武田正著『昔話の伝承世界―その歴史的展開と伝播―』
評者・高木史人 掲載誌・日本民俗学 209(1997.2)

一、武田正氏の「いまここ」への拘り―「社会伝承」主義との決別へ

精力的な執筆活動を続ける武田正氏の新著『昔話の伝承世界―その歴史的展開と伝播―』(一九九六年三月、岩田書院刊、A5版377p)が上梓された。その書評を仰せつかり、本書を繙いてみて、筆者と共通の認識を有する点、また異にする点、双方共にあった。それは、当然といえば当然のこと。一九三〇年生まれの武田氏と、一九五七年生まれの筆者とが、全て同じ認識に立つわけもない。だが、一読して、感じたことは、武田氏の「若さ」ということだった。武田氏は、「いまここ」に問題となっていると、筆者たちの世代が考えていることがらに、いち早く、取り組もうとしている。
たとえば、『遠野物語』を再考しようとする動きが、三浦佑之、赤坂憲雄、石井正己の各氏らからなされている「いまここ」を武田氏は敏感に感じ取り、触発されて、本書第一章の論文群を著す。
  第一章 柳田國男の昔話世界へ
   第一節 『遠野物語』流竄―初版と「拾遺」のあいだ
   第二節 『遠野物語』の衝撃―柳田國男の出発
   第三節 「遠野物語拾遺」の位相
   第四節 「土佐源氏」を読む―民俗誌の新しい展開のために―
   第五節 柳田國男の昔話学
これらはいずれも一九九三年から一九九五年にかけて書かれたものである。その執筆のスピードには、やはり驚かされる。第一節から第三節までは、『遠野物語』と「遠野物語拾遺」との評価の問題を論じている。そこでは、『遠野物語』神話すなわち『遠野物語』が民俗学始発の書であるという常識に対して、異議申し立てがなされる。

『遠野物語』が柳田國男の想念の琴線にふれて生まれたものには違いないが、民俗学という学的体系化とは深いかかわりを持つとは言え、それは間接的な意味というか、民俗学を支える心情とのかかわりは持ちながらも、直接的なかかわりはないと見るべきなのではなかろうか。(7p)
もちろん、この見方は、武田氏のオリジナルというものでもなく、いまここの研究者の多くが持っている共通の認識というべきだろう。だから、ここで必要なのは、もっと精緻な検証の作業だ。たとえば、石井正己氏の一連のまことに細かい読みの積み重ねである。だから、できることならば、武田氏が石井正己氏の「遠野物語の成立過程(上)」「同(中)」(『東京学芸大学紀要 第二部門 人文科学』45、46集、一九九四、一九九五年) のような、マイナーな雑誌類にも目を通していたならば、もっと実りの多い議論を展開できたかもしれないのに、とも思ってしまう。
武田氏のオリジナリティがより発揮されているのは、やはり武田氏の得意とする「昔話」について言が及んだときである。また、武田氏の長年のフィールドワークの感慨が込められている論においてである。それは、第一章でいうならば、第四節と第五節の論である。
第四節は、宮本常一の『忘れられた日本人』所収の「土佐源氏」を柳田國男の『遠野物語』と対比させて、いまここの民俗誌のありかたへの提言をも試みている。
○その衝撃の描き方があくまで柳田と異なるのは、柳田が事実を自己完結的世界として描くことにあったのに対し、宮本は常に関係の中で捉えており、その関係性を自分の足で納得して描いていることであろう。(56p )
○そもそも民俗誌ではなくて生活誌を描くということは、民俗誌を描くということよりももう一段低位のものと見られてきた感がないわけではない。しかし、生活誌を描くことによって、民俗社会の中で具体的に生きる等身大の人間の息づかいが聞こえてくるのである。(57p )
ここで、武田氏は、「柳田國男―自己完結的世界―民俗誌」「宮本常一―関係性―生活誌」という対立軸を抽出する。そうして、柳田國男の俯瞰的あるいは積分的な対象把握の問題点を指摘して、新たな、身の丈にあった目を持ち、微分的に対象の把握をしようとする「民俗誌」を構築するために宮本の「生活誌」に注目をするのである。武田氏のフィールドワークでの経験の蓄積が、このような見解を導き出した、とみるのは、筆者の思い込みに過ぎるだろうか。だが、いずれにせよ、この対比、整理のしかたは武田氏の卓見だと思う(ちなみに、筆者も驥尾に付して、宮本常一のフィールドワークの魅力を『忘れられた日本人』所収の「世間師 2」を素材に考えたことがある。高木「<口承>として聴く―手作りの声拾いのために―」〔須藤健一編『フィールドワークを歩く』、一九九六年、嵯峨野書院〕)。
さて、武田氏は、さらに「土佐源氏」の主人公(インフォーマント)が「乞食」としてある村の中で、橋のたもとに生活をし、いわば村に養われていたことを引き、次のように述べる。
