書評: 北原かな子・郭南燕編『津軽の歴史と文化を知る』
掲載誌:「弘前大学国史研究」118(2002.5)
評者:金森正也

 近年、日本国家の均質性に疑問をなげかけ、生活・文化の多様性を考察する研究が盛んであるが、本書もそのような視点によって編まれた一書といえる。
 これまで津軽地方の歴史と文化の研究に多様な業績をあげてきた三名の研究者と、日本から見ればまさに「他者的視角」をそなえた三名の研究者が、それぞれの視角と独自の問題関心をもって「津軽地方の歴史と文化」について述べた本書は、実に興味深い論集である。編者の一人である北原かな子氏の序文によれば、本書は、二〇〇〇年から始まったニュージーランド・オタゴ大学と弘前大学との姉妹校提携を契機として、両校にかかわりをもつ研究者の共同研究として成立した。
 本書の構成は、つぎのとおりである。
 ・長谷川成一「一体の像から−大浦光信像と津軽氏−」
 ・北原かな子「明治初期津軽地方のキリスト教文化受容」
 ・河西英通「津軽の地方主義と国民国家日本」
 ・郭南燕「長部日出雄の文学−津軽の独自性と普遍性との間−」
 ・ヘンリー・ジョンソン「津軽三味線−地方と国家、そして国際的空間を行き交うものとして−」
 ・アンソニー・ラウシュ「津軽塗−地方工芸に対する国家の保護−」
 これらのタイトルを一読してわかるように、前半の三編が、津軽地方に関する歴史的事象の考察であるのに対して、後半の三編は津軽地方で生み出された特定の文化を考察の対象としている。とはいえ、後述するように、これらの論考にはおおむね一つの視点が共有されているのが本書の特徴である。まずはじめに、それぞれの論考について簡単に紹介してみたい。
 長谷川成一氏の論考は、津軽氏の菩提寺である長勝寺に伝わる一体の武者像の成立過程を検討し、津軽氏の祖先顕彰の意義とその政治的役割について考察したものである。氏はまず、さまざまな家系譜を検討しながら、かならずしも古くより大浦光信が津軽氏の祖先として特筆されてきたものではないことを指摘し、じつはそれが弘前藩の正史とされた「津軽一統志」の編纂過程において、はじめて直接の始祖として位置づけられることになったことを明らかにしている。そして、まさにその編纂過程において長勝寺より大浦光信像の制作が藩に上申され、そのことが、津軽氏の先祖顕彰という当時の藩の意図に合致したとする。長谷川氏はさらに、津軽氏の先祖顕彰を確固たるものとするために光信の廟所をたんなる故地から聖地へと飛躍させることで、津軽氏のアイデンティティを絶えず確認する意義をもたせることに成功したと指摘する。歴史的なシンボルを作り上げることと藩政史の問題を関連させた視角もさることながら、一体の像の成立過程を藩政の事情と絡めて考察した手法が、筆者にはきわめて新鮮で興味ぶかく感じられた。他藩においても、藩祖のカリスマ性を強調したり“中興の祖”を演出したりすることで、藩のアイデンティティを生み出す必要に迫られることはしばしば見られることであり、それがどのような形をとってあらわれるのかは検討に値するテーマである。ただ、長谷川氏の論考に関していえば、紙数の都合もあると思うが、論証された事実が、その後の藩政(家臣団統制や民衆統治)にどのような影響力をもったのかという点についても知りたいところであった。
 北原かな子氏の論考は、弘前に設立された私学東奥義塾で活湿した外国人教師の活動をとおして、津軽地方におけるキリスト教受容の特質とその背景について考察している。藩校から近代中等教育への連続性をもつ同校が、その封建的性格にもかかわらずなぜ多くのキリスト教宣教師達を教師として招いたのかという問題の設定に、まず心引かれる。氏によれば、「蝦夷ノ余風ヲ存シ冥頑固陋」という津軽の劣勢を打開するための「最重要」な方策が教育であると認識されていたのであり、その中心的な役割を担ったのが東奥義塾であつた。そして北原氏は、そのような同校において最初から宣教師雇用が企図され、その後も続けて複数の宣教師が在職したことの重要性を指摘する。そして、キリスト教とはたんなる宗教ではなく、当時の津軽の人々が感じていた後進性からの脱却を可能にし、文明開化への希望をもたらすものであったと結論する。考察の中では、そのような校風が、キリスト教を忌避する中央政府の圧力を招き、あくまでも私学経営を維持しようとする学校当局との葛藤の中でついには廃校に追い込まれていく過程にも論及している。
 河西論文は、「青森県の津軽地方で形成された地域意識や地方主義を追及することで、国民国家日本の相対化の可能性を論じ」ることを課題として設定している。そのうえで多数の文筆家の論を検討しながら、近代日本の中で津軽が未開・異域のイメージで(自己認識をも含めて)覆われていたことを指摘し、そこにはアイヌ問題が重要な要素として横たわっていたとする。そのような「劣等意識」は、やがて強烈な郷土主義・地方主義を生み出し、特に後者はファシズム運動と結びつくことで津軽地方のアイデンティティを確立しようとする。そしてそのアイデンティティは、戦時体制下の総力戦体制の一翼をになうことでいっそう強められていくのだが、しかしそれはやがて迎える敗戦によって潰え、ふたたび「一番貧乏で一番文化が遅れている」「植民地みたいな地方」という劣等意識に帰着してしまう、と述べる。
