巡礼研究会編『巡礼論集1 巡礼研究の可能性』 
巡礼研究会編『巡礼論集2 六十六部廻国巡礼の諸相』
田中 智彦著『聖地を巡る人と道』
掲載誌:宗教研究342 78-2(2004.12
評者:小池 淳一


 一 本書の構成と内容

 本書は巡礼研究会の活動報告としての意味を持つ論文集である。論集1は、「巡礼研究の可能性」と題されて「日本および海外の諸巡礼の歴史・宗教・文化・思想などをめぐる学際的な論文」(論集1、二頁)によって構成されており、八編が収録されている。論集2は「六十六部廻国巡礼の諸相」と題され、二部構成となっている。第T部が六十六部シンポジウムにおける報告が論文化された四編及び開催の経緯であり、第U部が研究論文・史料紹介となっており、四編の論考が収載され、さらに小嶋博巳・田中智彦両氏の編による「六十六部研究文献一覧」が付されている。

 この書評では、最初に論集1、論集2の順に論考の内容を要約し、それぞれのテーマである「巡礼研究の可能性」、「六十六部廻国巡礼の諸相」に関してどういった知見が述べられているかを紹介する。次に二冊の内容をふまえて本論集が提起する巡礼研究の課題について評者なりに若干の考察を加えてみたい。

 二 巡礼研究の多様性をめぐって

 まず、論集1に収載されている論文についてみていきたい。

 藤原正己「仏の旅・ひとの旅―示現と巡礼からみた平安社会―」は、浄土と現実世界との間を移動しつつ、救済を行っていく「仏の旅」と浄土へ向かう人間の移動、すなわち「ひとの旅」をタイトルに掲げて日本の古代における言説や儀礼を分析する。ここでは「霊験・夢告・往生を求める都市に居住する人々が、そのような言説によって外部世界に創り出された無数の小宇宙に向かって、積極的に「移動」し始めるとき、聖地巡礼」が顕れる(一六頁)とする。あるいは、巡礼とは、貴族社会がもつ象徴資本、言説の生産力と儀礼化、人的ネットワークを総動員して宗教世界に一定の活動領域を確保する方法とする(二一頁)。移動を基軸に平安宗教史を再構築しようとする試論であるといえよう。

 山本殖生「熊野本願聖の巡歴―中世末期の断片的足跡から―」は、中世末の熊野本願聖の活動を断片的な史資料に基づいて検討している。隠岐島における那智山御前庵主の道玉、良源の活動の痕跡や、同じく宗永の活動が岡山県邑久町、福島県いわき市などに見られること、佐渡にも熊野本願聖の活動の痕跡が見出されることを述べ、さらに熊野に集った聖の事績にも言及する。最後に熊野本願聖関係の略年表を掲げている(四六―四七頁)。各地に点在する関連資料の博捜と実地踏査を含む丁寧な検討によって、実態が不分明であったこうした聖たちの活動を明らかにしていく方途が示されている。

 鈴木昭英「一百三十六部妙典の回国納経について」は、福島県西会津町の真福寺の大般若経の裏打ちに用いられた納経の請取状を分析している。中世に遡るこうした史料から、回国納経聖の具体的な様相を復元し、背景にある地獄説にも論及(六二―六三頁)している。断片的な史資料から情報を最大限に引き出し、中世における巡礼の姿を解明する要素を提示している。なお、この論考の前提となった「正平八年の越後国蔵王堂納経請取状とその背景」は、「南北朝時代の六十六部納経と越後国蔵王堂」と改題されて、鈴木氏の著作集の第三巻『越後・佐渡の山岳修験』(二〇〇四年、法蔵館)に収録されている。

 田中智彦「巡礼と順礼―文献史料と納経からみた中世の西国巡礼の表記―」は、中世において西国巡礼を表記する場合、「巡礼」と「順礼」の二通りがあることを取り上げ、さらに中世には単に「三十三所」とのみ記されていたものが「西国三十三所」と表記されるようになっていく様相とどのような関係にあるのかについても考察しようとする。中世期の文献史料によれば、「巡礼」から「順礼」への変化は享徳年間(一四五二〜一四五五)以降のことであり、「西国」を冠するようになるのは、中世末まで定着はしていないという。巡礼者自身の史料(納札)に基づけば、宝徳四年(一四五二)以前から「順礼」表記が認められ、明応三年(一四九四)までには「順礼」という表記が主流になるという。また「西国」を冠するようになるのは概ね、明応(一四九二〜一五〇一)の頃であるという。こうした変化とそれを支える意識として、東国出身の巡礼者は札所番号の順に廻るために「順礼」を用い、そうした東国出身者が多くなるにつれてこうした呼称が優勢になったと推論している(九一―九二頁)。

