新刊紹介: 『富士信仰と富士講』平野栄次著作集1(編集 坂本要・岸本昌良・高達奈緒美)
掲載誌:『郷土はとがや』55(2005.5)
紹介者:岡田 博

 近世中期から第二次大戦前まで、江戸・東京市民と、関東・東海・甲信・近畿の地域の、都市・農村部を問わず結ばれた富士講が、第二次大戦後の社会変動の中で急速に弱体化を始めた。その現実に着目、富士講研究に着手したのが、江戸っ子岩科小一郎「山村民俗の会」主宰であった。
 岩科「おんたい」の自らの主宰誌『あしなか』に掲載される調査報告・聞き書き・論考に、従来の「山村民俗」に加えて「富士講」に関するものが多くなった。そして昭和三十年代を経て四十年代末には「山村民俗の会」の内部機構として「富士講研究会」の人脈が生まれていた。山梨県河口湖の伊藤堅吉、静岡県富士宮市の遠藤秀男、神奈川県横浜市の大谷忠雄、埼玉県朝霞市の園尾哲郎、そして筑波大学教授の宮田登、日本大学病院事務局長のかたわら大田区・品川区・北区等の文化財保護委員・区史編纂員の平野栄次、東京大学学生から同大学史料編纂所勤務になった宮崎ふみ子の学者たち。そして昭和五十年代初めに、埼玉県鳩ヶ谷市の小谷三志文書写しの岡田博と、千葉市在住の「房総石仏の会」会長として県下の地域石仏・金石文調査の第一人者沖本博が加わった。それら各人の地元富士講調査が『あしなか』誌の「富士講特集」誌面をにぎわせた。
 そして同時進行の形で、各人の地元における、区史、市町村史、また県史等の富士講調査担当と執筆があった。特に東京都の大田区・品川区・北区に於ける平野栄次の調査と執筆。静岡県下の『静岡県史』『富士宮市史』等に於ける遠藤秀男の調査と執筆、また自著刊行、神奈川県教委の県下民俗調査の中での大谷忠雄の富士講調査等は、既に古典として光を放っている。
 その岩科小一郎門下の中核者が平野栄次氏であった。昭和六十年に雄山閣の「民衆宗教史叢書」の第十六巻として『富士浅間信仰』が企画されて、編集を委嘱された岩科小一郎師が、老齢を理由に辞退されたあとを受けて、構成・編集の任を果したのが平野栄次氏であった。
 平野氏は立正大学専門部に学び、日本大学駿河台病院勤務のかたわら民俗学研究と現地調査に励み、東京都文化財保護調査専門員、大田区・品川区・江戸川区・北区の文化財保護委員、区史編纂専門員を兼ねた。
 平成九年十二月、岩科小一郎先師の逝去・葬儀の席上で、故先生の遺業継続のため「富士信仰研究会」結成の話が決まり、呼び掛け人代表、やがて初代会長に就任したのが、日大を定年退職したばかりの平野栄次氏であった。ところが、それから間もなく病魔が氏の体を犯していたことが判った。元気な姿で会の発足を主宰して僅か九か月後、平成十一年二月十日、平野栄次富士信仰研究会初代会長は逝去された。平野栄次会長の跡は鳩ヶ谷の岡田博が受け継いで現在に至っている。余事であるが平野栄次氏の死から三年後平成十四年五月十八日、鳩ヶ谷郷土史会の平野清会長がこれも病魔によって急逝した。その後も岡田博が継承して両平野先兄の跡目会長を兼帯している。
 この度平野栄次氏の生前のご縁で、宮本馨太郎先生設立の宮本記念財団奨励研究費助成に預かり、平野栄次氏生前の業績刊行が実現して、坂本要・岸本昌良・高達奈緒美三氏の編集によって、
 『富士信仰と富士講』 平野栄次著作集@
 『江戸前漁撈と海苔』 平野栄次著作集A
が、岩田書院より発行された。今回はその@『富士信仰と富士講』の目録紹介をする。
 はじめに 平野栄次先生の人と学問   坂本 要

 富士信仰−その起源と文化

  T富士信仰の成立と展開

富士浅間信仰研究史の回顧と展望
 一、富士浅間信仰の基本的研究 二、富士修験についての研究 三、富士講についての研究 四、角行・身禄についての研究 五、参行禄王と小谷三志についての研究 六、 地の富士講についての研究 七、富士塚についての研究 八、富士山御師に関する研究 九、富士講系教派神道に関する研究 十、富士浅間信仰研究の今後の展望

