書誌紹介:長谷川正次著『高遠藩財政史の研究』
掲載誌:「信濃」57-10(2005.10)
評者:松崎 岩夫

私が著者に関心を持つようになったのには次のような事情がある。東京在住の著者が高遠の史料を駆使し具体性のある論考を次々に発表されるに及んで、氏がどのような経緯でかくも深く高遠藩の研究にかかわるようになったかということに注目するようになった。

    ○著者について
 著者の自著『高遠藩の基礎的研究』の「あとがき」等によると著者は一九三四年(昭和九)東京都生まれ、現在東京都多摩市在住。一九六〇年國學院大學卒業、その後高校教師、母校國學院大學講師等を歴任、この間、高遠藩研究・江戸町方の研究等に携わり、多くの著書・論文を発表している。
 私が注目していたところの著者が高遠藩研究に深くかかわるようになった契機は、大学三年次のサークル活動のテーマ「高遠藩の研究」によって高遠の現地に来たときに始まるようである。そのとき町内で史料採訪を行い、実に多くの史料が所蔵されているのに接し、大いに意欲をそそられ、感じるところがあったという。大学卒後、高校教師の職に就いても、クラブ活動では生徒を連れて毎年高遠に来て一貫して高遠藩の研究を続けられ、今日に至っている。
 著者の高遠藩関係の主な著書
 ○『高遠藩の基礎的研究』 東京 国書刊行会
 ○『高遠四百年』 高遠藩時代史 長野県 しんこう社
 ○『高遠藩総合年表』 長野県 青山社
 ○『信州中馬の歴史』 長野県 しんこう社
 ○『高遠藩財政史の研究』 岩田書院

    ○財政経済に関連する高遠藩の特殊事情
(1) 高遠藩の領域は急傾斜地や高冷地が多く、たとえば現高遠町域に限っても標高差は一二〇〇メートルに及んでいる。また天竜川・三峰川流域の地は多くが段丘上で当時は水利に恵まれず耕地に不向きの地が多かった。
(2) 高遠藩領の立地は信濃を南北に縦貫する基幹交通路である善光寺街道・伊那街道からはずれ山地に入り込んでいる地域が多い。
(3) 高遠藩は他藩(松代藩)による厳しい検地を受け、(元禄検地)それによって打ち出された約四万石から六三〇〇石が幕府領に組み込まれ、以降三万三千石となりこれが明治にまで続いた。これによって他の藩のような表高と裏高との差がほとんどなくなっていた。
 右のような自然条件・立地条件に加え、(3)のような事態は藩の財政基盤の強化を難しくし、貨幣経済の広がりと共に財政経済は大きく揺るがざるを得なかった。

    ○本書の構成  (平成一五年 東京岩田書院刊)
 序章から第八章に及ぶ六九一ページ、この中に図表三七を含むほか、史料を多用するこの種の書に不可欠な「人名索引」・「事項索引」がそれぞれ一〇ページ、一八ページにも亘っていて、利便性を高めている。図表は「年貢割付状」や「検地寄帳」などからの労多い集計による有益なものが多い。

