書誌紹介:原口 泉・丹羽謙治・下原美保・河津梨絵・入船もとる・安達晃一・加治屋貞之共編 『薩摩藩文化官僚の幕末・明治 木脇啓四郎『萬留』−翻刻と注釈−』
掲載誌:「地方史研究」317(2005.10)
評者:西 光三

 幕末・明治の薩摩藩は、決して特定の維新の志士だけによっては語り尽くすことはできない。その思いを新たにさせてくれるものが、この度、薩摩藩の「文化官僚」の眼から幕末・明治にわたる事物を動態的に捉え記した『萬留』を翻刻し、注釈等を加えて発刊された本書である。
 本書は、幕末・明治維新と生きた薩摩藩士木脇啓四郎祐尚(後に祐業)(文化十四年〈一八一七〉〜明治三十二年〈一八九九〉)が、その晩年に記した『萬留』と呼ばれる史料について、原口泉氏(鹿児島大学法文学部教授)のゼミ内に設けられた研究会(教員三名、院生四名)においてほどこされた史料解読・翻刻・注釈解説に、研究会のメンバーである丹羽謙治氏(鹿児島大学法文学部助教授、日本近世文学)による筆者木脇啓四郎に関する解題を加えて一書となしたものである。
 さてこの『萬留』の作者、木脇啓四郎は、薩摩藩城下士木脇家分家(次男家)の嫡男として、当時「島詰」を命じられていた父の赴任先であった沖永良部島で出生する。十四歳のとき、従兄東郷助作の世話により、茶坊主として出仕、大目付座詰茶坊主、御家老座詰茶坊主、御数寄屋御茶道、小頭寄と転じ、その後、花頭(花道師範)となる。この経歴は、『萬留』に、文化的活動についてのひじょうに多様かつ幅広い記述が多くもりこまれていることの要因となっているといえる。
 また啓四郎は、天保十四年(一八四三)〜弘化元年(一八四四)、嘉永四年(一八五一)〜同六年(一八五三)と、二度にわたる江戸詰を経験する。この期間に彼は甲冑製造法に熟達するとともに、栗原信充から有職故実を学ぶ。こうした経験を活かして、鹿児島では甲冑製造所の責任者となるとともに、国父島津久光の指示を請けて薩摩藩版の刊行にも関与する。さらに明治になってからは、鹿児島県の依頼により『麑海魚譜』、『薩隅煙草録』等の編集にも参加する。このように啓四郎は、その生涯を通して、己が身につけた数々の技術を活かしつつ、維新後の薩摩の文化事業発展に尽力し続けたのである。
 さて本書の構成については次の通りである。

  目次
  口絵
  序 (五味克夫)
  解題「木脇啓四郎と『萬留』」(丹羽謙治)
  木脇啓四郎年譜
  凡例
  『萬留』 目録
  『萬留』 本文と注釈
  補注・参考図版
  難読箇所一覧
  参考資料「藤原朝臣木脇氏系図」(抄)
  あとがき
  索引 事項索引
     地名索引
     人名索引

 先ず、解題「木脇啓四郎と『萬留』」では、木脇啓四郎の経歴と事績(木脇家について、啓四郎の業績)、および『萬留』(執筆の目的と時期、記述内容、同時代の人物、実見談、薩摩藩に伝わる逸話、奥州・越後方面への旅行記、その他の雑録)について、丹羽謙治氏により、それぞれ詳細な解説、検討がなされており、それに続く「木脇啓四郎年譜」では、『萬留』の内容に加え、木脇家所蔵の史料等を駆使して作成された、啓四郎の生涯を記した年譜が提示される。
 そして『萬留』の凡例、目録と続き、いよいよ本書の核心である『萬留』の本文および注釈へと続く。
 『萬留』は、幕末・維新期を生きた人物の一代記であるとともに、当時の薩摩藩内部の有様を伝える好史料である。その内容は、前述した啓四郎の文化的活動を中心に、丹羽氏も指摘している通りひじょうに多岐にわたっている。このことを啓四郎自身は『萬留』の中で、「実ニ淀川雑舟なり」と、雑然としたものであると謙遜しているが、飜って見るにこのことは、様々な興味深い内容に溢れていることを示しており、見るものはその好奇の渦に誘い込まれずにはいられない。なかでも、随所に見うけられる薩摩藩士および同好の士との文芸活動の記録や、全国から知識・人材が集う江戸という場において繰り広げられる、甲冑製造という技術を通じての幕閣、旗本、諸大名の家臣との親密な交際の記録は特に興味深い。このような啓四郎の持つ技能によって形成された幅広い人的ネットワークの存在を見いだせるのもまた、本書の持つ魅力の一つであろう。
 本書の特色としては、右頁に本文翻刻、左頁に本文注釈が配されている。なかでも微に入り細にわたるものとなっている人名・地名・事項に付された本文注釈からは、ひじょうに困難な作業であったろう事が窺え、頭が下がる思いである。また画期的な試みとして、「難読箇所一覧」において、本書作成時の難読箇所が写真によって提示されるという心配りがなされていることも特筆しておきたい。

 以上、幕末の薩摩藩の文化官僚木脇啓四郎が、沖永良部と「江戸詰」という両極端な環境変化の体験を通じて研ぎ澄まされていった知的好奇心と、その身につけた技術・教養をもって執筆した『萬留』を翻刻した本書からは、激動の幕末・明治を生きた啓四郎の姿をいきいきと感じ取ることができ、薩摩藩藩政史、社会史、文化史はいうまでもなく、地域文化に興味を持つ諸兄には、必ずやその期待に添う内容であると考える。是非とも本書を強くお薦めしたい。

 
詳細へ 注文へ 戻る