 下仲一功「「巡礼歌(御詠歌)」の性質をめぐって(一)―特に御詠歌の視点から―」は、歌謡文学研究の立場から、巡礼歌を検討している。ここでは巡礼の対象である札所寺院において仏等の信仰対象に和歌及びそれに類した歌謡が捧げられることに注目し、その詞章の構造、表現を分析している。形式面においては固有名詞が取り込まれることが特徴として指摘できるとされ、表現内容の点では情景の描写から相手のすばらしさを称揚する形式が多く、言揚げや言霊といった古代文学の特徴が受け継がれている(一一七頁)とする。

 佐藤久光「平成期における西国巡礼の動向と実態」は、平成年代(一九八九年〜)の西国巡礼の動向と実態とを、昭和期の動向を分析した先行研究を参照しつつ、分析している。それによると、巡礼者の総数は二、三年から一年毎の増減へと変化し、かつ季節感覚が薄くなっていること、巡礼者の出身地は地元である近畿圏が最も多いこと、仏教諸宗派との結びつきは強くない、といった面では昭和期と変わらないが、年齢層は六十歳代が中核であったのが、平成期に入ると五十歳代が中核となるといった変化もみられる(一五〇―一五三頁)、という。社会学的な立場による巡礼の現状が大局的な傾向としてとらえられている。なお、佐藤氏は本論考を収めた『遍路と巡礼の社会学』(二〇〇四年、人文書院)を刊行している。

 加藤隆浩「古代アンデスの巡礼―カワチ遺跡とナスカの地上絵―」は、ペルーのカワチ遺跡を考古学のデータに基づき、祭祀センターとしての機能があったらしいこと、さらに巡礼地であったらしいことを遺物や遺跡の構造から導き出している。巡礼地カワチは水を確保、豊饒祈願を目的とする場であった(一七〇頁)とされている。さらに有名なナスカの地上絵がカワチと目と鼻の先にあり、何らかの関わりがあったのではないか、と示唆している。

 小田匡保「ドイツ南部アルトエッティングへの徒歩巡礼―その現状を中心として―」はヨーロッパのキリスト教巡礼の実態報告である。筆者が実際に参加したレーゲンスブルクからアルトエッティングへの徒歩による巡礼団の様相を写真をまじえて活写している。日本の巡礼とはかなり異なった問題がいくつも存在しているようであり、巡礼そのものの生きた実態が不分明(一八一頁)であるとすれば、こうした現状の把握も必要であることが了解できる。

 以上、論集1に収められた八編の論考は、全体のタイトルである「巡礼研究の可能性」を示すのに充分な力作であると思われる。対象も日本の古代から南米、ヨーロッパという広がりをみせており、各種の性質や位相の異なる史資料が分析、活用されている点は極めて刺激的である。その反面、ここに至る巡礼研究の蓄積や問題点は明示されているわけではないので、その斬新さや研究史上の位置づけについては入念に読み込まなくてはわかりにくい点が少なくないだろう。学際的な研究の最前線が持つ宿命といってしまえばそれまでであるが、全体を見渡す研究会の編集担当者による概説が付されていてもよかったのではないか、と思わされる。

 三 六十六部廻国巡礼をめぐって

 論集2は「六十六部廻国巡礼の諸相」と題されて全体が六十六部巡礼に関する論考、史料紹介八編で構成されている。なお、六部と六十六部は基本的に同じ対象を示す語であるとひとまずとらえられるが、本書評においては当該論文ごとの表記に従って記述しておきたい。回国と廻国についても同様である。

 第一部は「六十六部シンポジウム―廻国巡礼の発生とその変貌―」として、一九九八年一二月五日に開催された同名のシンポジウムのパネリストの四つの報告が原稿化されている。このシンポジウムは、日本における最大の巡礼である六十六部について考古学・歴史学・民俗学・国文学といった領域で完結してしまいがちだったアプローチの限界を新しい段階に押し進めるべく企画されたものである(九―一〇頁)。