 本書の各章の内容の概要とそれに対する感想
    序章 財政史研究の回顧と展望
 ここでは前半部で戦後日本の藩政史研究の流れに目を向けた後、高遠藩での財政史料が乏しいという点を補うために、在方史料を積み上げざるを得ないとし、昭和三〇年代以降の地元の論考を中心に展望し、それらについて簡潔に説明し、あるいは批判している。
 ここで目につくことは、この展望が全国的な視点に立って行われていることである。
    第一章 高遠藩政史の展望
 この章では高遠三代(保科氏・鳥居氏・内藤氏)の藩政の流れ、特に各藩主の治績を中心に述べられている。この間の様々な出入り・事件についてはその史料の名も挙げられているので、高遠藩研究には指針となる。
    第二章 鳥居氏の藩財政
 第二章では二代鳥居氏の時期について述べられている。この時期の史料は少ないとしながらも、数例の史料によって@高遠藩の地方知行制実施の時期A藩財政の窮乏に対応する税制について述べられているほかB新田開発にも目が向けられている。@の実施の時期は全国の足並みに合致しているようである。Aについては、大豆・小豆・そば・ぬか・薪・萱・縄・うどなど一三種の品名が挙げられていてこれらからも、取れるものはいかなるものもとってしまう姿勢がうかがえるとしている。Bについては悪地を家臣に与え、見立新田の形を採って開発が行われたことが述べられているが、資料からは天竜川沿いの地域以外は小規模な開発が多かったことが窺える。この点では領域内の地形も一要因とみられる。
    第三章 内藤氏の財政構造
 この章では高遠藩財政に大きな影響を及ぼすことになる元禄三年(一六九〇)制定の「高遠藩検地条目」とこの検地の内容・実施状況等が一五〇ページにわたって述べられ、その結果は数的処理がなされ図表化されている。この検地は元禄検地の一環とみられ、これは改易・転封の際に行われる例が多いので、高遠藩の場合、鳥居氏の改易にいたった不始末に対するお仕置き的な意味を持つと思われる。この検地は他藩主である松代藩主によって峻烈に実施された。そして打ち出された四万石から六三〇〇石が幕府領に編入され、残り三万三千石が表高として確定し、これが明治にまで続いた。注目すべきはこれは裏高との差が僅少であったことである。周辺の他藩の場合、表高と裏高の差は二・三割あったようである。
 この例からも元禄検地実施の目的は幕府による大名統制・幕府の財政強化を狙ったものであることがわかる。
 このような藩の状況は当然貢租負担率の上昇を招き、農民の抵抗を招くことになり、その状況が具体的に述べられている。
 一方藩士に対しても「俸禄借り上げ」等も行われ、苦しい生活を強いられたようである。
 当然藩主も藩財政窮乏の影響を受けたとみられるが、享保八年の一時期の台所での使用品目・数量とが記された「御台所入用」があり、内容に具体性があり興味深い。そのほか藩主交代時の出費内容も記載されているほか、特に興味をそそられるのは元禄四年(一六
九一)から文政一二年(一八二九)の間の「公儀への献金・献品一覧」が約五六〇項目にわたって金品の品目・数量等が記されていることである。これらから幕府及びその要路者と藩との儀礼や付き合い等が推測できるばかりでなく、当時高遠の産物・名産等がわかる。いずれにしても藩においては、落ち度なくこれらの交際や義理を果たすために、情報収集に努めたことが推測できる。こうした出費も藩の財政の圧迫につながったことが十分考えられる。藩の支出では五割以上が江戸藩邸の分で地元高遠での分は八百両にとどまっていたことが述べられていて、幕藩体制の本質を窺うことができる。
 さらに、享保八年(一七二三)八・九月の一ヶ月の藩主の「御台所諸入用」も掲げられていて、具体性があり注意を引くが、意外に質素の感がする。
 このほか新田開発費等具体的な記述もある。
 さらにこの章には@有毛検見(実収に課税する方式)A貢租上納量等が史料に基づいて述べられている。
 幕府は幕府領に対して享保三年(一七一八)有毛検見制を実施した(五〇パーセント・五公五民)。高遠藩はこれに先立ちこの制を実施し、最終的には五八パーセントにまでなった、とある。
 これに対し著者は小池氏(『駒ヶ根市誌』)の見解をも援用し、幕府は高遠藩を使って、どの程度まで年貢の増徴が可能なのかの試金石として高遠藩で実施させてみたとしている。
 Aの貢租上納量については村別・年次別に表に収められている。たとえば「新田取米」から新田開発の趨勢も把握できるなどこの使途は広い。
    第四章 享保〜安永期の財政政策
 一七世紀から一八世紀初頭になると高遠藩の財政は楽観を許さない局面にあったとし、その大きな要因として高遠藩は表高三万三千石に対し、裏高三万四千石で、ほとんど差がなかったとしている。ちなみに松本藩は表六万石に対し、裏九万六千石、諏訪藩は三万石
に対し四万六千石であったとみている。
 藩ではうちつづく窮状打開のため、享保中期、城下の富商(酒造業者・木地商等)を「町仕送役」に任命し、彼らの協力によって財政難を切り抜けようとした。享保一〇年(一七二五)の場合、貢納米を担保にし、一〇人で八千両を用立てさせることにした。ここで注目すべきはこの米価は藩役所で決めていたということであるが、さまざまな場面が推測できる。(利息は月二〇両一分)いずれにしてもここ高遠でも商人の経済力に依存せざるを得なかったのである。生産を伴わない純然たる消費者である武士の前途も見え始めたといえよう。
