田中 智彦著『聖地を巡る人と道』
掲載誌:山岳修験34(2004.11)
評者:岩鼻 通明


 本書は、二〇〇二年十二月に、急性白血病のため急逝した著者の遺稿集である。評者自身が、本論文集刊行会に名を連ねてはいるものの、実質的にはほとんど関われなかったことをおわびして、本書を以下で紹介させていただきたい。

 まず、本書の構成をみると、大きく三部からなり、第1編 西国巡礼路の復元、第2編 地域的巡礼地、第3編 四国遍路と近世の参詣、に加えて、序章 巡礼の成立と展開、終章 日本における諸巡礼の発達、が巻頭と巻末に置かれている。

 さらに、著者が事務局を運営してきた巡礼研究会代表の日野西眞定氏による序文と、巻末には、恩師の田中眞吾氏の追悼文、夫人である田中一美氏のあとがき、著者の履歴・業績一覧、北川央氏の本書刊行の経緯が、付されている。

 さて、本書の第1編には北川央氏の、第2編には小嶋博巳氏の、第3編には小野寺淳氏の、的を射た解説が掲載されているので、以下では主として序章および終章を中心に、著者の見解に対するコメントを加えてみたい。

 序章の「巡礼の成立と展開」の初出は、二〇〇一年に刊行された『日本の宗教文化 上』に寄稿されたものである。内容は、1 巡礼の分類と形式、2 西国巡礼の成立と発展、3 近世における巡礼の盛況、4 近世の巡礼路、5 巡礼記録にみる巡礼の実態、からなり、著者の巡礼研究の全体像をコンパクトにまとめたものとなっている。とりわけ、道中日記などから、巡礼者の経路を歴史地理学的に分析した視点に、著者の調査研究の基本的な姿勢を感じさせる。

 この序章で、評者の気にかかった点は、巡礼者数を論じた部分である。たとえば、熊川宿の『御用日記』の引用で、社寺参詣者を「伊勢参宮者なども含み実質は西国巡礼者だけではないが、三分の一を巡礼者と仮定すると」と記されているが、遠距離からの社寺参詣者と西国巡礼者の区別、とりわけ伊勢参宮者の多くは、参宮後に西国巡礼を行うのが通例であることから、このような巡礼者数の論議に、どれだけの積極的な意味があるのか、いささか疑問に感じた。

 巡礼が、近世後期にかけて、物見遊山的に変質し、経路が大きく変化していく過程を、どのように把握すべきであるのかを、今となっては、著者と徹底的に議論を交わしておくべきだったと後悔してもはじまらないのではあるが、基本的経路に発展的経路を加えた、さらに次の段階を想定することもできたのではなかろうか。近世後期の遠距離参詣と巡礼との関係を整理してみることで、新しい段階へ研究を進展させることが可能になるであろう。幸い、若手の後進によって、京都の町中での事例にもとづいた実証が試みられている(高橋陽一「多様化する近世の旅−道中記にみる東北人の上方旅行」歴史九七、二〇〇一年九月)。
 続く、第1編 西国巡礼路の復元は、著者の博士論文を学会誌に投稿した論文が中心となっている。関東出身の著者が、関西の大学で博士論文をまとめるにあたって、西国巡礼をテーマに選んだのは、ごく自然な流れであったといえよう。ちなみに、本書には残念ながら収録されてはいないが、著者の埼玉大学での修士論文は、秩父巡礼を扱ったものであり、地元での入念なフィールドワークに依拠した内容であった。

 さて、一九八〇年代半ばにおいて、課程博士の学位を取得することは、けっして今日ほどたやすいことではなかった。巻末の恩師の田中眞吾氏の追悼文にも、その経緯が触れられているが、著者は、たいへんな苦労をしながら、博士論文をまとめ、その成果を一九八〇年代後半に、続々と学会誌に発表していったのである。それらの論文は、実証的な歴史地理学の立場による巡礼路研究の新視点として、地理学界のみならず、日本史および民俗学界においても高く評価された。

