荒川 善夫著『戦国期東国の権力構造』
掲載誌:国史学183(2004.4
評者:平野 明夫


 はじめに

 本書は、一九九七年に公刊された『戦国期北関東の地域権力』(岩田書院)に続く、著者の第二論文集である。そのもとになったのは、中央大学に提出した学位請求論文「戦国期東国における地域権力の構造−下野国那須・宇都宮氏を中心に−」であるという。

 著者は、一貫して下野の戦国期を対象として研究を進めており、本書もその成果の一つである。

 本書が課題としたのは、東国における戦国期国衆の権力構造を再検討し、彼らの歴史的な性格などを明らかにすることであり、主な素材としたのが、研究のあまり着手されていない下野那須氏と研究の進展が期待されている同国宇都宮氏である。

 構成は、つぎの通り(カッコ内は初出年)。

 序章 東国戦国期地域権力をめぐつて−戦国期国衆を中心として−(一九九九年)
 第一編 那須氏の動向と権力構造
 第一章 鎌倉〜室町期の那須氏と一族・家臣 (新稿)
 第二章 那須氏と那須衆 (二〇〇〇年)
 第三章 那須氏の権力構造 (二〇〇一年)
 第四章 豊臣・徳川初期の那須資晴(新稿)
 第二編 宇都宮氏の権力構造
 第五章 宇都宮氏の権力構造の変遷(新稿)
 第六章 宇都宮氏の本城移転−宇都宮城から多気山城ヘ−(一九九三年)
 第三編 小山・宇都宮・那須氏の戦国
 第七章 小山・宇都宮・那須氏と上部権力との関係
 −古河公方・越後上杉氏・常陸佐竹氏・豊臣氏との関係を中心として−(新稿)
 第八章 戦国期の小山・宇都宮・那須氏間の関係(二〇〇一年)
 補論 戦国期東国政治史考察の一視点−方位呼称からのアプローチ−(一九九二年)
 終章 結論と今後の課題(新稿)

 既発表論文と新稿が半ばしており、新たに取り組んだ姿勢が鮮明になっている。

 本稿では、まず内容を紹介し、ついで特徴を述べる。そのうえで、若干の疑問を指摘したい。

 なお、本書の書評・紹介は、すでに江田郁夫(書評と紹介『日本歴史』第六六二号、二〇〇三年)・遠藤ゆり子(書評『歴史評論』第六四六号、二〇〇四年)が行っている。あわせて読まれることをお勧めする。

 1 本書の内容
 序章は、戦国期東国地域権力に関する研究史整理である。一九七〇年代半ばまで、一九七〇年代後半〜一九八〇年代、一九八〇年代末期〜一九九〇年代の三つに時期区分して論じている。そして、市村高男(『戦国期東国の都市と権力』思文閣出版、一九九四年)・黒田基樹(『戦国大名と外様国衆』文献出版、一九九七年)によって本格的な国衆概念が提起されたと現状を把握し、今後両氏の国衆に対する概念規定の当否も含めて議論を深め、戦国国衆論に関する研究の進展を図っていく段階に入ったと指摘する。

 第一編は、下野東部から北部にかけて勢力を有していた那須氏を素材として取り上げている。

 第一章は、鎌倉期から室町期までの那須氏と同氏の有力な一族・家臣との関係を論じている。第二〜四章の前史である。そして、まず那須氏が温泉明神(温泉神社)を紐帯として擬制的な一族結合をしていたことを指摘する。また、那須氏の惣領制的な結合は南北朝以降崩れ、応永年中以降は有力庶子家が鎌倉公方や古河公方と結びつき惣領家を凌ぐほどに勢力を伸張させ、家格や社会的身分も獲得したともいう。それに関連して、室町幕府・鎌倉府が享徳の乱以前は惣領家および那須名字の庶子家を把握していたのに対して、享徳の乱以降は有力な一族・家臣を直接掌握・統制していたという。さらに、室町後期の那須氏は、那須惣領家・那須名字の有力庶家−那須名字でない庶子家−有力家臣という構図であったことを指摘している。

 第二章は、第一章との異同を考慮しっつ、那須氏と那須衆の関係について追求する。そして、那須氏と那須衆が、家格や社会的身分の面で差異があるものの、それぞれ自立した領主同士の連合権力であり、婚姻や養子縁組を通じて、那須氏当主を旗頭とする擬制的な一族結合体制を形成しており、有機的に結びついて、衆議によって政策決定するなど一揆的な協調体制を創り出し、那須八溝地域で地域的な公儀として存在したという。