 田代孝「六十六部回国納経の発生と展開」は、中世における六十六部聖の系譜を追うとともに、十六世紀段階での実像をとらえようとしたものである。六十六部聖の系譜については、文献史料と経筒、鉄塔、板碑などの遺物を材料として論を進めている。それによると六十六部は古代における山岳修験者のなかでも法華経を受持する者たちにまで遡ることができるという。六十六部聖の回国納経は十四世紀中頃に本格化するが、十五世紀における史料は少なく、十六世紀になると再び多くの史資料が見出せるようになるとする。特に六十六部聖たちが具体的にどういった社寺に参拝していたかが図表に整理(三二―三九頁)されており、近世期へつながっていく様相がうかがえるとする。歴史考古学的な資料処理を経て、中世における六十六部の実態がかなりの部分まで実証的に解明されたということができよう。

 藤田定興「六十六部聖・行者の廻国目的とおこない」は、福島県域を中心に修験、六十六部といった宗教者の活動を多様な角度から明らかにしてきた同氏による短いながら要を得た報告である。六十六部たちの廻国は長期の歩行による難行苦行であるとし、中世においては納経、近世になると納札になるという。さらに「六十六」という数字は日本全国の国の数であるとともに全国を象徴的に表すものと指摘している。また経筒に記載されている奉納者名から、西国、板東、秩父等の観音巡礼を行うのは俗人が多いのに対して六十六部は圧倒的に聖や僧が多いとも述べている。

 小嶋博巳「近世六部の組織性」も、長年にわたって巡礼研究を牽引してきた同氏が従来の成果を充分に咀嚼しながら近世の六十六部廻国者たちの組織の存在を予想させる史資料を検討している。最初に史料が十八世紀以降に大幅に残存度が上昇することから十七世紀末から十八世紀初頭にかけての時期が六十六部にとっての画期であったろうことが確認される。続いて、修験である野田泉光院の『日本九峰修行日記』や随筆類、由緒書等に見られる描写から専業的な廻国者としての六部の存在を指摘している。さらに廻国供養塔に刻まれている人名の分析から、専業の六十六部たちがネットワークを形成しており、一般の六十六部たちもゆるやかにそれに連なる場合があったと推定している。最後に東叡山寛永寺や京都御室御所(仁和寺)が発給したとされる「御定目」を取り上げ、この存在も専業的な六部集団の活動と関わりがあるだろうとする。全体として近世における専業的な廻国者集団を想定し、彼らが廻国様式の形成に果たした役割の大きさが推測(七七―七八頁)されているのである。

 川島秀一「民俗社会の六部伝承」は、地域社会の側からみた六十六部について東北地方の伝承資料によって論じている。六部たちは物品や昔話、呪いごとなどを地域社会に置いていったとされる場合が多く、特に笈はその代表的なものとして挙げられるという。そして村の外部からやってきて特定の村人に宗教的な力能を与えるのが六部である(九一頁)とする。ただし、その信仰の形成は必ずしも直接的につながる場合ばかりではない。六部が建立したと伝えられる供養碑もその形状や関連する伝承とともに分析するのでなければ、明確な像を結ばないし、笈の中の仏像を開帳したり、錫杖を振るといった動作から六部という存在を想起する場合もあったとされる。六部自体と民俗宗教との関係を探るにはこうした民俗的データが重要な意味を持つことがよく理解できる報告である。

 これら四つの論考は、田代氏が考古学、藤田氏が日本史、小嶋氏が民俗宗教、川島氏が口承文芸といった分野からの報告であると位置づけられる(一〇七頁)が、異なった報告に同質あるいは類似の史資料が用いられる場合も多く、それらから導き出される知見も相互に補完し合い、新たな調査研究の視点を示唆することにもなっている。その点で、シンポジウムの目的は十二分に達成されていると考えてよいだろう。残念なのは当日の討論の内容までは活字化されていないことで、録音内容そのままの翻字ではなくとも、討論の要点だけでも記載されていたならば、よりシンポジウムとしての価値は高まったに違いない。ここでは四つの報告を活字化した論考を通読、さらに再読することで、新たな六十六部研究の課題と多彩な方法論とを受けとめることで満足しなければならない。なお、このシンポジウムの概要については『日本民俗学』二一七号、『地方史研究』二七九号などに紹介があることにも言及されている。