 このほか、高遠藩では前述のように有毛検見制であったが、元文元年(一七三六)から定免制に切り替えられた。その際過去最高の免率にしたこともあり、これに対する村々の抵抗があり、その状況も述べられている。
 さらに藩士に対する借り上げ制の復活、無尽の掛け金を藩財政への繰り入れ、倹約令等についても述べられているほか、本来藩で行うべき困窮者救済をも、村に行わせている。
 面白いのは倹約令の実施に当たって、体面を重んずる武家らしく、江戸藩屋敷勤務者は別扱いにしている点も見られる。
    第五章 文化・文政初期の財政政策
 前章までに述べたように、抜本的な施策もできず、一時しのぎの倹約令の布達、経費の節減といった財政難克服策を繰り返す中では、深刻さを増すだけであった。そんな中、文化五年(一八〇八)年貢の増徴(厘上上納)に踏み切ったほか、御用金・才覚金の上納となった。このほか藩による無尽を実施し、掛け金の全額を藩財政に振り向けるということも行われている。これまで藩は領内の自然環境・交通立地による、農業生産力の低さという環境の中、限度を超えるような年貢による収奪が行われてきた。そのためもあってか、資本の蓄積を阻み、新田開発等への投資を難しくし、結局その場しのぎに終始したということであろう。
 文化一五年(一八一八)になると近江商人から一〇年賦で一万両(利息月一割で貢租米が抵当)の借金が始まった。このころすでに口入人(金融ブローカー)が広く活動し、商人の経済力が僻遠の高遠にまで及んでいることがわかる。文政初期の藩の借入金は一〇万両にも達し、ようやく何らかの手が打たれなくてはならない時期に来ていることを予感させるものがある。
    第六章 文政期の財政改革
 このような中、藩主は大きな出費につながる大阪加番役等の役職就任を願い出た。藩主のこのような動きに対し、著者は藩主のこのような動きの裏には立身だけでなく、合力米(一万四千石)が支給されるので、これによって、藩財政を潤おすことができるとみたのではないか、としている。いずれにしてもこの場合、経済力のない藩は、農民からの収奪のほかなかった。結局農民に人頭税として男子は一日にわらじ二足、家屋税として女子は一軒で木綿一反を骨子とする御用負担を賦課した。しかしこれが引き金になって全領一揆(わらじ騒動・興津騒動)となり、これを機に財政改革に手がつけられた。
 ところがこの改革たるや、藩自身によって行われたのではなく、領内の豪農・酒造業・木地師等四人にそれを委ねたのである。四人が特に意を注いだのは@借財の返済A藩主らの日常経費の見直しであった。文政九年(一八二六)〜天保元年(一八三〇)に及ぶ四人主導の財政改革の成果については、史料によると、藩主入用ではある程度の成果がみられたようであるが、天保一三年の時点では借財の返済には手がつけられず、改革はようやくその緒に就いた程度であったとしている。したがって次章で述べる改革が必要であった。
 この章を通して強く感じる点は幕藩体制の硬直化はその極に達したということである。貨幣経済のめまぐるしい進展は農村においても小商品生産に明け暮れるようになっていた。こうした事態に対し、武士の行政官が対応する力を持っていなかったことを露呈しているとともに、藩の財源は依然として米以外にはなかったということを感じ、矛盾を感じる。
    第七章 天保期の財政改革
 文政期〜天保期にかけての時期は藩財政にとっては極端な窮乏が続いた。特に天保四年(一八三三)の大飢饉は大きな打撃であった。つまり凶作で借財返済はできず、御用金・才覚金のめども立たないという窮状の中、藩主自ら「経済にうとく」として、再び文政の改革を主導した豪農らに財政の立て直しを任せた。彼らの計画によると、@町や村の経費の節減によって、その分を藩に吸い上げるA拝地一五〇年祝賀を実施し領民からの献金を受ける。B無尽の実施、というものであった。Aの内容は献金(冥加金)によって百姓を村役人層へ昇格させるというものであった。実際にこれによって五五六人から一万六千三七四両が藩に入った。しかし根源を変えない限り、財政の立ち直りは望むべくもなく、依然借金財政であって、天保一四年以降不足金は二万二〇〇両に及んだ。
 これに対する対応策としては藩主経費の節減、藩士に対しては御借上を行い二〇〜三〇パーセントの支給をカットした。
    第八章 幕末・維新期の財政政策
 この章では在仕送役設定事情や廃藩置県前後の藩財政を中心に述べられている。仕送役は年貢米を担保に藩に金を融通(金利一割二分程度)し、年貢米収納時に決済する仕組みになっていた。この制度の名称はどうであれ、これに類するものはどこでも行われていたことであるが、高遠の場合、城下の富商らが町仕送役に任命されたのは、享保一〇年(一七二五)であった。その後文化五年(一八〇八)ごろから在方の有力農民・酒造業者らが在仕送役に任ぜられたらしい。このような動きは在方も徐々に蓄積が進んだことを意味しているが、高遠の場合は各村々の酒造業者の例が大半のようである。酒という商品から、彼らの資産形成過程がある程度推測できる。 
 明治維新後、廃藩置県時の高遠県の借財は約八万四千両、その返済計画も樹てられていたが、その後どのようになったかは明らかではないという。こう見てくると、高遠藩財政は、とうとうと寄せてくる貨幣経済の波にもまれ続けたといえよう。
 なお廃藩置県の際藩主が職を去る際に、領民(村役人クラスか)の中には金品や田畑・米穀等を餞別として送った例が記されている。

