八田 達男著『霊験寺院と神仏習合−古代寺院の中世的展開−』
掲載誌:日本宗教文化史研究8-2(2004.11)
評者:下間 一頼


 古代仏教の中世的展開を考えることは学界の重大な課題といえる。古代から中世にかけて、多くの寺院が社会経済・制度の変化に伴い衰退していく例を私たちは知っている。このような状況の中で、いくつかの古代寺院がその廃滅を逃れ、転換期を乗り切っていくのにはどのような方策がとられたのであろうか。

 この度、八田達男氏(本会委員)の『霊験寺院と神仏習合−古代寺院の中世的展開−』<御影史学研究会歴史学叢書3>と題する一書が刊行された。古代から中世・近世にかけて、南山城地域を中心に幅広い視野で研究を続けてこられた八田氏の待望の論文集である。

 それでは早速、本文の目次(省略)を示して内容を紹介していこう。

 本書は、古代寺院が時代の転換期にみせる信仰面の特徴として、その書名が示すように「霊験寺院への変容」「神仏習合」を取り上げる。

 確かに、日本人の信仰を考えた場合、一方では壇家制度、「家」の宗教、自宗派の仏教が、特に葬式と結びつく形で、その特色として挙げられよう。他方で、個人の願望を叶える、特徴ある尊像を有した寺院への信仰も見逃すことができない。中近世から現代を通じて、未だに参詣者の心を堅く掴むものがある。さらにそれらの仏が既成の在俗神と融合し、混然とした信仰形態にあることも、日本仏教を考える上での大きな問題でもある。言うまでもないが、本書はこの後者の問題に真摯に取り組まれた成果である。

 古代仏教の中世的展開を考える場合、朝廷や幕府といった権門に対する寺社の対応、および、その経済的基盤を追究することが昨今の最もポピュラーな方法でもある。それとは別に、高僧の思想・行動から中世仏教(日本仏教)を捉える研究には膨大な蓄積がある。そうした傾向と異なり、言い換えれば、「顕密体制論」や「仏教思想史研究」とも違う新たな、それでいてオーソドックスな中世仏教の研究方法がここで示されたといって良いのではないか。

 それでは、本書の構成に沿った内容紹介に移ろう。

 第一章では、尊像(とくに観音像)の特別の霊験を寺院関係者が喧伝し、不特定多数の信仰を得ることで、古代寺院が霊験寺院へと変貌を遂げていく様を五篇の論文で考察する。

 第一節では長谷観音をとりあげる。特別の霊験として全国的に多数の信者を集める長谷観音なのだが、その霊験化の背景、寺院活動の変化・勧進に注目し、尊像の変容にも言及する。言い換えると、像容の変化する過程を探ることで長谷観音に関わる人々の宗教活動や信仰のあり方を解明していく方法ともいえる。像容を基に信仰の様相を解明することは容易なことではなかろう。しかし、その都度再造される尊像の変化を史料から丹念に探ることで、そこに集まる人々の信仰(思い)を掴み取ることに努めている。とくに、観音像に錫杖が持たされるのは、嘉保元年炎上後の復興時期に「勧進聖によって復興されたことを象徴するためであるとともに、その信仰が高揚していた地蔵菩薩の功徳を併せ持つことを表現するためであった」との考察は興味深い。

 第二節では、長谷観音信仰の初期の地域的展開である近長谷寺を取り上げ、第一節で明かされた長谷観音信仰がどのように拡がりをみせるのかを探る。資財帳の分析、「近」長谷寺の名の持つ意味など興味深い考察が続くが、とくに注目したいのは近長谷寺と水銀の関係である。近長谷寺に長谷観音信仰がもたらされた原因を「金にまつわる利益が期待される存在である長谷観音と同等の十一面観音を奉祀し、水銀から得られる利益を期待した」ことに求める。

 第三節は南円堂の不空羂索観音について考察する。なぜ、興福寺の中でも南円堂だけが民間の信仰を集めるのか。今一つマイナーな不空羂索が南円堂に限って多くの信仰を得るのはどうしてか。反対に、なぜ一般の羂索信仰はそれはど振るわないのか。この込み入った問題を藤原氏と春日神から論じることで不空羂索信仰の特性を解明する。藤原一族の南円堂に対する信仰は、忠実が氏長者の時期にピークに達する。しかし、藤原氏の守本尊として非常に閉鎖的・独占的に礼拝されたことを史料上から確証し、その結果、他の人々には羂索信仰が浸透しにくかったと結論付ける。また、「南円堂観音信仰が基盤となって春日一宮の本地仏に不空羂索観音があてられるようになった」との指摘は今でこそ学界の常識と思われるが、神仏習合の反映と単純に捉えられていた従来の説に大きく修正をせまるものでもある。