 論集2では第U部として、さらに四編の論文と史料紹介とが収載されている。これらも第T部と同様に六十六部研究にとって刺激的なものである。

 小栗栖健治「六十六部を描く行列絵巻―その解釈における一試論―」は、兵庫県立歴史博物館蔵の「大乗妙典経奉納六十六部大願成就絵巻」と新たに見出された個人蔵「大乗妙典経奉納六十六部日本廻国供養絵巻」の比較分析である。この絵巻は多種多様な史資料によって追究されてきた六十六部研究において新たに付け加わった絵画史料であり、その価値は極めて大きなものと考えられる。小栗栖氏は、これらを場面展開、場面説明、絵巻全体の製作目的などに注目して検討し、推論している。この絵巻は左から右へと展開するかたちで作成されており、共同作業による工房的なところで量産された可能性があること、諸国の霊場や小嶋論文でもふれられていた仁和寺、寛永寺と六十六部とのつながり、位牌の中の人名などから近世の六十六部の社会的特質が表現されているとする。つまり、「六十六部の草創に始まり、六六か国という国土と生きとし生けるものの支援を得て廻国納経を行い、天下泰平と来世の安穏を祈願する「天下祈念の僧」としての六十六部の姿が描きだされていた。」(一三九頁)とする。こうした絵巻は六十六部の理想像を描いたものであり、六十六部信仰の流布が製作の目的であったととらえられている。分析の対象となった絵巻が一五三〜一六四頁にモノクロではあるが鮮明な写真版で掲載されている点も周到な措置である。

 鈴木宗朔「六十六部 中山作大夫の廻国修行日記」は、和歌山県清水町二沢の山本家に残された廻国修行日記を分析している。この日記は七百ヵ日に及ぶもので関連する資料とともに保存されており、資料価値が高い。宝永七年(一七一〇)の高野山から東海、関東、東北、中部の各地を巡った東廻りの廻国と翌年に近江から加賀、さらに山陰地方を回って中国、九州、四国の各地を巡った西廻りの廻国がその内容であるが、鈴木氏は関連する遺物や社寺の調査成果をも加えて、作大夫の旅の実態、修験者としての性格も帯びていたこと、地域社会における熊野信仰にも関わっていたことなどを指摘していく。豊富な史資料に恵まれていることもさることながら、徹底した地域信仰の掘り起こしと史料の読み込みとによって、一人の六十六部の内面世界にまで迫っている点に敬意を表したい。

 長谷川賢二「近世阿波の藍商人 盛家の巡礼資料」は、徳島の藍商人であった盛家に伝来してきた巡礼関係資料の紹介である。十八世紀を中心とする盛家の商業活動の安定期に行われたであろうと推測されるもので、笈とその中の物品が中心であり、四国遍路や六十六部廻国、西国三十三所巡礼などが行われたと推測される。さらに巡礼としては広範な地域に関わる資料が残されており、この時期の巡礼とそれを送り出した家や地域社会を読み解いていく手がかりとして重要な資料群と言うことができるだろう。

 日野西眞定「高野山の六十六部史料」は、鈴木、長谷川両氏が巡礼の出身地に残された史資料を紹介したのに対して、多くの巡礼の目的地の一つであったであろう高野山内に残されている六十六部に関する史資料を紹介している。六十六部が奉納した法華経、板札、埋納された経筒、建立された供養塔といった巡礼研究ではおなじみの資料の他、奉納経受領書や清浄心院で得度、受戒した人々の記録、仁和寺の通達写など、宗教、信仰の中心地である高野山の性格がよくうかがえる史資料が解説とともに掲載されている。高野山に居住される日野西氏ならではの目配りを感じさせる報告である。こうした史資料群が研究者の共通認識になることで、巡礼研究の発展の基盤が据えられていくであろう。

 なお小島博巳・田中智彦編「六十六部研究文献一覧」は、二〇〇二年五月末の時点で、六十六部に関するある程度まとまった情報量を持つ文献を頁数まで含めて記載した丹念なものである。前節の論集1に対する批評の末尾で述べた渇をある程度癒してくれるものであり、後学に益するところが大きいと言えよう。

