大藤ゆき著『子育ての民俗』
評者・産経新聞「生活」欄 掲載紙・産経新聞朝刊(2000.1.22)


<現代の子育て 問題の本質を探る>
八十八歳の米寿を記念した『母たちの民俗誌』『子育ての民俗―柳田国男が伝えたもの』(いずれも岩田書院)が昨年三月と十月に、相次いで出版された。『母たちの民俗誌』は、大藤さんが編者となり、後輩の女性民俗学研究者有志の寄稿と、自身の巻頭論文「家と男性」で、現代に生きる母たちの民俗が多角的に論じられている。一方、『子育ての民俗』は、大藤さんが以前発表した論考に、新たに"いじめ"の問題をめぐる書き下ろしを加え、現代の子育て、老い、死といった問題の本質を探ろうとしたものである。八十代末にして書き下ろし、それも現代社会に働きかける学問的提唱とあれば、年齢では計れぬ知的活動のすごさに驚嘆するばかりだ。
長男の小学校入学以来、PTA活動を通じて知り合った母親たちと五十年来続いている神奈川県鎌倉市での"若竹読書会"や、東京・青山での女件民俗学研究会(いずれも月一回)は欠がさず「楽しみに出席しています」という。
   ◇
大藤さんが民俗学に関わったのは偶然だった。女子大を卒業したが、就職口がなく、英文タイプ、速記、日本語教師の資格を取って、英米人に日本語を教えたりしていた。昭和十年、父の親友、緒方竹虎氏(当時は朝日新聞主筆)の紹介で、父とともに民俗学者の柳田国男氏を訪ねた。ほとばしる情熱で民俗学の重要性を説く柳田氏に、二十五歳の大藤さんは強くひかれた。
「眉目秀麗、目がとても印象的でした」
秘書的な仕事を手伝うことになり、柳田邸で行われた月例研究会「木曜会」に出席し会員で後に夫となった大藤時彦さんに出会うのである。
研究会で学ぶうちに、「民俗学は過去のみでなく、未来を見通すためのものであること。日本がいま困っている問題に志を立てること。どうなるのが国民の幸せか、という考えをもって研究すること。とりわけ女性が民俗学の知識をもつことの大切さ」を師から教えられた。
このときから大藤さんは、自分の足元を、一般庶民の生活史をみつめることが、いかに大切かを知った。「世のため、人のためにする学問」という師の言葉は、大藤さんの民俗学に対する基本的な姿勢となった。
   ◇
二十八歳で結婚し、三人の子をもうけた大藤さんは家事と育児に追われ、木曜会にも昭和十二年に新たに誕生した「女の会」(女性民俗学研究会の通称)にも欠席せざるを得なかった。だが産み、育てることの経験を通してならと家事、育児の合間に執筆し、処女出版となった『児やらひ』は、民俗学の古典的名著となり、女性の民俗学研究者に大きな貢献をした。
   ◇
昭和十六年の日米開戦から本土爆撃を避けて、鳥取県・青谷へ疎開。二十年の敗戦。その後の混乱期の辛酸は、大藤さんの場合も例外ではなかった。戻った鎌倉で、子育て中はPTAや婦人会の共同保育など、地域活動に積極的に参加し、その中に民俗学のテーマを求めては、研究を怠らなかった。ようやく子育ての手が離れた昭和二十七年に、十二歳、九歳、四歳の子を姑に預け、東京・成城の柳田邸で行われていた「女の会」の例会に参加し始めた。
「勉強の後押しをした夫も帰宅が遅いと、『君の五時は七時か!』って怒るんです」
だが、年を追うことに、大藤さんの飛躍はめざましかった。女性民俗学研究者のリーダーとして重責を担い、地元・鎌倉を中心に神奈川県のほか、各地での民俗学の調査、研究発表、講演、専門誌や雑誌への執筆に明け暮れる。
また著書の数々は、現代の家庭が見失ってしまった暮らしの知恵、親と子のあり方、いじめ、暴力、自殺、他殺など子供を取り巻く問題から、老いにいたるまで、民俗の英知から学ぶべきものが多くあることを示唆している。
   ◇
取材後、鎌倉駅に近い小町大巧寺(俗におんめ様と呼ぶ産女霊神)に案内された。おんめ様は大藤さんの著書『鎌倉の民俗』にも載っている安産、子育て神で、関東、関西方面からも信仰されている。 たまたま東京・八王子から来たという生後一ヶ月の赤ちゃんを抱いた若夫婦と母親の、安産のお礼参りに出会った。大藤さんがすっと近寄って赤ちゃんをあやした。慈愛に満ちた笑顔は、大藤さんの民俗学を貫く"母のまなざし"そのものであった。
(赤岡東)
詳細へ 注文へ 戻る