○自分は人間のかすでしかないと自らいうこの乞食の語り手の目の確かさ、ムラをはじき出されたというか、自らムラを飛び出さざるを得なかった者にとって、その目で見てきたムラというものは、この「土佐源氏」では陰画でしかないのだが、ムラというものは、人間のかすでしかない人間をもムラの中に組み入れて成立しているということを、われわれに教えてくれているとも言えよう。(59p )
○民俗をくずし、変えたのは、民俗社会からはみ出した人たちではないということが理解されると同時に、皮肉なことに、民俗社会を維持しようとするムラの人々からはじき出され、非難されてきた人々によって、民俗がもっともよく意識されてきたということにもなるのであろうし、ムラの人に見えなくなった民俗も厳にあることを教えている。(59p )
このように、村落の「民俗」が、共同体の構成員によってよりも、非構成員によってこそ記憶の篋底に秘されている場合が多いという指摘は、つとに早川孝太郎の「伝承保有者の一面」(一九三〇年) において、三河地方などでオジ、オバと呼ばれる一生、正式な結婚をせずにイエを離れなかった人々、いわばイエやムラからみると周縁に位置する人々こそがすばらしい伝承の担い手であったとする記述があるのだが、それと「土佐源氏」についての武田氏の読みとは、おそらく、通じ合ってくるはずだ。民俗とは、誰のものか、という、一見自明そうにみえる常識を、ひょっとして、この、武田氏の読みはひっくりかえしかねない。たとえば、仮に、「民俗学界」というムラ社会を想定してみればよい。その構成員の中心よりも、その外部の方が、正当に「柳田國男」を認識している、と、なぞらえていえば、そういうことをいっているのだ。まことに根底的〔=ラディカル〕な指摘であると思う。
そうして、武田氏は、次のように論を進める。
民俗学でいう「民俗」そのものを、今までわれわれはムラの「制度」―それが顕在的なものであれ、ムラの表面に現れない内的なものであれ―として受け取ってきたのではないかと、反省させられる。というのも、民俗をしきたりと見、しきたりそのものがムラを維持していくための制度として、ムラでの生活を枠づけているものとわれわれは見てきたのではないかということである。だとすれば、国自体の政治体制や経済制度とどのように異なるものをもっておろうとも、そのような体制や制度の変化によって、当然「民俗」は崩壊することになろう。しかし、そのような体制や制度が変化しても変わることのなかった民俗は、いくつも掘り起こすことができる。むしろ、体制や制度の方で民俗を吸収する努力がなされた例さえ多く見られている。ということは、「制度」だけでムラが維持されていたのではないということである。
生活の次元まで降りてみることで、ムラに生活する人々、制度を維持しようとしてきた人々と共に、制度からはみ出した人々までを含めて、具体的な(というか現実の)ムラは成立していたのである。ムラの秩序を維持しようとする人々とそこからはみ出した人々の相互作用によって、ムラは成立しており、両者のこころの対立や融合によって民俗の根底が成立しているのであり、民俗変貌の原因は少なくとも別の面に求めなければならないことが理解される。あえていえば、民俗を支えた「こころ」の変化がなければ、生活を支えている民俗が失われるということはないということである。(60p )
この論の重要性は、昔話研究者よりも、おそらくは、「社会伝承」などと呼ばれる領域を研究している人々に対してこそ、あるだろう。とりわけ、「伝承母体」という名称のもとに、「民俗社会」の構造と機能とを「体制」や「制度」らしき認識の語彙で記述していった研究者たちは、ここでの武田氏の論に対してどのような対応をみせるのだろうか。興味のあるところだ。というのも、武田正氏のこのような論は、ここでは宮本常一の生活誌の記述法によって導き出されたとはいえ、ここに至る過程には、当然のことながら、武田氏の思考法の核として<口承>を捉える目(耳)があるだろうからだ。
「民俗学」、特に柳田國男没後の「民俗学」は、一九七〇年代を境にして、「民俗語彙」主義を放棄し、「伝承母体」派が勝利を収めたのではなかったか。もちろん、それは、「民俗語彙」主義の「主義」とも呼ぶべき硬直性によって、これを打破する必然性は、当時としては、あっただろう。しかし、一九七〇年代以降、多くの民俗学の講座類、入門書、民俗誌の中で、「民俗語彙」に象徴される柳田的な「ことば」への配慮、注意は失われていき、「ことば」を研究する「口承文芸」は「国文学」の方へ(もっとも「国文学」の方でも外部扱いされつづけているのだが)間借りを余儀なくされていたのである。このことは、民俗学の諸書の項目の順序や配分をみると、分かりやすい。簡単にいうならば、「体制」や「制度」という概念装置を用いる「社会伝承」が時代の先端を走る存在であり、具体的な「ことば」を見る(聴く)「口承文芸」は取り残された領域として遇されてきたのである。そうして、このようなものの見方は、いまここでも続いている、と、筆者には思われる。
