次いでおり、氏の精力的活動の一端を示すものであろう。以下、目次に沿って本書の内容を紹介する。
 冒頭、序論または書誌解題として記された浪川氏の「『添田儀左衛門日記』について」では、『津軽藩旧記伝類』に加えて子孫が藩に提出した「由緒書」の記述と弘前藩政史料から、儀左衛門の実像に迫る。込み入った相続の事情を解明することからはじまり、藩政の確立期から展開期に向かう弘前藩において、テクノクラートとしての知識・技術を身につけた人物であったことが描き出される。そして、彼が藩政において重要な位置にたったのは、彼の優れた個人的資質ばかりではなく、それまで外様家臣によって遂行されてきた領内開発事業が番方の所管とされ、儀左衛門を含む番方組頭層にその指揮能力が必須とされたためと指摘する。弘前藩がこの時期思想面におけるバックボーンとした素行学を受容する彼の姿も含めて、これまでと異なる儀左衛門像が我々に提示された。これらの儀左衛門を取り巻く背景が、日記を多様な内容を持つものとしているもとだとも氏は指摘したいのだろう。
 これに引きつづく第一部の「研究編」所収の研究論文のうち三編は、筆者たちが「添田日記」の記載からおのおのの興味関心にもとづいて浪川ゼミナールで報告したものを発展させたものである点が特筆される。編者のものを含めて、宗教・町方出入・祭礼・藩政をそれぞれのテーマとしている。
 山澤学氏の「上野東叡山における弘前藩津軽家廟所祭祀の確立過程」は、「添田日記」に信政の供として訪れたことが記されている上野東叡山の子院津梁院について、その宿檀に津軽家がつき、寺地内に営んだ御廟所での祭祀を確立していく過程を論じる。菩提所が五か寺にわたっていた津軽家が、それを整理して、戒名の授受、法事の執行を津梁院のみで行うこととしたのは、津軽家を支える「権威」として東叡山座主輪王寺宮を仰ぎ、両者間を結ぶ「紐帯」として津梁院を位置づけたことにあり、その「権威」を背景に、二代藩主津軽信枚の遺骨改葬を契機として、津軽家の正嫡・庶流の別を明確にした廟所が再構築され、祭祀の確立をみたとする。宗教界の「権威」を後ろ盾としながら大名家内の秩序構成に祖先を活用するという指摘は、大名の先祖祭祀のあり方について興味深い視点を提示したといえよう。この研究を踏まえ、形成・確立された大名と菩提寺間師檀関係のさらなる推移を検討する試みがなされてもよいのではないか。
 阿部綾子氏の「弘前藩江戸藩邸をめぐる町人訴訟の実態−天和期を中心に−」は、「添田日記」や「弘前藩庁日記」(江戸日記)から大名屋敷という場で展開された武家社会と町人社会の交渉について、訴訟という側面からとらえた考察である。「添田日記」中、町人との会合記事が時折見出されることからもうかがえるように、この時期は弘前藩・藩士と町人との関係が深くなる反面、金銭貸借のトラブルから町人が訴訟を提起する事例も多数存在した。そのような武家・町人間訴訟が一般的に町人に不利であった現実を踏まえ、自らの不利益を防御する立場から体制の構築に努めたことによって、天和期が江戸町人社会の変質期とされる理由の一因ではないかとの考察がなされている。
 渡辺康代氏の「近世前・中期の弘前八幡宮祭礼にみる弘前町人町の特質」は、なかば藩の公的行事として実施されていた弘前八幡宮祭礼に対する町人の関与を分析対象とし、その祭礼形態やその担い手、運営の手法から、町人町の内部構造を解明することを目途とする。弘前城下の町人町が祭礼に参加させていた「山」・「丁印」の内容は町の生業的特徴を示し、商工業繁栄の祈願がこめられたものであること、また「山」・「丁印」が藩と強い接触をもつ有力町人が多数居住する町によって担われていたことを解明した。また近世中期以降、八幡宮祭礼が形骸化し、徐々に町人町主体の祭礼である「ねふた」が発展したとも指摘されている。結論を導くに当たって、城下町人町の住人構成や町組について、先行研究を踏まえつつ、自らも詳細な検討を加えていることには好感をもつ。八幡宮祭礼の形骸化の状況、そして城下町の内部構造がそれに影響を与えたのかなど、以後の展開についてはさらなる検討も必要であろう。