 第四節は泉橋の「架橋」を通して、古代寺院の霊験化と西大寺流の社会事業との関わりを論じる。十一面観音、地蔵菩薩など、泉橋をめぐる仏像の像容を多くの周辺地域のものと比較・対象させることにより、その特色を導き出す著者の手法は美術史学者からの評価も高い。泉橋の造仏は、橋の安穏を基調とする平安前期の造仏に平安後期に隆盛する地蔵信仰、さらに西大寺流の造仏が折り重なった特徴的なものであることを論じる。また、叡尊個人には格別な地蔵信仰は認められないが、ここでの関係は、西大寺流を考慮する際の視点と成り得ることも指摘する。

 第五節は「南山城蟹満寺にみる古代寺院の歴史的展開」と「蟹満寺観音菩薩坐像について」の二篇をまとめたものであり、論点も多岐にわたる。前半は縁起の成立事情について考察。数多い先行研究を見直し、論点を整理する。そして、この縁起の成立と浸透に伴い、観音像が本尊として、白鳳時代創建以来の本尊であった釈迦如来像と交換され安置されたと推察する。この論は著者もいうように問題も多いが、蟹満寺をめぐる様々な問題を国文学や美術史、考古学の成果までをも幅広く取り入れ整理したことが特長でもあり、その意味では膨大な蟹満寺研究をまとめた到達点的成果といえよう。

 続いて第二章では神仏習合の実例をとりあげる。第一章との繋がりでいえば、観音以外でとくに霊験が喧伝された蔵王権現、牛頭天王、弁才天がその題材となる。

 第一節では、その題名通り、蔵王権現信仰が各地にどのような形で伝播していくのかを考える。本地垂迹とはいうものの、蔵王権現の本地仏は釈迦、弥勒、千手観音とそれぞれで異なり一様ではない。この変幻自在の様が蔵王権現の特色であるといえばそれまでだが、本地仏伝承を通して金峯山と諸寺院との結びつきを考察する。とくに、先行研究の少ない神童寺についてまとまった論及がなされているのが魅力である。

 第二節では牛頭天王信仰について考察する。この問題を考える場合、勧請、すなわち、どこからそれが京都にもたらされたのかが従来より多彩に論議されてきた。ここでも研究史を検討した結果、播磨の広峯社からの勧請と考え、当初は南都僧の手によって各地に祀られたと指摘。その後、京都の祇園社が延暦寺の傘下に入り、今度は京都の祇園社から各地へ勧請がなされるようになり、広まりをみせることになったと述べる。

 第三節では京都府山城町の狛弁才天を考察する。狛弁才天を福神霊場の一例と捉え、弁才天信仰の特質とその地域的な展開を考える信仰史なのだが、山城国の国人である狛氏の動向が詳しく述べられる。興福寺の寺領支配との関わり、山城国一揆前後の状況など、国人衆の活動を考える上で非常に興味深い論及がなされ、いわゆる宗教史の枠に収まりきらない広がりをもった論が展開される。

 以上、内容の要旨に若干コメントを付して紹介してみた。著者自身、まとまりがないものを一つにまとめたと謙遜されるが、寺院史研究に取り組む際のあらゆる指針が盛り込まれているのではないか。註を見てもわかるのだが、専攻にとらわれず、あらゆる成果を取り入れていく柔軟な姿勢がこの幅広いスタンスを形成しているのでなかろうか、と失礼ながら感じた次第である。

 そのほか、付論、補論については紙数の都合で割愛させていただいた。要旨に対しては誤読もあれば、不用意なコメントで本書の真価を落としていることがあるかも知れないが、それ以上にこの機会を与えて下さった著者に感謝したいと思う。

 今後、多くの方々が本書を手になさることを、さらに、これをもとに多くの議論が生まれることを期待したい。
(龍谷大学非常勤講師)


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