書評: 長谷川正次著『高遠藩財政史の研究』
掲載誌:『日本歴史』684(2005.5)
評者:飯島千秋

 本書は、長年にわたって信州高遠藩を研究してきた著者が、前著『高遠藩の基礎的研究』(国書刊行会、一九八五年)に引き続いて、藩政成立期から解体期までを対象に、同藩の財政状況や財政政策を明らかにしようとしたものである。
 前著が、主に藩政の展開過程を軸に記述されているのに対し、本書は財政政策の展開・実施過程の検討が中心になっている。なお、本書の約四割の部分が前著から再録(改稿のうえ再録)されていることからもわかるように、本書の位置づけは、前著の姉妹編というよりはむしろ補完関係にあるものということができよう。七〇〇頁にもおよぶ大著であるため、内容全般に言及することはできないが、各章ごとに主な論点を要約しておこう。
 序章では、高遠藩財政史に関する詳細かつ丹念な研究史整理が行われる。
 第一章では、保科正光が慶長五年(一六〇〇)に高遠に入封してから、明治四年(一八七一)の廃藩置県に至る間の保科氏(慶長五年〜寛永一三年〈一六三六〉、寛永八年以降三万石)、鳥居氏(寛永一三年から元禄二年〈一六八九〉、三万二〇〇石)、内藤氏(元禄四年〜明治四年、三万三〇〇〇石)の各時代における藩政史を概観する。
 第二章では、鳥居氏支配期の藩財政について、(一)高遠藩では元禄二年まで「地方知行制」が残存し、(二)藩は、新田開発を行うとともに、領民から各種小物成をはじめ可能な限りの徴収を行って、困窮する藩財政の財源確保に努めた、(三)しかし、それにも限界があって、最終的には領内外の豪農商層からの借財に依存せざるを得なかった、とする。
 第三章では、内藤氏入封後の貢租制度に関連して、幕領時代の元禄三年に制定された「高遠領検地條目」を提示し、その項目の多くが実際の検地でもその通りに実行されていたことを検証する。また、内藤氏支配時代の藩財政において、どのような歳出入があったのか、その内容の概略を示す。
 第四章では、享保〜安永期(一七一六〜一七八〇)の財政政策を検討する。内藤氏は、高遠入封直後の元禄五年に、藩に御用金品を納入させる九人の「御用達」を任命しているが、これは藩財政の困窮度がかなり進行していたことの証左といえる。また、享保一〇年には「御用達」とは別に、年貢米を担保として御用金や仕送金を負担・納入させる「町仕送役」を新たに併設して、彼らへの依存を強めていったとする。
 藩は、「町仕送役」設置にともなって、翌一一年には家中俸禄の「御借上」を廃止するものの、次第に財政困窮となり、八年後には「御借上」を復活し、さらに財源の安定確保・年貢増徴を目指して元文元年(一七三六)からは領内全村で「定免制」を施行したとする。また、明和四年(一七六七)開始の藩営形式による無尽については、背景に無尽掛金を藩財政に転用するという意図があったとみている。藩は、同年に財政支出抑制策として、農民一人あたり一カ年米一升を醸出させて、これを領内困窮民に貸し付ける「舫要用米制度」も開始する。
 第五章では、文化期(一八〇四〜一七)から文政期(一八一八〜二九)前半を対象として、年貢増徴、無尽、領外商人からの借財などについて検討する。この期においても年貢増徴策がとられたが藩財政を改善するには至らず、代わって無尽政策が導入される。無尽は、積立金・【クジ(門+亀)】当たり金を藩が利用・借財する形をとっていて、掛金は御用金と同様の意味をもっていたと結論する。借入については、文政元年・同六年に近江商人から各々一万五〇〇〇両の借入を行うものの、破綻寸前の藩財政を立て直すことはできなかったという。
 第六章では、藩主の大坂加番勤役にともなう費用捻出問題から引き起こされた全藩一揆が終焉したあと、文政九年から開始された財政改革の内容を検討する。このころ藩の借財は合計一〇万両余に達しており、財政の立て直しが急務となっていたが、この改革の特徴は、藩の主動で行なわれたものでなく、藩に依頼された四人の領内豪農に依存した形で実施された異例のものであったとする。年貢米を担保にした領内農民からの才覚金・御用金が借財返済にあてられて、表面上は借財返済に一定のめどが立ったようにみえるが、しかし内実は借財の多くがそのまま残っており、それらは借財主との交渉による返済中止(「借財切り」)や返済方法の変更(「年賦償還」)に委ねられたという。
 第七章では、文政期財政改革と同様に領内豪農層の協力のもとで推進された天保期(一八三〇〜四三)財政改革の実態を明らかにする。天保六年から同一一年にかけての第一次改革では、高遠領拝地一五〇年祭を利用した「新規役筋」の格上げや、「集金講」開始などによる歳入増加策が企図・実施され、同一四年からの第二次改革では、「借財切り」による支出抑制、藩主一族の生活費節約、家中俸禄の「御借上」などが実施された。しかし、これらの改革によっても藩財政が改善されることはなく、「見込みのない藩財政に対して無に等しい努力を払うものであった」との評価を与える。
 第八章では、安政二年(一八五五)に焼失した江戸上屋敷の復興費用捻出問選、高遠県による士族授産法、旧藩時代からの累積借財の返済計画、などについて述べる。
 以上、本書内容の概略を紹介してきたが、最後に、感想を二点ほどあげておきたい。第一は、高遠藩の財政構造についてである。高遠藩では「当初(内藤氏入封時)から藩財政の困窮は明確な事実として存在」(一五八頁)し、享保期には「仕送役」から年間八〇〇〇両の御用金が納入されたが、「それでも藩財政は充分ではなく」(六八六頁)とする。また、内藤氏支配時代には「借財を重ねて藩財政困窮の度合を深めていった」(二一四頁)、「次第に藩財政の窮迫度が大きくなり、文化年中には領内年貢の厘増上納や無尽による財源確保の政策を開始」(六二〇頁)との記述もみられる。藩の借財は文政期一〇万両にも達したとされるが、しかし、ここに至るまでの借財累積の推移などは明らかにされていない。時期別に収支決算の実態、借財の累積状況を明らかにすることが、同藩における「困窮の度合」や「財政窮乏の画期」(一七・一八頁)の問題とも関連して重要かと思われるが、それがないのが惜しまれる。
 第二は、藩が実行した財政政策の効果の有無に関してである。例えば明和四年の藩営無尽や「舫要用米制度」について、それぞれ「その運用については現在のところ不明であり」(三六〇頁)、「存続した時期については残存史料が少ないために不明である」(三六四頁)とする。藩がどのような財政政策を実行したのかを明らかにすることはもちろん重要であるが、それがどのような効果・結果をもたらしたのか、といった点の究明も大切であろう。「舫要用米制度」については、仮に著者が推定するように、五、六年しか存続しなかったとするならばそれは一体どのような理由からなのか、制度廃止後の困窮民救済策はどのようであったのか、等々さらなる検討が望まれる。
 高遠藩財政史研究においては財政帳簿や関係史料の欠如という史料的制約が大きかったとされる。研究進展のためにも史料博捜への継続的な努力を期待したい。
 本書は、高遠藩の成立期から解体期までを対象として、藩財政政策の展開過程を詳述したものであるが、これによって時期別に他藩で実施された財政政策との比較検討が容易となった。本書は、譜代藩に関するまとまった研究が少ない状況の中での貴重な成果といえるであろう。

(いいじま・ちあき 横浜商科大学商学部教授)

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