*(以下*までの段落は、『日本民俗学』編集員会から、「削除」の方向で検討するようにとの指示があったので省略したが、このホームページ上では復活させている)たとえば、一九九四年に筆者は、福田アジオ氏が編集委員長をつとめ、新谷尚紀氏が事務局長をつとめ、神田より子氏、中込睦子氏、湯川洋司氏、渡辺欣雄氏が編集委員をつとめる『日本民俗学大辞典』(吉川弘文館)の編集委員を解任されるという経験をした。筆者の担当は「口承」であったが、その後任者をその後置いていないのである。筆者が解任させられたのは、次の経緯による。筆者の担当の口承(第一回の編集委員会で決定)分野が、第二回の編集委員会を前に送付されてきた項目案では消え失せており、かわりにその項目案では「時間の民俗」「空間の民俗」「心意の民俗」に大別され、就中、「昔話、伝説」は「心意の民俗」に、そうして「世間話」は「空間の民俗」に、そうして「民謡」はない、というように、「口承文芸」や「ことば」が一定の領域を認められていなかったのである。そこで筆者が出版社に電話で抗議したところ、これは「案」に過ぎないとの答えを得た。ところが、後日、新谷氏に呼び出され、この「案」は「体系的」かつ「客観的」なものであり、このような優れた「案」に抗議する人とは一緒に仕事ができない、辞めろ、と首切りを宣告されたのである。筆者は、一九九四年中に直接口頭で新谷氏と、吉川弘文館の一寸木(ますき)氏に、また電話で福田氏に、それぞれ解任の理由とその経過についての文書の送付を頼んだのだが、一切、無視された。そうして、一九九六年の春になって突然辞典の執筆依頼および原稿用紙が郵送されてきたのである。それじたい、自分たちで編集委員を辞めさせておきながら、しかもその経緯を文書で当人に答えることをも怠ったままで失礼なことである。さらに、筆者は、これは筆者の処遇の問題だけではなく、<口承>研究に携わる人々全体への、あるいは<口承>という研究領域への「社会伝承」主義者の偏見を、感じ取らないわけにはいかなかった。たとえば、「社会伝承」の担当の編集委員を首にしておいて空席のままに民俗辞典を編集するだろうか。しかも筆者に送付されてきた辞典の項目はまことにアンバランスである。たとえば、「世界口承文芸学会」を二〇〇字で説明できるだろうか。「あいづち」(これも二〇〇字)で「昔話のあいづち」を想起して辞典を引く読者がいるだろうか。というようなわけで、筆者は改めて正式に文書(簡易書留)で、筆者の解任の理由とその経緯の説明とを文書で回答するように編集委員会に求めたのだが、未だ正式の回答を得ていないのである。なお、この問題は、逐一<口承>研究会で経緯の報告を続けてきており、また一九九六年度の日本口承文芸学会会員総会において報告している。*
武田氏が狙い撃つ民俗学における「体制」「制度」論者とは、まさにこのような<口承>研究を抑圧する者に他ならないのである。したがって、武田氏の論は、宮本常一の「土佐源氏」に記された「ことば」を丹念に「読み」を示し(特に58p 辺り)、「ことば」の背後に潜む「声」(<口承>)を聴き取ることによって生成していく。いまここで、「社会伝承」主義を批判する時代の空気を武田氏は若々しくも、呼吸している。けっきょく、「体制」にしても「制度」にしても、その具体的なあらわれは、日々の具体的な言語生活(を始めとするさまざまなメディア)を抜きにしては考えられないという、当然のことが、長いこと、この国の「民俗学」では忘れられていたのだった。いまここで、ようやく、<口承>が研究を先導する可能性を拓いてきているのである。
さて、第一章第五節の「柳田國男の昔話学」について触れよう。柳田國男の「昔話」研究を再検討することは、近年の<口承>研究における、きわめて重要な基礎的作業である。というのは、一九九一年六月に行われた日本口承文芸学会のシンポジウム「<口承>研究の『現在』」及び、そのときに配布された『<口承>研究の「現在」』(筑波大学歴史―人類学系日本民俗学研究室刊)での議論は、今まで自明とされてきた「口承文芸」の枠組みを、精緻かつ大胆に研究史を編み直すことで、その自明性に疑問符を付してしまったからである。それと同時に、この作業は、これからの<口承>研究の可能性を、今までの「口承文芸」研究の比較のありかたから脱却して、新たに拓こうとすることにもなった。それは、一つには、「伝承」という鍵を「近代」という鍵に持ち替えて今までとは違った扉を開けようとしたのである。