 第三章は、那須氏の歴代当主ごとに家臣団の構成を分析し、戦国期那須氏の権力構造がどのように変遷していったのかを見ている。そして、天正十年代以降、那須氏当主と宿老との領主連合的な体制から、側近や直属重臣にウェートを置いた当主専制的な体制に変えていったと事実確認し、こうした状況が特殊事例でないことを指摘したうえで、この時期に権力構造が転換した理由を、日本各地で進展した地域的な統合に求める。大規模な戦争の頻発が政策決定の迅速さを要求した。そのため、本城に居らず連絡が密にできない上に、門閥や家格を背景に独自の所領と家臣団を持ち、必ずしも服従するとは限らない親類層や家風層を排除して、自前の直属家臣たちにウェートを置いた権力編成をする必要性があったとする。さらに、豊臣期にそうした権力編成が進んだのは、豊臣政権側が望んだことも考えられるという。

 第四章は、那須資晴の動向と歴史的な役割について、主に豊臣・徳川両統一政権との関係で考察する。小田原遅参のため一旦は改易されたものの、秀吉の奥羽一揆対策の一環として再興され、文禄期までは資晴が実質的な権限代行者として豊臣政権に相対し、秀吉も資晴を那須氏の代表者と認識していたとし、慶長期には資景の後見役となって公的な関係には登場せず、晩年に家康の御咄衆となり、公式な当主資景とともに、私的に徳川政権と接して、那須氏全体の安泰を図ったとする。

 第二編は、下野の中央部に蟠踞していた宇都宮氏を素材とする。

 第五章は、那須氏の権力構造の変遷で見られたことが、他の東国における地域権力の権力構造でも指摘できるかどうかという観点で検討したもので、なぜ宇都宮氏が権力構造を変化させたのか、変換させた対内的・対外的理由を考察する。まず、天正一桁代後半以降に宇都宮氏当主と親類・家風層の有力者からなる領主連合的な体制から、当主専制をめざして当主直属の重臣である老敷衆を加えた体制に切り替えていったと捉え、その理由を、小田原北条氏の侵攻や北条氏と結んだ壬生・那須氏などとの抗争に備え、当主を中心とした果断で速やかな政策設定が要求されたこと、家臣団内部で一族の分裂や、家臣同士の村立・抗争、家臣の離反・敵対が見られたためとする。また、当主専制は、親類・家風層の有力者切り捨てと老敷衆・奉行衆の重視といった形で、豊臣期により顕著となる。その理由として、太閤検地の遂行を挙げ、家柄よりも実務にたけた官僚を必要としたと指摘する。

 第六章は、北条氏の外圧や宇都宮氏の権力構造の変換と関連して、宇都宮城から多気山城へ本城を移した背景を考察する。天正十三年(一五八五)八月多気山城への本城移転は、対北条氏のみでなく、盟友佐竹氏との戦略構想もあり、多気山の信仰に伴う仏の加護を期待したともいう。防御を考慮した移転と捉えている。多気山城へ本城を移した際に、宇都宮氏当主とともに移住したのが、宿老層を形成していた有力な親類・家風層ではなく、直属の家臣(直臣)であったとし、本城移転と権力構造の変化の連動性を指摘する。そして、天正十八年九月下旬以前には再び本城を、交通の便がよく領国支配に適した宇都宮城に戻したとした。なお、文化財としての多気山城の価値についても論及している。

 第三編は、下野三大勢力小山・宇都宮・那須の上部権力との関係、および相互関係を検討する。

 第七章は、小山氏・宇都宮氏・那須氏と古河公方や小田原北条氏、越後上杉氏、常陸佐竹氏、豊臣政権といった上部権力との関係を考察する。そして、北関東領主層が古河公方を広域上部権力として推戴した社会的要因として、自家の内紛や領主間抗争を挙げる。自家の内紛では自派の正当性の承認や多数派工作に古河公方が必要とされ、領主間抗争に際しては裁定や調停のための存在であったと説明する。その古河公方は、北条氏に擁立された義氏の公方就任によって性格を転換させるけれども、他に代わる存在がいなかったため、引き続き北関東領主層の上部権力として推戴された。ただし、そうした状況は、永禄一桁代半ば、越後上杉氏が関東諸領主層の旗頭となって直接軍勢動員したことに伴い、北条氏も古河公方の権威を媒介とする服属政策から直接相対するようになつて終わったとし、上杉氏が上部権力として推戴されたのは、古河公方足利義氏−管領北条氏体制下では解決できなかった旧領回復や内部問題、領主間抗争の解決のためであったという。天正期には、佐竹氏が関東出陣の減った上杉氏に代わって上部権力となっていった。そして、豊臣政権との関係では、とくに惣無事令の諾否が、北関東領主層の直面する領土紛争や領主間抗争という現実的利害を反映するものであったと指摘する。

