書評: 井上定幸著『近世の北関東と商品流通』
掲載誌:『群馬歴史民俗』26(2005.3)
評者:丑木幸男

 一、本書の構成
 群馬県近世史研究を永年にわたって続けている元群馬県立文書館長井上定幸氏が、その研究成果のうち商品流通に関する論文を中心としてまとめた著書である。
 全体を五部構成として、一〇本の論文を収録し、それぞれに井上自身の問題意識や論文執筆の経緯、関連論文などの簡単な解説を付した。冒頭に木村礎が「戦後地方史研究と井上定幸氏」を寄せ、「まえがき」で本書出版の経緯を記し、「あとがき」で研究活動の総括と今後の展望を詳細に記した。「近世上信越の米穀流通」「市場町の構造と在方商人」「蚕糸業の展開と流通構造」「上州地場産業の展開と江州商人」の四分冊を構想したといい、本書では除外した近江商人の研究をまとめることを今後の課題とし、意欲的な研究姿勢を示した。
 本書の構成は次のとおりである。
T農村の家族形態と雇用労働
 第一章 近世における農村構造と家族形態に関する一考察
 第二章 近世期農村奉公人の展開過程
U領主米の地払いと流通
 第三章 高崎藩城米のゆくえ
 第四章 旗本領における貢租米の地払い形態
V信州米と越後米の流入
 第五章 西上州における信州米市場をめぐる市立て紛争の展開
 第六章 上州沼田藩における米穀流通統制
W特産物の生産と流通
 第七章 近世西上州における麻荷主の経営動向
 第八章 館煙草の流通をめぐる二、三の問題
V製糸地帯の形成と糸繭商人
 第九章 幕末・維新期東上州における糸繭商人の実像
 第十章 横浜開港後における越後生糸・繭の関東流入形態

 Tは昭和三一年、三三年発表された、井上の初期の研究活動の成果である。群馬県をフィールドとする研究報告を地方史研究協議会で昭和二八年以来積極的に展開していたが、当時の研究状況に刺激を受けて、農村の社会構造を在方商人、奉公人の存在形態から解明することに問題関心があり、その成果の一部である。第一章では上州東上ノ宮村の五人組帳を分析して、元禄・享保期に地主手作経営が広汎に展開したことを解明した。第二章では畑作=養蚕地帯の群馬郡高井村の奉公人手形等を検討し、年季奉公人が減少し、短期・養蚕・日雇労働力が増加したが、労働力が不足したので越後をはじめとする遠隔地からの出稼ぎ人を雇用したことを明らかにし、その要因として、上州では農民層の分化が顕著でなく、そのうえ農間渡世が発達していたために、在地の零細農民の余剰労働力を吸収したことを指摘した。
 Uは平成一五年、昭和四三年に発表した、最近の問題関心に従った研究成果である。第三章は近世中期の高崎藩城米の処理を藩主間部家文書、掛屋の飯野家文書で検討したものである。城米を江戸で売却するともに藩内での売却(地払い)をしており、それを請け負う掛屋を一八世紀末までには設置した。二〇町歩地主で、酒造業も営む豪農であり、寛保元年に材木御用・払米御用を務めていた飯野家が掛屋に任命され、藩から扶持を与えられた。飯野家は高崎藩へ一万両を超える献金をした。地払いの範囲は藩内の高崎、倉賀野を中心として、藩を超えて板鼻、藤岡、玉村、渋川から武州本庄へまで広がったことを実証しており、さらに農民余剰米の販売も検討し、商品流通がさかんであったことを明らかにした。
 第四章は、東小保方村に知行地をもった三二〇〇石の旗本領の年貢米の地払いを検討した。文政六年に年貢米八一四俵のうち六三一俵を二四二両で地払いし、近くの在郷町の大間々を中心とする豪農商が引き受けたたことを解明した。
 Vは山田武麿、中島明らの研究蓄積が多い、信州・越後の米穀流通に関する昭和五三年以来の研究成果から、二論文を収録した。
 第五章は、信州米市場についての一八世紀末の訴訟記録から、西上州において信州米の受容が増大し、信州佐久地方での農民余剰米の増加とともに、西上州で米穀市場が成立していたことを指摘した。
 第六章は、米穀非自給地帯である沼田藩の穀留などの米穀統制政策を取り上げ、特に越後米の流通と米穀市場の成立との関連を広く検討した。
 Wは特産物のうち、麻と煙草を取り上げた昭和五六年、平成五年の論文を収録した。
 第七章は、西上州の麻生産と流通を検討した。下仁田町の在方商人の近世中期の経営記録から、集荷形態、販売形態を解明した。さらに五千貫にもおよぶ麻を購入・手作りし、仕入先、取引量・代金までを含んで近江、江戸、名古屋、大坂に出荷したことを具体的に明らかにした。次第に取扱量が減少した要因を、近江の麻仕入れ問屋が資金を前渡して麻を確保する、麻取引の主体性が生産地の荷主から仕入れ問屋に移るようになった、麻市場構造の変化に求めた。
 第八章は、高崎近くの館煙草の流通を取り上げた。仕功目録などの分析から、生産地の荷主が一八世紀末に江戸の仕入れ問屋の支配から脱却して、高崎城下への取引を主流とするように変化したことを指摘し、その背景に高崎での刻み煙草の加工生産がさかんになったことを推定した。
 Xは、すでに井上自身が『群馬県蚕糸業史』(昭和三〇年)、「開港と生糸」(『日本産業史大系』四所収、昭和三四年)を公表し、上州近世史ではもっとも研究蓄積の多い蚕糸業について検討した。平成一二年、昭和五七年に発表した論文である。
 第九章では、山田郡塩原村の糸繭商人の高草木家を取り上げ、天保以後の経営分析から、沼田地方の買い付け繭を原料とする賃挽き生糸を主体とする販売形態から、横浜開港後には沼田だけではなく、奥州の繭・生糸・蚕種を買い付け、賃挽き生産するとともに一部は繭のまま販売し、生糸は大間々地方の商人および横浜の売り込み商人吉村屋幸兵衛に販売したことを、解明した。
 第十章は、開港後に越後の商・生糸が関東へ流入したことを多数の糸・繭通手形の分析から解明し、越後産の繭・生糸の流通構造を検討した。越後産繭は上州に流入し、生糸は上州及び江戸・横浜へ流通したことが分かり、繭は上州で賃挽きして桐生などの絹生産地に売却し、生糸は産地から直接に江戸・横浜へ販売する事例と、上州商人が越後で買い付けて桐生・江戸・横浜へ販売する事例があることを指摘した。