たとえば、『<口承>研究の「現在」』所収の重信幸彦「昔話」の発見―ある口頭伝承史の構想―覚書―」では、柳田國男が用いた「昔話」の語を、当時優勢に用いられていた「童話」の語との対立関係から読み解いた。そこでは、近代科学としての児童心理学や児童学の影響のもとに「童話」の語が、大人の想定する理想的な「子供」へと導くための道具として、標準語で話すものとして成立してゆき、一方の柳田の唱える「昔話」の語は、子供が言語を身につけていくための「はなし」の「場」として用意されるべきものであり、当時の標準語を撃つための仕掛けでもあった、と読み解かれたのである。驥尾に付して筆者も「昔話と伝説」(『説話の講座』2、一九九一年、勉誠社) 、「村の語り―柳田國男の『昔話』論小考」(『語りの世界』16、一九九二年、語り手たちの会)を著したことがある。前者は、柳田が「伝説」を発見したのと、「昔話」を発見したのとは、時期がずれていることとその理由を述べたものであり、後者は、柳田の「昔話」が「昔の国語教育」の延長線上に導かれたものということを、まさに重信氏の後塵を拝して、あらあら述べたものである。
さて、ここでの武田氏は、『<口承>研究の「現在」』での執筆者の一人であるのに、重信氏の論を、一切引かない。武田氏の読みは、以上の文脈とは異なるところから示されるのである。おそらく武田氏にとっては、昔話とは「実体」として近世以前から連綿と語り継がれてきたものとの認識があり、それは重信氏のように「昔話」の語を近代における歴史的な所産と捉える視座とは一定の距離を取っているからだといえよう。これも一つの見識である。その上で、武田氏は、柳田國男の昔話研究のごく初期の著作である、一九二八年に執筆された「昔話解説」(初出は新潮社の『日本文学講座』16所収)に注目し、「それはそのまま昔話研究の全領域を網羅していると同時に、今後の研究さえも見通してしまっているという観さえなきにしもあらずである、という用意周到さであったといえる(75p )」と記す。そうして、武田氏は「昔話」と「童話」との差異の問題、「かたり」と「はなし」との差異の問題には、ここでは触れず、柳田が説いていた昔話における主題ともいうべき問題、昔話には「幸運の法則」があるとみていることなどを指摘して、以後の土橋里木『甲斐昔話集』の序(一九三〇年)、『桃太郎の誕生』(一九三三年) などを引用しつつ、「昔話研究のねらいが、固有の「話の種」を見出すことであり、それは、後代に附加された部分を取り除くことによって、生活の中での水神信仰を見、水田耕作を生業としてきた日本人の生活の『心意』を探り出すことであって、柳田にとっては、少なくとも昔話の中から日本人の文芸意識を探り出すといったことは、二次的なことに過ぎなかったことは理解されよう(88p )」述べる。まことに穏当で従来の研究の路線にそった解釈ではある。しかし、ここでは、やはり「昔話解説」の中に「子供らしさ」「童話と昔話」の二節が存在していることについてのコメントが欲しかった。というのは、「昔話解説」に先立って、一九二七年に西条八十「日本の童謡―童話」が、柳田のと同じシリーズの『日本文学講座』10( 新潮社)に収められていたからである。この中で西条は童話の歴史を、文献をもとに、上古の神話的童話(『古事記』)から説き起こし、中古近古(『竹取物語』『今昔物語』『日本霊異記』『宇治拾遺物語』「謡曲文学」など)を説明したあと、徳川時代については、「童話」の語の出現と「昔ばなし」の語について、曲亭馬琴の『燕石雑誌』『玄同放言』や山東京伝の『骨董集』を挙げて説明をし、また「徳川の末期に至つては、この昔ばなしが落し話と解釈され、童話とは全然異つた材料を取扱つたばかりでなく、これが更に転じて、おどけ話、一口話、地口へと、益々岐路に走つたのである」と、いわば「昔話」から「笑い話」へという変化の過程を述べていた。そうして、次には「お伽」の語を解説して「徒然を慰める相手として語る話」として、そのための話として「お伽草子」があり、その発達して形成されたものが「曽呂利話」「醒睡抄」「曽呂利狂歌話」などだと説くのである。そうして、この変化は次第に分化してゆき、奇談物、怪談物(百物語妖怪畫譚)、教訓道話式のものとなり、「遂には『きのふはけふは物語』のような如きものから、漸次、軽口話となり、おどけ草子と降つて、落ち付くところは、前述の昔話に於ける一口ばなしの堕落と傾向を一致させるに至つたのである」という。この辺りの昔話から一口話への「堕落」という歴史の叙述は、柳田國男の「零落」の語と重なってくるだろう。したがって、昔話の「零落」という発想じたいは、けっして柳田國男の発明ではなく、おそらくそれは一九世紀後半にはひろく受容された「進化論」もしくは「退化論」に重なってくる発想であり、その意味において、一八七五年生まれの柳田と一八九二年生まれの西条八十との生きられていた時代における共通の制約が働いた発想であったといえよう。
