八田 達男著『霊験寺院と神仏習合−古代寺院の中世的展開−』
掲載誌:御影史学論集29(2004.10
評者:小田 悦代


 本書は、御影史学研究会歴史学叢書3として出されたものである。第一章では古代において国家や有力貴族の力を得て造立・維持されてきた寺院が、その後それらの後ろ盾を失い、仏像などの霊験を説いたり、縁起を作るなどして、一般庶民の信仰を得て生きのびてゆこうとする変容の様を、さまざまな事例を考察することによって示している。

 第二章では、「神仏習合」の事例として語られる「仏教的神」に焦点をあて、その混沌とした信仰を整理し、主に伝播に関して説き明かしている。

 本音の一貫したテーマは、タイトルから理解できるとおり「霊験寺院」化であるだろう。「霊験寺院」が形を整えるに至るまでには、それぞれの状況・意図・努力があった。そのテーマは第一章のみならず、第二章にも通底している。

 では、本書の構成を示しておこう。(省略)

 まず第一章を紹介しよう。第一節「長谷寺十一面観音像の像容」では、長谷寺十一面観音像が@台座、A持物、B脇侍に特異な形が用いられた背景を考察する。特に長谷寺十一面観音が手にする錫杖についての論は興味深い。長谷寺は七度罹災しており、二度目の再興までは藤原氏の力によってなされた。それに対して三度目の嘉保元年(一〇九四)罹災の再興では、長谷寺史上初めて勧進聖の尽力によって成し遂げられた。それゆえその際に、勧進聖のシンボルであるとともに、当時高揚していた地蔵菩薩のシンボルでもある錫杖を手にする本尊が造られたという。

 第二節「伊勢 近長谷寺と長谷観音信仰」で取り上げられている近長谷寺は、その名称と巨大な十一面観音像を本尊とする点で、長谷観音信仰との関係が考えられる。しかし、十世紀の『近長谷寺資財帳』によると、すでに十世紀当時に一丈八尺の金色十一面観音が安置されており、十一世紀末から十二世紀にかけておこった長谷寺の勧進活動によって伝えられた信仰ではないことがわかる。また、この資財帳からは、長谷寺との関係は名称以外にはうかがうことができない。それが後世の史料になると、天文六年(一五三七)の『近長谷寺勧進状』には「大和国泊瀬寺之尊次也」の文言が見え、天正十六年(一五八八)の『真海法印宛氏郷寄進状』では近長谷寺本尊が長谷観音と同木であるという説が生じ、さらに貞享四年(一六八七)の『近長谷寺縁起』では、近長谷寺が長谷寺に擬して建てられたと言われるようになっている。著者は史料から近長谷寺の信仰の変遷を跡付け、近長谷寺が霊験寺院化する様子を示すことに成功しているといえよう。

 第三節「不空羂索観音信仰の特性について−興福寺南円堂を中心に−」は、奈良時代に盛んであった不空羂索観音信仰が、平安期以降不振になった理由を説き明かす。著者は藤原氏が不空羂索観音を特に崇敬していた点に注目した。特に興味深いのは、不空羂索観音が藤原氏の当面の政敵であった源氏に対する不幸や呪岨に関わる経歴や伝承を持ち、他氏から恐れられる存在であったことを史料上から明らかにした点である。それゆえ、藤原氏以外の他氏や一般の人々に不空羂索観音信仰が広がらなかったと結論づけた。著者の卓見であるといえよう。

 第四節「架橋と造仏−主に泉橋をめぐる事項について−」は、山城国相楽郡にあって木津川の重要な交通拠点で、行基信仰が強く根付いている地にある泉橋を取り上げている。この泉橋は、平安中期以前における現世利益的で河川・橋梁の安穏を基調とする観音・地蔵の造仏、平安後期以降鎌倉初期にかけての来世信仰・浄土信仰に基づく地蔵信仰、そして鎌倉後期における西大寺流の僧による造仏と、橋をめぐる造仏を考える場合の普遍的な要素を見いだすことができる例であると、著者は指摘する。

 第五節「蟹満寺の観音霊場化と釈迦如来像の来歴」は、蟹満寺の縁起、観音堂安置の観音菩薩像、現本尊の釈迦如来像などについての総合的考察がなされている。蟹満寺は本尊を本来の釈迦如来像から、平安中期頃に観音菩薩に代え、それとともに民話をもとに法華経や観音の霊験を説く縁起を作り出し、広く一般の信仰を集めるようになったという。筆者がテーマとしている古代寺院の霊験寺院化の非常に顕著な例として興味は尽きない。