 二、本書の意義
 井上は昭和二六年頃から五〇年余におよぶ研究活動を展開してきた。戦前には皇国史観にしばられ自由な研究を展開できなかった歴史学界は、その束縛から解放されるとともに、ゆがんだ歴史像を提供してきた反省から、戦後になると方法論の再検討とともに地方の史料調査に基づいた研究を積極的に展開した。
 昭和二四年に「世界史の基本法則」が研究テーマに取り上げられ、二八年に安良城盛昭「太閤検地の歴史的前提」、翌年に同「太閤検地の歴史的意義」が発表された。二九年に古島敏雄・永原慶二『商品生産と地主制』が刊行され、その後太閤検地論争と地主制論争の近世史研究の二大論争が、はなばなしく展開し、幕藩制社会の基礎構造を中心とする研究成果が続々と公表された。
 井上が研究を開始したのは、こうした近世史研究がもっとも元気のよかった時期であった。主として地方史研究協議会を研究発表の舞台とし、地主制論争に刺激を受けながらも、理論優先の研究ではなく、上州の在地史料に視点を据えた実証研究が井上の最大の特色である。群馬県史編纂事業がはじまり、近世史部会の中心として全県の史料調査を積み重ねたことが、それに磨きをかけたといえる。
 Tの在方商人・奉公人の存在形態の研究を出発として、Vの蚕糸業の研究から、UVWの特産物・米穀の流通、さらに近江商人の研究へと問題関心が移っていることが読みとれる。
 本書を通して上州近世社会の広がり・豊かさが明らかにされたことを指摘しておきたい。
 江戸時代は厳重な身分制度のもとで封建的な束縛を受け、また重い年貢に苦しんだ民衆が、悲惨な生活を送っていたと思いがちだし、そうした歴史像が多かったように思う。それに対して本書では、高崎藩は一年間に収納した年貫米のうち四万俵を、高崎や藤岡、武州へ飯米や酒造米として売ったことを明らかにし、年貢米が商品として売買され、民衆が大量の米を消費し、商品流通が藩域や地域を超えて広がっていたのである。また、「掛屋」に任命された有力商人が大名に一万両もの献金をして、知行二百石の武士に取り立てられ、才覚のある商人が武士になり、身分制度の枠を飛び出すとともに、借金財政の再建を依存した商人を武士に取り立てざるをえなくなった領主の性格の一端を伺うことができる。
 麻は近江や大坂・名古屋にまで販売して商品流通の販路はさらに広がり、横浜開港後は奥州から欧米にまで広がったのである。山田郡の商人が沼田地方へ繭の買い付けに行くのに、三五両余の現金を懐に入れて買い入れており、奥州で一五〇両余も糸繭を為替で買い付けており、巨額の資金を動かす在方商人の活躍を、当時の記録を克明に読み込んで解明している。
 厳重な身分制社会のなかで封建的な支配を行う武士のもとで、農民・町人は自給自足の暗い生活を送っていたイメージの強い江戸時代像を、本書は商品流通のあり方を具体的に明らかにすることによって、活気にあふれた民衆が活き活きと生活した社会像を描き出したのである。
 最後に、近世の動向に限定しているのはやむを得ないが、近代とのつながりに触れてほしかったことを要望しておきたい。特に地域史は時期区分ごとに細切れにしてしまうと、その特性が把捉しにくいことが多い。これだけ綿密な近世流通史を明らかにした研究成果から、近代への見通しを示し、地域史研究の幅をさらに広がることを期待したい。

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