しかし、西条は明治を述べるに至って次のように巖谷小波を紹介、称揚していた。  
氏のこの真剣な態度が、やがて目覚めんとしてゐた世の多くの人々の共鳴と、自覚とを呼び醒す動機となって、童話文学の黎明は訪づれ、此処に外国童話の輸入と相俟つて、日本童話は在来のものとは全然面目を異にした新旗幟の下に、素晴らしい躍進と栄ある展開の記録を、わが歴史の一頁に鮮かに織り成すことの幸福を有つたのである。
即ち、これまでのものは童話といひ、昔ばなしといひ、又お伽噺と称して、その名を異にしてゐるとは云っても畢竟するに各れもが興味を本意とする物語であることに於いては同じであつて、唯興味をつなぎ得るものでさへあれば、その目的とするところは十分で、たとえそれが現代の児童の精神とは何等関係のない時代錯誤のものであらうとも時には何等の痛痒をも感じなかつたものである。
これに反して新興の童話が目標として掲げるところのものは、一言にして之をつくせば、児童の心に生起する麗しい情操の芽生えをより健かに美しく香気あるものとして成長せしめるにある。この点、在来のお伽噺類のもつてゐる特質並びに価値だけでは、到底児童の心の糧としては不十分であり、その心霊の全一的な、完美の成長を期することは不可能である。されば、こゝに留意して、広く他の種類の児童に適する読物をも迎へて、これを童話の名称の下に包含してゐるのが所謂今日の童話であり、その態度に於て、作者の全人格的感動をもつた第一義的作品―即ち芸術的作品を生み出さんとすること自体が、在来のものとは根本的に行き方を異にしてゐるものである。
このような、西条論文の、近代的な「童話」を優れたものと見るありかたは、今度は、柳田國男の「昔話」の考え方と、烈しく抵触し、闘争するはずのものであろう。ちなみに、西条論文の直後には伊波普猷の「日本文学の傍系としての琉球文学」が配されていたから、柳田がそれを読むついでに西条論文を読んだという確率は、かなり高いといえる。というよりも、柳田國男は、確かに、この西条八十の童話論を、それと同じ日本文学講座の中で迎え撃ったのだ。柳田には、そのようなジャーナリスティックな効果を狙うしたたかな一面もあったことを忘れてはならないのである。
武田氏の論を紹介するつもりが、以上は、武田氏にとっては興味の範囲外のことに見えるかもしれない。本書での武田氏が興味を抱いていたのは、柳田の「昔話小考」から出立した「昔話研究のねらいが、固有の『話の種』を見出すこと」ということであった。だが、その「話の種」がどのようにして変化していくのかを「神話」から「昔話」そして「笑話」へという大まかな線で捉えるというのは、柳田も西条も大差ないということになるのである。柳田がこの変化を「零落」と呼んでいたこと(西条は「堕落」)について、武田氏は、関敬吾の昔話観を紹介しつつ「昔話そのものを『神の説話の零落したもの』という観点でなく、説話から昔話の独立と見る見方に立って、昔話自体の持つ意味をさぐらねばならないという研究の道(98p )」を示しているがじつは、その考え方は、「退化論」を「進化論」に読み換えようとするにすぎず、「進化論」や「退化論」の根底的な脱構築が唱えられて久しい「いまここ」をここでの武田氏は捕捉しきれていないのではなかろうか。
だが、一方で武田正氏は、この論文において次のような重要な指摘をも行っている。
そこで柳田はもう一歩すすめて、語りごとから、口碑としての譬え、格言、謎、唱えごと、わらべうた、民謡、踊りやくどきまでを含めての<口承文芸>という概念の確立をめざした。(89p )
という部分である。すなわち、柳田は「昔話」を先ず発見し、次いで「口承文芸」を発見したのである。それも「概念」として。学問を体系的に把握しようとする場合、先ず大枠が設定されて、次にその下枠が設定されると理解してしまいがちだと思う。だが、多くの研究は個々の小さな領域から始まって、いつのまにやら話が膨らんだみたいなこともあるのだ、と、武田氏は、気づかせてくれるのである。少なくとも、筆者は、そう気づかせてもらった。ありがたい。
さて、武田氏は、第五節の終わりを柳田國男と関敬吾との昔話研究を比較しつつ論じ、「比較民話学」の提唱を行っている。武田氏の「民話」の語は神話や伝説の語をも含めて「民話」とするもので、現在、しばしば「民話」と「神話」という対立を見る研究者もいる中で、独自の見解というべきで、注目される。ところで、武田氏はこの論の終わり近くで、柳田が、終戦後に昔話の研究をしなかったという事実にふれて、次のように記している。
ともあれ、『桃太郎の誕生』を書き進める中で柳田が昔話研究に向けた目を、『日本昔話名彙』(昭和二十二年をまとめ上げるということで限定してしまった。