 ところで、著者と評者の出会いが、いつのことだったのか、今となっては正確に思い出すことはできないが、一九八〇年代のはじめであったことはまちがいない。そして、当時、京大文学部地理学教室の歴史地理学専攻の院生を中心にはじめた葛川絵図研究会が、視野を広げるために、関西の歴史地理学専攻の院生に参加を呼びかけて、研究会活動を拡大していった中で、著者も、その有力メンバーとして、現地調査に積極的に参加し、我々は、その研究会活動の成果を古今書院発行の月刊誌『地理』に、「絵図を読む」と題して連載したが、その四回目となる「縁起と絵図と」と題する報告を、著者と評者の連名で掲載したことは、懐かしい思い出である。連名とはいいながら、執筆担当を分担したのであるが(「領域図と葛川縁起」および「参詣絵図と葛川参籠」の章が著者の執筆と記憶する)、ここにも著者の行動的な性格が反映していたのかもしれない。

 当時の葛川絵図研究会は、葛川絵図の現地調査に加えて、参加者各自が、自らの研究課題と関連する絵図研究を毎月の例会で報告するという活動を行っていたが、第3編 四国遍路と近世の参詣、の第8章「『四国遍礼絵図』と『四国辺路道指南』」と題した論文は、この研究会活動の過程で、生み出されたものとして位置づけられる。

 それに加えて、著者自身が、ほとんど文章を残していないことは残念であるが、一九八〇年代後半の葛川絵図研究会の調査活動として、著者の恩師の故戸田芳實氏をリーダーに迎えて、比叡山や白山の参詣路の現地調査を重ねたことを思い出す。白山の主峰である御前峰の山頂直下に、開山伝承と関わる「転法輪の岩屋」と称される洞窟が存在するが、急崖にはばまれて、我々は接近することができなかったのであったが、著者は単独で急崖をよじ登って、この岩屋に到達し、唯一の写真撮影に成功したことは、彼の並外れた行動力を物語るエピソードであった。

 本書の内容に話を戻すと、第3編 四国遍路と近世の参詣、の第9章「道中日記にみる金毘羅参詣経路」は、一九九六年度末に刊行された科研費報告書「近世社寺参詣道中日記にみる渡船・航路の利用」の成果を活用したものであろう。彼から、この報告書をもらった時に、当時、教養部改組にともなう多忙な日々で、研究を進める余裕のなかった評者は、「置いて行かれた・・・」と実感したものだった。この研究は、道中日記から徹底的に水上交通利用を拾い出して現地調査を行ったものであり、実は、水上交通利用の有無が、西日本と東日本の道中日記を比較した際の大きな相違点としてあげられる。著者自身の研究の展開の中で、この差異が十分に論議されないままに終わったのは残念ではあるが、彼の先見性は高く評価されるべきであろう。

 終章 日本における諸巡礼の発達は、著者の没後に刊行された論文で、日文研の共同研究の報告書である『聖なるものの形と場』に収録された。この終章から、著者の最終的な到達点を知ることができる。とりわけ、巡礼地の簡略化、巡礼地の外延的拡大、巡礼地の内部的発展、といった巡礼地の歴史的変化を空間的に理解しようとした試みは、著者の歴史地理学的立場を雄弁に物語るものといえよう。巡礼をベースとして、変化をとげてゆく社寺参詣の全体像に迫ろうとした著者の研究の集大成として提示した終章は、二十一世紀の巡礼研究のターニングポイントとなろう。

 著者と生年月日が一ヵ月も違わない評者にとって、著者は学会や研究会活動を共に行ってきた研究上の同志であり、周囲からみれば、ライバルであったのかもしれない。研究の方向を大きく転換しつつある評者にとって、著者のやり残した仕事を継承する余力には乏しいが、この紹介が、著者に続く後進にとっての道しるべの一端となれば幸いに思う。

 また、思い返せば、著者と評者が、最もよく顔を合わせた学会は、おそらくは、この日本山岳修験学会であったように感じられる。本誌の編集委員を務めた号に、本書の紹介を記すことができたことを、著者へのせめてもの供養とさせていただきたい。


  
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