 以上、論集2に収められた論考、史料紹介は六十六部廻国巡礼に関する研究の水準をよく示している。地域宗教史研究に携わる者であれば、大なり小なり関連する史資料にふれることがあると思われるが、改めて本格的に取り組もうとした場合に、本論集を読み込むことで学術的な出発点を確認し、研究の方向性を考えることができるであろう。そうした意味で必読書ということができよう。六十六部に限ってもこれだけの論点があり、多彩な史資料とそれを扱う方法論とが駆使されている。このことを示したのは本論集の達成点であるが、同時に基本的な術語や多くの論者が苦心して作成したであろう図表等の基礎データを集成した書物が構想されてもよいのではないか、と思われた。ここに示された豊かな内容と研究の刺激的な発展にふれると、そうした期待がわきあがってくるのである。

 四 田中智彦著『聖地を巡る人と道』をめぐって

 以上、巡礼研究会編による巡礼論集二冊の内容紹介と若干のコメントを記してきた。これで書評の責を果たしたとしてもよいのだが、もう一冊、巡礼に関する書物に言及しておきたい。巡礼研究に興味と関心を抱く人であれば、周知のことであろうが、本論集2の「あとがき」末尾に記されているように、最近の充実した巡礼研究をリードし、活性化のためにさまざまな努力を注いできた田中智彦氏が二〇〇二年一二月四日に急逝された。そして残された研究の同志によって田中智彦論文集刊行委員会が組織され、田中氏の論文集『聖地を巡る人と道』(二〇〇四年、岩田書院)が刊行されたのである。同書巻末に収載された夫人と北川央氏との手によって編まれた業績一覧を参照すれば容易に理解できるように、田中氏の研究は到底一冊の分量に収まるような程度の内容と深さではない。しかしながら、比較的早い時期に、田中氏の巡礼研究の全体像と完成へ向かう構想とをうかがい知ることが可能な論文集が刊行されたことに、田中氏の研究がこの分野においていかに重要であるかがよく示されていると思われる。残念ながら現段階、評者には田中氏のこの論文集について学術的なコメントを付すだけの準備はないのだが、『巡礼論集』二冊に引き続いて、田中氏の論文集も紹介させていただきたい。

 『聖地を巡る人と道』は、田中氏の巡礼研究全体を示唆し得る一三編の論考で構成されている。序章には「巡礼の成立と展開」という総論にあたる論考が配されている。続いて第一編「西国巡礼路の復元」として、「愛宕越えと東国の巡礼者―西国巡礼路の復元―」、「石山より逆打と東国の巡礼者―西国巡礼路の復元―」、「大坂廻りと東国の巡礼者―西国巡礼路の復元―」、「西国巡礼の始点と終点」の四つの論考が、北川央氏の解説とともに収められている。

 第二編は「地域的巡礼地」として、「近畿地方における地域的巡礼地」、「近世大坂における巡礼」、「地域的巡礼のデータベース作成に関する基礎研究」の三つの論考が、小嶋博巳氏の解説を加えて収載されている。

 第三編は「四国遍路と近世の参詣」として、「『四国遍礼絵図』と『四国辺路道指南』」、「道中日記にみる金毘羅参詣経路―東北・関東地方の事例―」、「道中日記にみる畿内・近国からの社寺参詣」、「近世末、大坂近在の参詣遊山地」の四つの論考が、小野寺淳氏の解説を付して載せられている。

 終章には「日本における諸巡礼の発達」が置かれ、田中氏の巡礼研究の視野がうかがえる。

 田中氏の業績をもって巡礼研究会の諸氏の研究を代表させることはできないものの、この論文集の内容を概観しただけでも、同氏が巡礼研究の重要な一翼を占めていることは了解できるのではないだろうか。地理学に立脚し、徹底した調査と膨大なデータの収集及び解析に基づいたこれらの研究は巡礼という宗教現象を解明していく正統な手法を着実に実践しつつあったことをうかがわせる。それは解説を引くならば、「道中記を史料とした巡礼研究の、まさに第一人者」(小野寺氏、二四〇頁)であった田中氏が「それらの記述をもとに徹底的に現地調査を行な」い(北川氏、三九頁)、「地域的巡礼地」という語を「信仰圏が地域的に限定される巡礼地」を指すものとして用い、広めていった(小嶋氏、一三二頁)ことをはじめ、巡礼の類型論を模索していたことからも容易に理解できよう。誰も田中氏になりかわることはできないものの、氏が示した具体的な研究業績と研究環境の整備への情熱を想起することは巡礼研究にとって褪せることのない方向性の提示であろう。