時が時だけに、民俗学をもって第二次世界大戦後の混乱の中で日本の新しい方向を見定めるに急なあまり、昔話研究が放棄されたことの意味はあまりに大きかったと見なければならない。(99p 〜 100p )
この指摘は、今までも多くなされてきたところであるが、この事実は昔話研究の遅れの みならず、その後の「民俗学」が、「ことば」への執着を軽視してきたきっかけを作ったということもいえるのではないだろうか。武田氏のここでの指摘の意味は極めて重い。

二、<口承>研究の問題群に向けて

  第二章 昔話の運び屋
   第一節 昔話の運び屋―そのおせっかいぶり―
   第二節 祭文語りと早物語―村共同体への定着の条件―
   第三節 百物語―その成立とひろがり―
   第四節 昔話語りの歴史的展開
   第五節 比較民話研究について―研究のための<比較>の視角をどうするか―
   第六節 世間話と昔話のあいだ―「異人殺し」と「子守唄内通」―
第二章の目次は以上の通りである。「運び屋」というのは、話を伝えると同時に、話の登場人物にもなる「伝播者」の謂だろうが、「運び屋」というと、何だか身近かに思えて、楽しい。今に生きている語を使うという姿勢は、賛成だ。もっとも、最近、よくつかわれるのは「ヤクの運び屋」の末端の「売人」であるが、彼らとて、話をも日本に持ち込んできている、少なくとも都会の噂の中で活躍していることを考えると、「運び屋」としたことによって、「いまここ」という視座をも持ち得るのかもしれない。筆者の知っているある学校(進学校)の生徒も、ついこの間、偽造テレフォン・カードを使用して補導されたが、その話を中学三年生の子供たちにしたところ、「その(テレフォン・カードの取引の)あとで、『チョコ』もあるよって言って、麻薬も売ってるんだよ」と、こともなげに解説してくれた。こんなに身近な話題なのか、と、びっくりして、そのあと、世間話としての「運び屋」の話をいくつか確認した次第である(こういった話題を「民俗学」は、どう受け取るのだろう、特に「比較研究」の人は)。さて、第一章に比べると、第二章での武田正氏は、水魚の譬えよろしく、いきいきと筆を運んでいる感じである。ここでの武田氏の問題意識は、概ね筆者の考える<口承>研究の問題群と重なって来るのは、驚きですらある。特に第一節から第三節にいたる論考は、今までに何度も取り上げた素材のせいか、自信を感じる。そうして、本章で特に論じられるのは「モティーフ」批判ということである。
たとえば、第一節「昔話の運び屋」の中で、武田氏は「猿神退治」の話を論じるが、そこで、こんなことを述べる。
モチーフの分析・比較には、いつも戸惑いを覚える。(中略)「猿神退治」譚は各地の昔話資料としても発掘されており、前述したように寺社縁起譚にも多く見られる。そういった事例が多くなればなるほど、オイコタイプとされるその地域の基本型と、原型としての話型とはますます遠くなってしまうことがないわけではない。またすでに文学の古典とされている『今昔物語集』にそれがあるから、そのモチーフが原型なのだとか、原型に近いとする見方が、どれほど正しいか、否どれほどの意味を持つかは、ますます疑問になってくるのである。もし記述されて残った『今昔物語集』のモチーフが、原型あるいは原型に近いものとするなら、そのモチーフと異なるものが全て後世における付加部分であり、削除されているモチーフは後世の変容と捉えてよいということになり、そう言った単系伝承的発想が正しいかどうかが、また新しい疑問となって出てくるからである。(115p)
これは、全くそのとおりの意見であると思う。筆者は既に、「話型」という概念について、同様の疑問を感じ、また、「話型」を「単系」すなわち一義的にではなく、多義的に用い換えようという提言をしたことがある(高木「近代文学研究と現代文教育」〔『国学院雑誌』1006、一九九一年一月〕、同「『口承文芸』の<場>―一義的な『話型』=『物語』から<場>=『物語』へ、そして多義的な『話型』へ―覚書」〔『日本文学』41・7、一九九二年六月〕、同「竹取物語から説話―昔話へ」〔『国文学―解釈と教材の研究』38・4、一九九三年四月〕など)。武田氏の論は、このような「モチーフ」批判を基底にして、話の生きている状況こそが大切なのだと進められる。それぞれの時代の文脈・背景と話との係わりの中にこそ話は生成していくということである。116pから118pにかけての『今昔物語集』中の二種類(美作の国と飛騨の国との)の「猿神退治」譚を比較、検討して、飛騨の国の話を複雑に過ぎる話として、構造を分析し、「これを語る唱門師や説経僧から見れば、極めて巧妙なトリックは、逆に聞き手に素直に受け取られなかったのではなかったか(119p)」と、「場」の問題へと展開する。なるほど、と思うと同時に、だが、もう一歩踏み込んで、たとえば逆にいえば、これほど複雑な―といっても飛騨の国の話は、その外枠に「桃源郷」という空間設定を行ったという程度なのだが―説話を語りおおせる唱門師や説経僧、あるいは作者とそれを聴く聴き手、あるいは読者を持ちえた時代として、すなわち、「昔話」の時代ではなく、「かたりもの」の時代として中世をおさえるような視座もあるだろう。だとすれば、この飛騨の国の話も「小栗判官」や「山椒太夫」のごとき長編化された物語の先駆として、かえって聴衆に歓迎されたかもしれないのだ、などの解釈をも検討してはどうだろうか。