 浪川氏の「天和期の藩政と『添田儀左衛門日記』−天和二年十一月七日条をめぐって−」においては、「添田日記」と「弘前藩庁日記」(国日記)のある特定の同日の記述(天和二年十一月七日条)をとりあげて比較検討し、儀左衛門が日記に記載した番方・監察職への月番制導入と藩士に対する「親類書」の提出指令、「国日記」のみに記述のある重臣層屋敷の弘前城郭外移転に関する記事をとりあげた。儀左衛門が自らの職責上関心をもった点、つまり前者が、藩主直属の軍団が官僚的組織として藩政機構上に位置づけられ、家臣が集団の一員として藩主に従属する意識をより明確化するための動きであり、後者は、藩主の権威と権力の象徴である城内から重臣層を隔離することを意味する宗主権確立のための動きの一環であって、前後者ともに権力基盤・支配体制の変動による藩主への権力集中という同一の目的から実施されたことを論じている。
 以上の論考は、内容的にも興味深いものであり、それぞれの分野において今後さらに検討が深められるべき課題の提示と評者は受け止めた。「添田日記」がこの時期の弘前藩をめぐる諸相や武士像を明らかにできる史料というのが編者の考えと思われるが、その分析を通じた論文という形で自らの主張を示して見せたのではないだろうか。
 しかし、本書の中心は、第一部の研究を導き出した第二部の史料「添田日記」の翻刻であろう。本史料は、「江戸詰日記」(延宝九年五月一日〜天和二年五月三日)・「道中日記」(天和二年五月四日〜二〇日)・「国許日記」(天和二年五月二一日〜同三年三月二〇日)からなる。浪川ゼミ生の解読による翻刻である。上級武士である儀左衛門の生活や職務の様子のみならず、「江戸詰日記」では、将軍綱吉の直裁による越後騒動の裁許結果、琉球使節の将軍謁見の次第、津軽家が担当した大名火消役の勤務状況などの幕藩関係、津軽家と他大名や幕臣たちの交際、江戸勤番武士の生活がうかがえる記載が多くみられ、また弘前に戻った後の「国許日記」からは藩政が確立していく時期の状況や、当時の弘前城下の様子も具体像をもって知ることができる。折々に儀左衛門自身による和歌が挟み込まれたこの日記は、この時期の武士が抱いていた意識のありようも伝える優れた記載内容をもっている。
 本書は史料の人物・地名索引や人物相関図が整えられており、読者の理解を助ける親切なつくりとなっているが、それでもなお、近世の弘前藩について予備知識のない読者が読む場合には少々手強い内容かもしれない。本書を一層深く読み、分析・検討を加えるには、『新編弘前市史』通史編近世・資料編近世(全四冊、弘前市企画課、一九九五〜二〇〇三年)や『青森県史』資料編近世津軽一(青森県、二〇〇一年)などの最新の研究成果を盛り込んだ地方自治体史、長谷川成一氏の好著『弘前藩』(吉川弘文館、二〇〇四年)に代表される参考文献の併読や、他史料も用いた地道な検証作業を行う必要も時には生じることになるだろう。それを割り引いても、本書が弘前藩政のみならず、この時代の武家社会やそれを取り巻く諸事象の研究に寄与することはいうまでもない。有益な史料を紹介した編者の労を多とし、テーマに関心を持つ読者の一読を是非お薦めしたい。
           (ちば・いちだい 青山学院大学・聖心女子大学非常勤講師)
 
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