 第八章は、小山氏・宇都宮氏・那須氏の相互関係を検討して、その歴史的性格を追求する。そして、領主層の行動を規定したのは家の存続と所領の回復・維持・拡大を願う思いであり、とくに近隣領主との所領相論・境目相論が直面する現実的利害関係であったという。さらに、それが何代にもわたっていることによって、その歴史的性格を、長い歴史と伝統によって裏付けられた、地域に密着した地域権力であったと結論付けている。

 補論では、「南方」「東方」といった方位呼称から政治史を描くことを試みている。そして、方位呼称が、公方御座所の古河およびその周辺を中心とした見方で、東国の政治史が「北」の上杉氏、「南」の北条氏、「西」の武田氏、「東」の佐竹氏を中心とした四極構造であったと指摘する。

 終章では、以上を総括した上で、今後の課題について提示している。

 著者は、本書で検討した結果として、戦国期東国の地域権力像を、つぎのように提示している。

 基本的な権力構造は、国衆当主と宿老層(親類・家風層の有力者)とによる領主連合的な体制であったとする。具体的には、宿老たちが、領内各地に城郭を構えて蟠踞し、独自に家臣団を持ち、政策決定に際しては当主の本城に出向いて衆議するか、当主から使者や書状を遣わされて意見を述べる体制だという。その背景として、池享・市村高男による親類・家風層からの見方(農民支配を徹底させたい親類・家風層の意向や、所領相論に対する裁判・調停を希求する個別領主の考えが、国衆当主の下に親類・家風層を結集させていったという)に加えて、諸権限を行使する際の拠り所となる地位を梃子に、身分秩序や序列、家格を重視する社会的な風潮を利用したという国衆側からの見方を提示している。
 そして、小田原北条氏の外圧が強まる天正期には、こうした権力構造は矛盾を露呈するとし、家臣団の分裂・抗争を掲げる。そうしたなかで、国衆当主は権力構造の再編を行ったという。

 それは、素早く果断に政策決定することを迫られた当主が、側近の重臣や直属の重臣を基盤とした当主専制体制に切り替えていくことだという。さらに、当主専制体制は、豊臣政権の志向とも合致したため、豊臣期に完成するとしている。

 戦国期の那須・宇都宮・小山氏などを取り巻く社会−北開東−は、社会的な身分や家格を重視する社会であったという。そのために、家風の者が那須らに代わって地域的公権力になることはできなかったとする。その背景には、那須氏らが平安以来同地域に長く蟠踞して在地支配を展開していたことがあり、那須らは長い伝統と歴史によって裏付けられた地域に密着した地域権力であったと結論づけている。

 著者が挙げる課題は、(1)近世への展望も含めて戦国期地域権力が近世大名になっていく過程を明確に跡付けること、(2)天正期に列島的な規模で戦乱が勃発し地域的な統合が進み、戦国期の地域権力が、この時期に家臣団構成を当主と門閥の宿老層との領主連合的な体制から、当主と側近の重臣や直属の重臣からなる当主専制的な体制に切り替えていった理由を整合的に解明すること、(3)近年著しく進展した流通・都市・宗教・城郭・職人・村落論などの分野の成果も取り入れて、より総体的な地域権力像を描き出すこと、の三点である。

 2 本書の特徴
 著者は、那須氏・宇都宮氏の家臣団構造を、当主と宿老層による領主連合的な体制から、天正年間に、側近の重臣や直属の重臣を基盤とした当主専制体制へ移行し、豊臣政権下で当主専制体制は完成したと、指摘する。このように、国衆の家臣団構成に着目し、その変遷を究明したことに本書の最大の特徴があろう。これまで、国衆の家臣団に関する研究が希薄であっただけに、その実態とともに、転換を明示したことは、今後の研究の出発点となる。

 これらの点を導き出すために行った北関東戦国期の政治史整理は、史料の博捜に裏付けられて、詳細である。その流れが明らかになったことによって、戦国期の北関東地域を考えるための基礎を得たと評価できる。

