書誌紹介:根本誠二著『天平期の僧侶と天皇』
掲載誌:「道鏡を守る会」27(2005.4)
書評:本田義幾

 道鏡に関する著作は、小説の分野が多く、研究書として一冊をなすのは、数は多くない。戦前では松木幹雄の『弓削道鏡伝』、戦後間もなく新聞記者上田正二郎の『法師道鏡』そして昭和34年の古代史研究家横田健一の『道鏡』、同じく北山茂夫の『女帝と道鏡』そして在野研究家古田清幹の『道鏡の生涯』である。
 『弓削道鏡伝』に引用される史料は、戦前故伏せ字が多く、道鏡に対する見方は客観的立場に立とうとするものであるが、汚名を晴らすという視点ではない。特にその挿絵の「憤怒せる法王道鏡」は後代の道鏡肖像画としていつも使用されてきた。
 『法師道鏡』は研究書ではないと著者が断っているように、読みやすい書き方である。ラスプーチンとの比較は、昭和25年当時の社会状況を反映する。道鏡こそ貴族と真っ向勝負してその上に僧侶の地位を築いたとしている。
 『道鏡の生涯』は、道鏡の汚名を晴らすため、一在野研究者が書いた本である。在野にも道鏡擁護者がいたが、一冊に纏めたのは古田さんが最初であろう。和気清麻呂逆臣論の立場からもろもろの道鏡論を批判的観点で取り上げている。
 三冊に共通するのは道鏡皇胤論である。
 『道鏡』は多方面から道鏡を見る本格的な研究書で、内容も学問的である。この本を越えるものはなかなか登場していない。道鏡皇胤論を否定した。
 『女帝と道鏡』は奈良時代史に道鏡と女帝を位置づけた一般向きの本と言える。内容的には、学者でありながら「二人は愛欲に溺れて政治を顧みなかった」と記したりしている。著者には「道鏡をめぐる諸問題」という論文があり、女帝と道鏡の個人的関係をすべてに優先させたとしている。
 さて本書(岩田書院・03年10月)は、副題を「僧道鏡試論」としているように、主として僧侶としての道鏡を論じている。俗人道鏡を敢えて視野に置かない視点である。
◎多くの人に門戸を開放した奈良仏教のおおらかさの中に道鏡は登場した。なお奈良仏教は密教化しつつあった。
◎道鏡は仏の力をバックに人々を救済する僧であった。
◎道鏡を僧侶としてだけではなく、政治家としても見た論が多かった。そのため非難されることになる。
◎道鏡を毘沙門天に称徳天皇を吉祥天に見立て、信仰的に「交歓」したとする。それを堕落とする見方が広がった。
◎一方藤原氏は皇統についてきわめて神経をとがらせていた。ところが、称徳天皇の皇統観は従来とは違っていた。
◎そのような時、にせ仏舎利事件がおこり、称徳は仏法への疑義をもつようになった。
◎それで宇佐八幡から神託が届いたとき(事件)では神に頼った。
◎称徳天皇と道鏡の関係は、世俗面では道鏡にゆらぎをもつが、仏法の世界においては切れていなかった。
◎僧道鏡は行基を見習う生き方をした。行基のやり方は聖に俗を持ち込むやり方ではなかったか。道鏡は破戒の僧と見られた。
 以上簡単にまとめてみたが、著者は最新の文献にも目を通されて僧道鏡を論じられている。その姿勢は、「まえがき」や「あとがき」にも見られ、かつこれまで研究者が正式には取り上げて来なかった、小田原市勝福寺に残る伝承(下野へ向かう途中道鏡は十一面観音を納めた)を取り上げていることは画期的でさえある。
 史料だけに頼るのではなく伝承にも目を向ける姿勢は、遅ればせながら歴史研究の新たな出発となるのではなかろうか。ただ残念なのは、史料不足と伝承を取り上げたためか、と、思うとしていることが多いことである。今後、であるとして頂くためにも私たちの掘り起こしが更に必要となると考える。
 また二人の関係を「交歓」という言葉で表現しているが、これは寵愛ともつながりかねないと思う。かつて唐招提寺の遠藤氏が二人が男女関係にあるなら破戒僧となると申されていた。つまり僧ではなくなる。称徳天皇は戒を授かり、かつ剃髪している。だから自分で僧道鏡の支えが必要だと言っている。それ以上の詮索は不要ではなかろうか。
 著者の根本氏は、以前『奈良時代の僧侶と社会』で道鏡の死は卒伝でもなく、まして薨伝でもなく単なる「死」扱いであり、これによって道鏡への誤解を生んだと書いていた。なぜこうなったのか。本書では、道鏡への筆誅だけではないとしている。
 そこで東アジアの仏教界の様子を視野に入れるべきだとしている。そうすると中国の則天武后と僧葭懐義との関係が奈良時代に伝わって(僧は殺される)、警戒心を日本の貴族におこさせ、二人についても警戒したのではないかという。
 また左遷先の下野薬師寺に関してだが、道鏡と鑑真の弟子たちとは軋轢が少しあったのではないか。下野薬師寺には鑑真の弟子道忠がいて戒律を授けていた。道鏡にとっては緊張する場所への旅立ちであった。とこれまでにない視点を提起されている。
 なお栃木県では、鑑真の弟子如宝が来ていて一定の役割を果たしていたと考えられてきた。実際鑑真碑が龍興寺に伝わり、鑑真肖像画が安国寺に残る。著者は道忠と如宝の関連についてふれてはいない。
 そして強大化する道鏡仏教(呪術に長けた)に対抗するために、桓武側は神託事件を起こし、道鏡を失脚させたし、天台・真言を育成した。初めての論ではないが、桓武の存在を奈良末期にも意識した見方である。その点でこの本はよく読むとおもしろい。
 道鏡についての画期的文献が横田氏のだとするなら、本書は約半世紀ぶりの道鏡論である。さらに付け加えれば、表紙カバー裏に孝謙天皇陵と道鏡塚が並べて置かれている。黒岩重吾の小説『弓削道鏡』の表紙カバーで二人の並んだ姿が描かれているが、それ以来である。ここにも道鏡研究の進捗があった証しが見られる。本書は専門書的側面をもつので、漢字が多く、奈良時代の予備知識も必要とするので、読みやすいとは言いがたいかもしれない。

 
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