野本 寛一著『山地母源論1 日向山峡のムラから』
掲載誌:東北学1(2004.10
評者:永松 敦


フィールドを拠点の日本文化論

 このたび、『焼畑民俗文化論』『生態民俗学序説』など数多くの著書で知られる野本寛一氏が、長年、椎葉・米良(めら)地方という九州山間部を調査された成果を世に出された。同地方の民俗は全国的に見て極めて豊富であり、奥も深い。芸能・信仰といったテーマ主義による調査法では当地の民俗を理解することは困難である。山に生きる人々が焼畑や定畑を営みながら狩猟や漁撈、さらには、蜂蜜や山菜採りを行い、山の神を信仰し、神楽を舞う姿をいかにビビッドに表現するかは、これまでの研究者にとって至難の業であった。

 本書は野本氏が全身全霊を込めて同地方の民俗をよりリアルに立体的に浮かび上がらせた熱意あふれる新たな民俗研究書である。著者は、豊かな民俗文化は母なる山からの所産である、と位置づけ、「山地母源論」という枠組みを新たに設定した。

 「山地母源論」は、個人誌を契機として、日向山地の深い伝承世界に垂鉛をおろし続ける間に強い実感と感動の中で凝縮された主題である。(十四頁)

 さらに、本書の中では次のようにも説いている。

 「山地母源論」というのは、山地絶対母源論でもないし、山に対する感傷でもない。日本人が、この狭隘な国土の中で心豊かに生き、優れた文化を育んでくることができたのは、「山の母源性」と「海の母源性」を敬い、そのことによって山・海に抱かれてきたからである。不透明で、閉塞感に蔽われた現今なればこそ、われわれは「山」を、そして「海」を見つめ直さなければならないのである。(二十四頁)

 野本氏は米良・椎葉という山村で、個人誌をしたためた。米良の浜砂久義氏、椎葉の尾前新太郎氏というお二方の生き様についてである。山での焼畑や狩猟、戦中、戦後の困難な時期を乗り越えて今日に至るまでの様相を描き出した。山で生きる、山に生きる、山に生かされる人々とは何かを問い詰めたとき、そこには山に抱かれてこそ生きる民が創造し伝承する独特な民俗の存在が、浮かび上がってきたのだと、評者には感じられる。

 本書の構成は三部からなり、その第一部に個人誌が語られる。(目次省略)

 個人誌の中身は、複合生業、衣食住、信仰などに及び、同地方の民俗誌としての資料価値は貴重である。これまで、同地方の調査事例は多いが、個人の暮らしぶりをこれはど細かに再現したものは他に例を見ない。

 続いて、U〜W部が続く。(目次省略)

 全体を語ることは難しいが、敢えて本書の特色を述べるとするならば、環境論に踏み込んで論述した点である。V 第一章の「クエの痕・クエの伝承」のクエとはクエル(崩壊する)ということで、地滑りを意味している。自然林の過度の伐採、林道の整備などから起こる大規模な災害は、大雨ごとに繰り返し起こっている。椎葉という民俗学では聞き慣れた地名ではあるが、実際のところ椎の葉で覆われた豊かな照葉樹林ではなく、むしろ、高冷地であるため照葉樹は希少である。それ故に人々が椎や樫などの照葉樹林を愛し荒神(こうじん)の森として丁重に敬い、守り育てた森であることを指摘し、環境面からクエる森と荒神の森とを対照させて説いているところが注目される。

 野本氏は、個人誌を語ることは民俗学ではないと説く(十三頁)。しかし、評者はこれこそが民俗学だと思う。柳田国男は文字に現れない庶民の歴史を追及した。文字に残らず、しかも比較対象のない単一の事例に過ぎないという理由から、学問的に扱えないとするならば、民衆の生活史を語る学問は一つも存在しないことになる。単なる個人の事例に過ぎないにしても、そのひとつの事象が何故存在するのかを考えることこそが民俗学の使命であると、評者には思われてならない。

 その意味で本書は、近年、テーマを絞って理論主義に変容した民俗学に対して、あくまでもフィールドに拠点をもち、ダイナミックな日本文化論を語ろうとする野本民俗学の真骨頂が十二分に発揮されていると言えよう。


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