 また、国衆と上部権力との関係について、一方向のみでなく、相互関連をも究明していることも、特徴であろう。さらに国衆間の関係を明らかにしたことも、重要な視点である。

 著者は、本書刊行後、「戦国期下野小山氏の権力構造の変遷」(『日本歴史』第六六七号、二〇〇三年)を発表し、小山氏を事例として、家臣団構造の変遷について検討している。小山氏は、那須氏・宇都宮氏とともに、戦国期下野の三大政治勢力の一つでありながら、その家臣団構造については、本書ではとりあげていなかった。それを補完し、本書で検討した視点を再確認したものである。

 本書の特徴は、こうした内容とともに、その手法にもある。

 関連史料を博捜し、利用することは、一般的ながら、著者ほど徹底するのは、難しい。そのなかには、石造物や中世城郭といった文書・記録のみでない史料が含まれ、断片的でしかない文書・記録の欠を補っている。そこには、石造物の年代推定や、中世城郭の縄張論、神社の分布調査の成果など、該博な知識の蓄積がかいま見られる。それとともに、足で稼いだ史料との印象を強く受ける。栃木県内をくまなく歩く著者の姿を想像できよう。

 そして、その先にあるのが、文化財保護への強い念である。第六章は、本書の論旨と、やや異なるように感じられる部分があるけれども、中世城郭保存への強い思いは伝わってくる。文化財保護の思いについては、とくに「あとがき」に吐露されている。

 3 若干の疑問
 このように、多々継承すべき点を含んだ本書ながら、問題に思う点もある。その若干を指摘しておきたい。

 本書の最大の成果は、特徴でも述べたように、那須氏・宇都宮氏(のちに小山氏を加える)の家臣団構造を、当主と宿老層による領主連合的な体制から、天正年間に、側近の重臣や直属の重臣を基盤とした当主専制体制へ移行し、豊臣政権下で当主専制体制は完成したと、指摘したことであろう。

 その理由を、小田原北条氏の北関東侵攻によって引き起こされた家臣団の対立・抗争が家臣団統制を困難にし、その対応として、当主による権力構造再編が行われたと説明する。素早く、果断に政策決定をするための体制だという。

 一見、首肯できそうな気がする。戦国大名でも、三河統一期の徳川氏の場合、酒井忠次以外の重臣は、本城・岡崎城の家康側近にいて政策を遂行していた(拙稿「三河統一期における徳川氏の支配体制−酒井忠次と石川家成・同数正の地位と権限を通して−」<『戦国史研究』第二三号、一九九二年>)。しかし、小田原北条氏の場合、当主の兄弟が政策決定に重要な位置を占めていたと捉えられる。それぞれの流れは、戦国大名と国衆の違いであろうか。もう少し実態を究明する必要があると思われる。

 徳川氏の場合、広忠・家康に兄弟がいなかったことが、多分に、そうした体制に移行した要因と考えられる。そうすると、那須氏・宇都宮氏・小山氏の当主兄第の動向・位置、つけが気になる。兄弟がいたのか、いなかったのか。いたとしたら、当主・家臣団とどのような関係にあったのか。この点への言及がほしかった。つまり、著者が、一族・親類とした者のなかで、当主兄弟は別に考える必要があるということである。著者も指摘しているように、戦国期は家臣が血筋を超えることがなかった(拙稿「今川氏と松平氏」<静岡県地域史研究会編『戦国期静岡の研究』清文堂、二〇〇一年>でも指摘した)。そうした戦国社会において、当主兄弟は当主に最も近い血縁者である。当主兄弟が、一族・親類のなかでも特殊な存在であることは、意識すべきであろう。

 疑問の二つめは、特徴として挙げた史料についてである。石造物をめぐる伝承をそのまま信用し、中世領主の史料として活用するのは、やや疑問である。伝承の信憑性が問題となろう。そのことは、温泉神社の分布を那須氏の勢力圏とした点も同様である。一般に、寺社の縁起は、後年になるほど、開創が古くなる傾向にある。すなわち、中世開創の伝承があるからといって、本当に中世に開創されたのかは不明とせざるを得ない。一つ一つの神社の開創を検証してからでなくては、中世の史料として使うのは難しのではなかろうか。

 疑問の三つめは、補論についてである。方位呼称に政治性を読み取ろうとしているけれども、単に自身と相手の位置関係での呼称ではなかろうか。方位呼称が政治性を帯びていることについての説明が必要であるけれども、具体的な説明がない。是非説明をしてほしい。

 このように疑問を呈したけれども、無い物ねだりの感もあり、あるいは誤解もあるかもしれない。著者の御寛恕を乞う次第である。

 本書は戦国期の領主を考える際の一つの指標となるであろう。一読をお勧めする。


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