 五 巡礼研究への期待

 本論集二冊のそれぞれの巻末には一九九二年から準備が進められ、翌年正式に発足した巡礼研究会の例会記録が載せられている。二〇〇二年四月二八日までに三八回を数える発表タイトルを通覧しただけでも、この研究会が巡礼という対象にさまざまな角度からアプローチをしてきたことをうかがうことができる。二冊の論集の内容と若干のコメント及び田中智彦氏の論集の紹介を経て、巡礼研究への期待を述べて、評者なりのまとめに代えたい。

 巡礼研究に取り組むためには、既に真野俊和編『講座日本の巡礼』(全三巻、一九九六年、雄山閣出版)のような研究史上、枢要な論文集成がある。あるいは近年では、星野英紀『四国遍路の宗教学的研究』(二〇〇一年、法蔵館)のような積年の研究を体系化した業績もある。そこに収録された論考がいわば、古典的かつ先駆的なものであるのに対して、巡礼研究会による、この二冊の論集は、意欲的かつ多彩な研究の方向性を示しているものといえるだろう。この点をふまえて大きく三つの課題が浮かび上がってくるように思われる。

 第一は、巡礼をめぐる多様な史資料を取り扱っていく方法論の整備である。論集2において六十六部を対象として示された分析はその成果ばかりではなく、巡礼という対象全体をとらえていく場合も方法論の錬磨と省察とが必要であることをも示しているだろう。研究が細密になり、多方面からの蓄積が増大するにつれ、当該分野への新たな参加が困難になっていくのは巡礼研究ばかりではないが、本論集に示された学際的なこれからの巡礼研究では考古学や歴史学、民俗学、あるいは文学、地理学、人類学といった既成の学問を複合していく必要が明示されている。それをふまえてそうした方法論の客観的な検討をふまえた整理と分類が示されていくことが重要ではないだろうか。『巡礼研究ハンドブック』のような書物が構想されてもいいように思われる。それは方法論に関する反省を含み、さらに新たな展開をもたらすものでもあろう。

 第二に、論集1に収められた加藤論文及び小田論文や田中氏の論集から示唆される比較巡礼研究への展望を挙げたい。さまざまな宗教に巡礼もしくはそれに類似した現象が存在し、また形成されている。そうした聖地に人々を惹きつけ、いざなう地域的文化的な特色や傾向はいかなるものか、個別の検討はこれまでにも行われてきているし、重要な達成も少なくないが、巡礼研究会をはじめとする諸氏によって比較巡礼論が新たに構想されることが期待される。そう考えた時に田中氏が積年の研究をふまえて日本における巡礼を構造化してとらえようとしていたことは大きな導きであろう。

 第三に巡礼研究は地域を相対化し、多元的にとらえる視角を持っていることを重視し、地域社会と宗教という枠組みを深化させていく可能性を持つことを強調したい。そこからは地域と地域を結ぶという観点とともに、地域を生活者の視点でとらえるばかりではなく、旅行者あるいは滞在者の視点からとらえていく可能性が浮かび上がってくる(この可能性の重要さと研究成果については『宗教研究』三四〇号の書評・紹介欄の拙稿を参照されたい)。さらに地域社会そのものの形成のダイナミズムや特定の地域に対するイメージの生成の過程なども問題となっていくであろう。巡礼研究はこうした巡礼者の出身地域、巡礼行為を支える地域社会、巡礼の目的地への感情などを立体的につなぐ視点を有している。巡礼研究の課題の一つとして、そうした地域研究の進展の可能性にも留意しておきたいのである。

 巡礼研究会の活動成果として世に問われた本論集から、以上のような課題を評者は読みとった。もちろん、これは巡礼という存在を気にはしていたものの、具体的な調査研究に携わったことのない評者の関心に恣意的に引き寄せた理解であり批評である。巡礼研究に具体的に関わっている方々であればより詳細で的を得た課題を汲み上げることが可能であろう。そうしたそれぞれの研究やそれを支える関心に沿った読みに充分に耐えうる論集であることを確認し、多くの読者によって巡礼研究がますます発展することを願いながら、つたない書評を閉じさせていただく。


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