     まとめ
 著者が言うように、財政は藩政と密接不可分である。この本は藩財政に主な視点を当ててはいるが、高遠藩の通史でもあり、高速藩を研究する上で極めて有益である。理由は@広い視野に立ち、A中央・地域の多くの史料を網羅し、なおかつ資料の解釈・説明もあり、註記によって史料名も明示され、広い視野から高遠藩を見つめているからである。本書は著者の高遠藩への思いと、それを基盤とした長年の研究成果が集大成された優れた研究書だと考えられる。

 さて、歴史は温故知新だという。古きを正しく知るためにはまずその史料に接し、自己の史観に基づいてそれを読み取らなくてはならない。その意味では、
 私たちは本書を通し、問題の所在を把握したならば、次の段階として地域の中で、自分の課題としてたとえば、前章で指摘した、在仕送役のほとんどが酒造業者であった点はいかなる理由によるか、というような自分たちの地域の問題とし、地域の史料を使ってさらに掘り下げ、解明していくのも意義深いのではないだろうか。そしてこのような事例は、慌しく変転する現在・未来の姿を予測する資料になり、温故知新の「知新」につながることになるように思えてならない。東京在住の著者が長年にわたり高遠の地に足を運ばれ、地域に密着し、史料採訪に携わり研究を続けられた事実に深く敬意を表すとともに、さらなる研究の進展を心から祈り、書評を書かせて頂いた栄に感謝いたします。
                             (まつざき・いわお)
 
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