第二節の「祭文語りと早物語―村共同体への定着の条件―」は、副題が示すように、「運び屋」と「村」との話柄の問題を論じた手堅い論である。たとえば、早物語について、「それが小盲目・瞽女の初心の芸人から、晴眼のチョンガレ語りや祭文語りの初心の者へ移ることにより、語る内容が少しずつ大人、若い衆向きに移っていくことになったのだろう(147p)」という指摘である。 第三節は「百物語」の民俗を論じている。武田氏は特にこれを「若衆の民俗と言ってもよいのではなかろうか(171p)」と指摘している。そういえば、関敬吾の『日本昔話大成』には、「肝試し」という話型が登録されていたが、こういった行事の一端に「百物語」も行われていたということか、と納得した次第である。ちなみに、筆者は「昔話の語り合い」ということをテーマにしていくつか論じたものがあるが、通底してはこないだろうか(高木「『昔話の聴き手』と昔話の語り合い―その整理と分析及び話柄―新しい昔話について―」〔『国学院大学大学院文学研究科論集』12、一九八五年〕、同「昔話の語りあい―『火廻し』を中心として」〔野村純一編『ストーリーテリング』一九八五年、弘文堂〕、同「『昔話』の解釈―『共=競演』の視座から―」〔『フォーラム』12、一九九四年、跡見学園女子大学文化学会〕)。
第四節は、「昔話語りの歴史的展開」である。これは、従来の「目に一丁字なき人々」が昔話を伝えた、とする常識に対して、「文字」などのメディアにも昔話を普及させるのに力があったことを説くものである。「民俗」と文字などのメディアの問題は、近年、武田氏も紹介している内ケ崎有里子氏の近世の絵本の分析以外にも、たとえば、川島秀一氏の「本読み」と呼ばれた人々の存在の問題、小池淳一氏の陰陽道と民俗との係わりの問題など、にわかに注目を浴びている。『口承文芸研究』(日本口承文芸学会刊)の16号(一九九三年)には小池氏の「陰陽道系説話の展開と位相」が、17号(一九九四年)には内ケ崎氏の「江戸期昔話絵本「舌切雀」ものについて―「雀の宿」(隠れ里)の変遷―」と川島氏「『本読み』の民俗」とが掲載されている。また『口承文芸研究』18号(一九九五年)では、「語るいとなみ・書くいとなみ」という特集が組まれている。驥尾に付して筆者も前述の「竹取物語から説話・昔話へ」において、日本の笑話のほとんどが「文字」を通過して成立したのではないか、と仮説したことがある。
第五節は一九九三年度に行われた日本口承文芸学会大会でのシンポジウム「昔話伝説の比較研究はどこまで可能か―炭焼長者譚を例として―」におけるフロアー(特に筆者)と壇上及び伊藤清司氏との間でのやりとりと、その後の『伝え』(日本口承文芸学会刊)紙上での重信幸彦氏と福田晃氏とのやりとりや池田香代子氏の意見に触発されて、書かれたもの。武田氏のジャッジメントは、おおむね中庸を得ているが、隔靴掻痒の感なきにしもあらず、筆者としては、フロアーからの筆者の発言が、その後の議論の中で正しく認識されていないとの思いがある。筆者の意見はパロディ小説にして既に発表している(高木「新・新民謡『結婚しようよ』考」〔『物語研究会会報』24、一九九三年八月〕)が、ここに少しくかいつまんでいうならば、筆者の提言とは、決して「比較」を否定しようとするものではなく、日本の「昔話」と周囲の昔話(たとえば「故事」)とを比較するに際して必要な作業として、お互いの研究方法やフィールドワークの方法、資料集の方法などの「質」を見極める必要があり、実はそこからこそ「比較」が始まることになる、ということなのだった。その、「質」という語を、ある論者によって「信憑性」「信頼性」という語にすり替えられて、「中国の昔話集は信用できないかもしれないが、……」みたいな雰囲気の議論になったときから、議論の不毛が始まったのである。たとえば、鉄とプラステイックとは「質」が違うが、そのことが単に「信頼性」のレベルの問題に置き代わるだろうか、ということである。どのように用いるのかによって、鉄とプラスティックとの「信頼性」は簡単に交代してしまうはずだ。あの時、中国の資料などの「信憑性」「信頼性」を口に出した者は、知らず知らず日本中心主義者になっていたのである。
