書誌紹介:高橋在久著「房総遺産」
掲載誌:『東京湾学会誌』2(3) (2005.5)
紹介者:小池 新

 千葉市稲毛区の浅間神社の「丘」に,いまも時折登ることがある.かつて,下を通る国道14号のわきは,すぐ海だった.沖だった埋め立て地を見下ろすと,はるか視界の果てまで中高層の住宅群に覆われている.そんな時ふとわいてくるのは「人間にとって海とはなんだろう? そして,海を失った人間はどうなるのだろう?」という疑問だ.
 海は,第一義的にはそこを生産や生活の場としている人々にとって重要な意味を持つ.東京湾の戦後の歴史は,埋め立てとそれによって海を失った漁民らの叙事詩ともいえる.たしかに,人間は魚と違って海の中では生きられないし,海を失ったといって,直接生命を脅かされるわけではない.代わりに得た金で,お城のような家を建てることもできる.しかし,それでも,人間にとって海を失うということは,経済的な面だけでは片付けられない意味を持っているのではないだろうか.さらに言えば,たとえ海を生産や生活の場としてはいなくても,海と接する体験を持った人間にとって,海は独特の意味を持っているのではないか.東京湾岸で育った人間として,その疑問は長く深く心の奥にある.
 あるいは,それは,生命が海から誕生したことと関係があるかもしれない.高橋在久・東京湾学会理事長の著書「房総遺産」は,そうした,海と人間が長い間につちかった有形無形のかかわりの,さまざまなかたちを伝えてくれる.
 いまから4000−6000年前,房総半島の富津市周辺は,沖の洲に守られた入江が入り組んでいた(「須恵の潟港」というのだそうだ).神奈川県・三浦半島から海路ここに渡ってきて,陸路茨城県に達する道が当時のメーンストリート(古東海道)であり,日本武尊の東征伝説の舞台にもなった.民俗学の大家,柳田国男の最晩年の弟子だった著者の大胆な推論であり,そこにはわくわくするような古代のロマンがある.
 ほかにも本書では,東京湾をめぐる数多くのテーマで「ドラマ」が展開される.房州海女の起源,東京湾・中ノ瀬の考古学,「江戸前の澪」,「スカ」「ナラ」「ヒョウ」といった地名,イワシ文化や「クジラマワシ」….浅井忠ら画家の話題もある(千葉県立美術館長を務めた高橋在久氏は,自他共に求める浅井忠の専門家だ).民俗学から歴史学,考古学,地理学,美術….こう見ていくと,海は世界観と人生観の素材の宝庫であることがわかる.
 個人的には,夭折した画家,柳敬助や歌人小泉千樫のことが出てくるのに興味をそそられた.柳は,荻原碌山や高村光太郎ら近代日本の美術革新運動の中心的な人々と関連が深い人物であり,私の父は一時,小泉が主宰した歌誌「青垣」の同人だった.この本は房総に根差した人物から発してさまざまな連想も誘ってくれる.
 雑誌に連載した随想からピックアップした話題はどれもコンパクトで読みやすい.その根底にあるのは,本の副題にもなっている「普通の人達の文化」という視点だ.偉人でも権力者・為政者でもなく,ごく普通にその土地に生まれて死んでいった人々の,連綿とした連なりによってつむがれた海と人間の文化.海に親しみを持つ者にとって,いろいろな想像をかきたててくれる楽しい一冊だ.
 本書目次 1.遠古の多彩な原風景,2.原風景の中の水土, 3.千葉県の誕生と年譜,4.地名は地域の辞典,5.房総の生活の古典,6.文化財と共に五十年

 
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