 河西論文は、最初から「強制された劣等意識」という、氏独自の東北論を前提にして読むせいか、論理自体はわかりやすく説得的である。ただ、門外漢の勝手な感想をいわせていただければ、検討対象となっている文章は多くの場合“知識人”のそれであり、はたしてそれをもって津軽人の自己認識と規定してよいのか疑問にも思う。文章を書く人間は、時としてレトリックを用いるし、述べていることが本音ともいいきれない。河西氏は、最後に太宰治を検討対象として、その述べるところから「津軽と彼自身(太宰−注引用者)を内外から呪縛してきた価値から完全に解放されている」と指摘するが、氏が引用した部分を読むかぎり太宰特有のコンプレックスの裏返し的表現とも読めないことはない。文章を書く人間はごく限られた存在であり、その裾野には物言わない民衆の自己認識の広がりがあるのではないだろうか。
 郭南燕氏の論考は、津軽出身の直木賞作家長部日出雄をとりあげ、その津軽地方に対する認識の様相を考察したものである。一個人の文学にあらわれた認識を検討対象としたものであり、その意味では河西氏の論考と方法論において対照的である。郭氏は、長部の代表的作品である「津軽じょんがら節」や「津軽よされ節」の主人公の描かれ方に焦点をあてて子細に検討し、津軽三味線という津軽が生んだ芸術のあり方をとおして、偏狭な地方主義に陥らない普遍的な世界への可能性をもつものとして、長部の津軽に関する認識を評価している。私はさきに、河西氏の論考にふれて、知識人の文章がそのまま当人の認識を正直に示しているとは限らないというような意味のことを書いたが、長部の作品は小説というフィクションであり、その意味ではこれらの文章は二重に加工が施されている可能性があるわけで、そこから長部個人の認識のありようを抽出することは極めて困難な作業である。郭氏は、この部分を、現実の津軽三味線にかかわる人間の、津軽三味線に対する認識のあり方の検討を付け加えることによって補充するという手法をとつている。
 ヘンリー・ジョンソン氏の論考は、おもに現在における津軽三味線の存在状況、−演奏のされ方や観客による受容のされ方−などを検討しながら、地方と国家のかかわり方に論及したものである。氏によれば、津軽三味線は、「新しく発明された伝統」であるという。そこで、地方と国家、さらに場合によっては国際的空間をも含む三つの枠組みの中で現在の津軽三味線が形成されたという「仮説」が設定されている。氏が事例としてあげる事象は、ほとんどが現在わたしたちが体験的に認識できるもので、その意味では右の仮説は首肯できるものである。ただ、文化論的な考察手法がとられているためか、「そのルーツ・ミュージックの側面と日本における「他者」を探すという側面により、津軽三味線は故郷を超え、日本北部の更に辺鄙な地域へルーツを求めながらも拡散していったといえるだろう」などのように、おそらく重要な論旨と思われるところで難解な表現がなされていることが残念であった。
 アンソニー・ラウシユ氏の論考は、津軽の代表的な民芸品である津軽塗に対する保護(パトロンネイジ)のあり方の変化を検討しつつ、その問題から地域性と国家の問題を考え、さらにそのことが地域のアイデンティティ確立にどう貢献しているかという問題を考察したものである。氏は、藩政時代からの保護のあり方を追い、近現代の部分においては、津軽塗の生産額の変化や保護振興計画における予算利配分などを具体的な数値を上げて、その保護の変化の様子を克明に論述している。津軽という一地方で産み落とされた文化が、日本全体あるいは世界にどう紹介され、また受容されていったかという観点から地方と国家の交錯を考えるという点では、津軽三味線を取上げたへンリー・ジョンソン氏と同様の視点と方法にたった論考といえる。
 以上、簡単ではあるが、それぞれの論考の内容を紹介し、感想を述べさせていただいた。これらの論考すべてに共通しているのは、津軽といぅ地方と国家のかかわりを考えるという視点であり、そのような共通課題認識にもとづいた共同研究としては、それぞれ違った分野での問題関心や方法論の違いはあるにしても、よくまとまった一書といえると思われる。ただ、どうしても歴史的な考察を柱とした前半と、文化的事象に限定して対象を取上げた後半とでは、分析の密度に温度差を感じざるを得なかった。しかし、これは筆者が地域史という観点でしか研究論文に接することができないという能力の限界によるものであり、むしろ限定された視野でしか見ることができない筆者の側の責任であろう。
 それにしても、やや砕けた言い方を許していただけるならば、研究対象としての「津軽」は幸せな地方である。これほど魅力的なテーマにあふれる地域は本州では他に例がないのではないかとさえ思える。いずれにおいても、地域にはその地域独得の歴史と文化があるはずである。にもかかわらず、地域が発信する独自性という点では津軽地方が群を抜いて強い。均質的な国家論を相対化するという観点によった研究素材としては、北海道と沖縄を別とすれば、もっとも研究蓄積の豊富な地域となったのではないか。しかしそれは、同時にまた、新しい地域像を構築するうえでどのような方法論がありうるかを真剣に考えて見なければならない段階にいたっていることをも示しているのではないか。「強制された劣等意識」という評価にしても、大多数の一般庶民の認識としてそのように評価しうるのかどうか。そのような意味では、後半の三本の論考を含めたこのような共同研究のあり方は、今後の地域史研究の方向性についてひとつの解答を示唆しているようにも思われる。
             (かなもり・まさや 秋田県立秋田高等学校教諭)


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