第六節「世間話と昔話のあいだ―『異人殺し』と『子守唄内通』―」は、昔話と伝説と世間話との関係を、「異人殺し」を素材にして論じている。そうして、ここでの指摘の重要な点は、以上の三つの領域が「話型」や「形態」という側面よりも、「社会の中での緊張関係」という側面によってこそ、その微妙な差異を明らかにしてくるという指摘であろう。「社会の中での緊張関係」という点では、矢野敬一氏の「『家』の盛衰―『異人殺し』のフォ−クロア」(『口承文芸研究』15、一九九二年)が、異人を殺したとされる「家」じしんでの説明と、その周囲の家々での説明とが、どのような文脈・背景によって異なっているかを<口承>の分析から説いて、興味深い。
このような指摘は「昔話」と「伝説」とを「心意の民俗」に所属させ、最近流行の「世間話」を切り離して「空間の民俗」に位置づけようとすることはできないことを意味している。単に「話型」として「世間話」を切り離すならば、武田氏の見解とは、全く相いれないことになるのである。
さて、武田氏は、このように述べる。
これ(世間話)をモチーフ分析するとき、伝説も世間話も同一構造だと見られてしまうこともあろう。(220p)
武田氏は、続けて、宮田登氏の説を引用する。
われわれは厳密な形で〈世間話〉を噂や笑話、伝説や世間話や昔話と区別する必要を特別に感じていない。しかし〈世間話〉として流布・伝播する類型性は、それを受容する聴き手・受容者の心意、コスモロジーと深く関わる故に、より注意を払う必要があるのである。(「世間話研究の意義」〔小松和彦編『昔話研究の課題』一九八五、名著出版〕220p)
この中で用いられている「コスモロジー」の語を単純に「空間」の語に還元させてはなるまい。むしろ「時空」あるいは「世界観」「宇宙観」の謂とみるべきだ。また、「類型性」の部分は、たとえば重信幸彦氏の「『世間話』再考―方法としての『世間話』へ」(『日本民俗学』180 、一九八九年)などで批判されているが、いずれにせよ、この武田氏や宮田氏の発言は、世間話を昔話、伝説と隔離して論じることの愚かしさをも指摘しているのである。
さて、定められた字数に近づいてきた。小稿では、第一章を細かく論じたので、第二章が若干手薄になり、第三章は触れられない状況になってしまったが、それは論文の評価の一つとして、スペース配分を決定したということではない。第三章は書き下ろしの論考が多く、「語りの饗宴」というタイトルも魅力的である。
ただし、これは、武田正氏の諸論を繙いてみて思ったことであるが、武田氏は執筆に急ぐあまり、先行や並行の研究論文への配慮がやや不足しているように、見受けられる。これは、論文や資料のオリジナリティが問われやすい「いまここ」において、気をつけなければならないことだろう。小稿では、その欠を補うべく、いくつかの関連する論文を紹介してきたが、最後に、筆者自身の興味ある箇所に限って述べるならば、昔話研究史の中で、昔話の聴き手に注目し、昔話が語り手と聴き手との間の「場」という関係性の中で生成するという、筆者流にいうと「伝承動態」の視座は、多くの先学の論があるはずだ。また、最近の聴き手論や場の論は、文学研究の領域にまで研究史を広げて俯瞰してみるならば、いわゆる読者論、テクスト分析の理論の影響を受けて行われてきたことが明らかだが、武田にはその認識が希薄だ。
したがって、小稿では、武田氏が語り手と聴き手との関係について述べた箇所については、筆者としてはそのオリジナリティを認めにくく、あえて言及してこなかったことを断っておく。ただし、この問題は武田氏個人の問題というよりは、〈口承〉研究には、研究論文や資料集を整備してある専門の機関がないという事情もあり、いわば先述の「社会伝承」主義のもとで〈口承〉研究が抑圧されてきた状況とも通底する学界の構造的な問題だということもできるのである。筆者は、武田氏の人となりには、常々敬服している。武田氏は、とても優しく、魅力的な方である。そうして、本書が全体として、昔話研究の意欲に溢れた若々しい気概に満ちた書であることは、疑いない。これこそ本誌の書評に値する所以であろう。
なお、筆者は「口承文芸」と<口承>とを区別して用いている。これについては、高木「語りの『声』」(山下宏明編『平家物語研究と批評』一九九六年、有精堂刊所収)、あるいは同「『昔話』の<時>と<場>」(『岩波講座日本文学史・口承文学2』17、近刊、岩波書店刊所収)を参照されたい。
(『日本民俗学』209 、一九九七年二月、日本民俗学会刊)
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