富士信仰と曼陀羅
 一、垂迹曼陀羅の成立と富士信仰 二、富士曼陀羅 三、角行と御身抜 四、身禄・光清と御身抜 五、富士講と曼陀羅 六、富士山絵札 むすび

富士行者身禄の政治・社会批判、そして入定の背景
 はじめに 一、身禄の人となり 二、『一字不説之巻』に見る身禄の思想 三、『御添書之巻』に見る政治・社会批判 四、身禄の終末観と入定 五、身禄の入定と即身仏思想 むすび

吉田御師の成立と近世におけるその活動
 一、上吉田浅間社と吉田御師 二、吉田御師の組織と御師様 三、吉田御師の職分 四、道者と宿坊 五、師檀関係 六、富士山山内の差配 七、上吉田浅間社と御師 八、新興御師の参入 むすび

『菊田日記』から見た吉田御師と富士講
 はじめに 一、富士講について 二、御師と富士講 三、宿坊としての御師 四、檀家廻り 五、御身抜御伝と御師 六、檀那株の売買 七、御師以外の者の檀那株所持 八、山役銭 九、山役銭出入 むすび

明治前期における富士講の糾合と教派神道の活動
 一、明治新政府の宗教政策と富士講 二、穴野半と富士一山教会 三、伊藤六郎兵衛と丸山講 四、富士一山教会の発展 五、富士北口教会の設立とその活動 六、神道事務局扶桑教会から扶桑教ヘ 七、丸山教の独立 八、神道修正派と富士講 むすび

 U富士講と富士塚

富士と民俗−富士塚をめぐつて
 一、富士塚の起源と築造目的 二、富士塚築造の流行 三、富士塚の形態 四、富士塚の石造遺物 五、富士塚の要件 六、各地の築造状況 七、富士塚の習俗 むすび

大田区・品川区の富士塚
 一、富士講関係の石造遺物 二、講の分布 三、講の構成 四、登山の仕方 五、他の信仰団体との関係

品川富士山開きの行事−品川丸嘉講社−
 一、山開きの拝み 二、拝みとお伝え 三、富士登山 四、初拝み・冬至拝み

富士塚と胎内洞穴−目黒富士遺跡をめぐつて−
 一、富士信仰の成立 二、身禄派富士講の発展 三、富士講の習俗 四、富士塚の築造 五、目黒富士と新富士 六、富士講と胎内洞穴 七、新富士遺跡の洞穴 結論

山護講について
丸不二講と富士塚
清瀬富士の「火の花祭り」

武蔵野の富士講
 一、武蔵野の富士講の特質 二、丸嘉講 三、丸吉講 四、丸藤講 五、その他の講  六、武蔵野の富士塚

 V高尾講と高尾山
馬込の高尾講のこと
 一、幕末期の馬込高尾講 二、高尾山太々講としての活動 三、神仏分離の影響 四、馬込元講について 五、先達について 六、高尾山修験道について 七、羽田の馬込元講 八、御座立てと祝詞の相伝 九、高尾講の簇生 十、ほかの講との融合 むすび

高尾山火渡り祭
 一、高尾山修験道 二、お練り 三、山上儀礼 四、火渡りのクライマックス

都市化と信仰−東京都南部地域の場合
 はじめに 一、氏子意識の変化 二、祭りの変容 三、寺院の新設 四、講集団の衰退と成長 五、末端宗教者の活動 むすび

 右、目次のすべてを写したが、現時点で富士信仰研究入門者への、総合的教科書として推薦できる一冊である。富士山信仰の総合的研究書として既刊のものでは左の四冊があった。
 一、井野辺茂雄著 『富士の歴史』  名著出版復刻
 二、同 右    『富士の信仰』  同 右
 三、岩科小一郎著 『富士講の歴史』 名著出版
 四、平野栄次編  『富士浅間信仰』 雄山閣
 平野氏の今回の一冊を五冊目の本として改めて読み直して、岩科小一郎著『富士講の歴史』、また雄山閣版の岩科門下富士講研究会会員合著の『富士浅間信仰』、また常民研究所の委嘱で岩科門下が総がかりでやった二冊の『富士講富士塚調査報告書』と較べると、岩科門下たちの、好きで身銭を使って、自力でやった調査と異なり、委嘱による公費によって、揃えられ提供された資料と、活字化された文書を使っての報告書という感はまぬがれない。言葉をかえれば、平野氏のその仕事ゆえに教科書・参考書として適しているともいえよう。


詳細へ 注文へ 戻る