 第一章最後には付論として、「興福院創建期の本尊と薬師寺講堂薬師三尊像−古代寺院の展開と古代金銅仏の来歴−」が置かれる。ここで筆者は行方不明とされている興福院本尊であった丈六の薬師如来金銅仏が、現在の薬師寺講堂の薬師三尊像ではないかという大胆な説を立てている。この説については、この論文初出後に出された批判論文も補注にあげられているので、我々読者は併せて考証することも面白いかもしれない。ただ、この興福院は藤原百川によって造られ、平安期には藤原氏の氏寺であったという点で、同じく藤原氏との関係について触れた第三節の次にこの付論を入れるのも、構成上の一案であったのではと思うのだが、どうであろうか。

 次に第二章の紹介に移ろう。第二章第一節「蔵王権現信仰の伝播について」で、著者は平安時代から鎌倉時代にかけての蔵王権現信仰の伝播には、@金峯山における蔵王権現の本地仏(弥勒・釈迦・千手観音)説を媒介としたもの、A蔵王権現の本地仏とは無関係なもの、の二種類があると指摘した。Aの場合、平安時代までさかのぼるものとして、山陰地方の三徳山三仏寺と鰐淵寺があげられる。これらは、当初行場が聖地として自然崇拝されていたが、寺院体制が確立した後、金峯山の蔵王権現を本尊の「鎮守」として勧請・奉祀したものであるという。

 第二節「牛頭天王信仰の初期段階における展開」では、九世紀末頃に京都祇園社に創祀されたと考えられる牛頭天王は、播磨広峯社・南山城朱智神社・南都春日社末社水谷社から勧請されたという伝承が存在するという。この三社のうち、朱智神社・春日水谷社の伝承は自らの側の記録や編纂物に残るのみだが、広峯社の伝承は『二十二社註式』や『蔭涼軒日録』といった京都における記録や編纂物にも残ることから、著者は日本において牛頭天王が最初に奉祀されたのは広峯社ではないかと指摘する。

 補論「京都府山城町 松尾神社牛頭天王像の伝来に関する史料−『松尾大明神遷宮記録写』−」は史料紹介を含めた論考である。京都府相楽郡山城町大字椿井小字松尾の松尾神社は、現在平安後期造立とみられる二体の牛頭天王像を所蔵しているが、かつてこれらは松尾神社と同じ椿井の地にあった御霊神社の神体であった。それを示す史料『松尾大明神遷宮記録写』の全文を紹介する。

 第三節「狛弁才天に対する信仰−中・近世における福神信仰とその霊場に関する一例−」は、古代から中世(平安から鎌倉)への推移が主流の本書の中で、中世から近世(十四世紀から江戸後期まで)について触れた論考である。狛弁才天は京都府相楽郡山城町大字椿井に祭祀されている。この地は先の「補論」で取り上げられた松尾神社と御霊神社のある地であり、また、木津川流域にあたり、第一章第四節で取り上げられた泉橋の近辺でもある。狛弁才天は、興福寺をはじめとする南都寺院との関わりのもとに、真言系僧侶が関与して十四世紀に創建された。十五世紀に狛氏が一族の守護神としてこの弁才天を祭祀するようになった。そこには興福寺領狛野荘在地荘官であった狛氏と興福寺の関係が見て取れるという。近世になり狛氏がこの地を去った後は、地域数か村の産土神としての性質を強め、現世利益全般にわたる信仰を集めていったという。興味深いのは、近世に行基開創伝承や長谷観音同木伝承などが生み出されたことである。正徳四年(一七一四)に狛弁才天再興の勧進を行うために作成された「城州相楽郡上狛郷王台寺弁才天勧化之記」には、そういった内容が盛り込まれている。この地が行基と関わりの深い土地であったことと、長谷寺が平安後期から中世を通じて興福寺の重要な末寺であったため、興福寺の関与があったものであろうと著者は指摘する。

 最後に、学徒・研究を志す者にとって参考となりそうな、本書全体を通じて感じる著者の研究姿勢を箇条書きにて示しておく。

 @興味深く貴重な例であるにもかかわらず、総合的・全体的な研究がなされていない分  野に対する関心。
 A取り上げる対象(寺院・地域・諸尊)の詳しい説明。
 B詳細な研究史の整理と紹介。
 C巨視的な視点を持ち、時代の推移を丹念に追う。

 以上、拙い紹介文によって、著者の一貫した研究姿勢が読者にどれだけ伝わったか心もとないところではあるが、それは本書を手にすることによって読者一人一人が感じ取ってくれると幸いである。「論文とは生きざまが出るものだ」と聞いたことがある。各読者に本書を通じて著者の生きざまに触れてもらいたいと、切に思う次第である。


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