福江 充著『近世立山信仰の展開−加賀藩芦峅寺衆徒の檀那場形成と配札−』
掲載誌:絵解き研究18(2004.3)
評者:高達 奈緒美


 平成十年四月に刊行された同氏の『立山信仰と立山曼荼羅−芦峅寺衆徒の勧進活動−』(日本宗教民俗学叢書4、岩田書院)の続編で、構成は以下のとおりである。

(目次省略)

 前著が「立山曼荼羅」を中心とするものであったのに対して、本書は、書名と各章題からも明らかなように、立山芦峅寺衆徒の廻檀配札活動の実態を探ることを主題としている。

 江戸時代、加賀藩が立山山中の宗教的諸権利を岩峅寺に独占的に認めたため、芦峅寺衆徒が、他国の檀那場を巡って布教・配札をするという活動を主としていたことは、周知のとおりである。芦峅寺側の立山信仰を考えるうえで、その具体的な活動実態の解明は欠かせぬものと言える。しかし、福江氏の前著および本書に収められた一連の論考が発表されるまでは、その問題に関する実証的な研究は、極めてわずかなものしかなかった。福江氏は、芦峅寺衆徒の廻檀配札活動の具体像を次々と明らかにし、この分野の研究を飛躍的に進展させてきたのである。

 本書で取られている主な手法は、前著第九章「近世幕末期の江戸における立山信仰−−越中立山山麓芦峅寺衆徒の江戸の檀那場での廻檀配札活動−−」・第十章「立山講社の活動−−近代化のなかでの模索−−」同様、檀那帳や廻檀日記帳を一冊ずつ丁寧に分析するというものである。これらの帳面類は、一冊の記載分量が長大に及ぶ場合が少なからずあり、また、文字が解読しにくい場合もある。各宿坊家の帳面類の分析が進んでこなかった理由としては、所在をつかむことから始まる利用のしにくさといった側面があったことも、否定できないように思える。福江氏が勤務する富山県[立山博物館](芦峅寺に所在、平成三年開館)の活動のなかで、立山信仰に関する史資料の所在調査や収集が格段と進められ、そのことが本書が生まれるきっかけともなったと言えよう。しかし、帳面類を目にすることができたとしても、解読作業は非常に根気を要するものである。だが、地道なその作業を通してしか、廻檀配札活動の具体像は把握できない。福江氏は、実に見事にそれを成し遂げている。帳面類の記載内容はデータベース表として一覧しやすい形で示され(ただし、若干字が小さすぎるところがある)、併せて注目すべき記事や関連史料の翻刻が掲げられる。そして、それらに対して緻密な分析が加えられている。

 第一章では、大都市(江戸)、農・山・漁村(三河国)、加賀藩領国内(能登国)、それぞれにおける廻檀配札活動と檀那場の実態が検討され、地域的な特徴・相違点が浮き彫りにされる。それによれば、江戸の檀那場では信徒数はあまり多くはないものの、比較的裕福な階層と師檀関係を結んでおり、数軒の定宿となる信徒宅を拠点に、放射線状に出入りを繰り返すという廻檀経路がとられた。一方、農・山・漁村では、各村々の定宿となる庄屋宅を一筆書きのように順々に廻っていき、村内での護符等の頒布は、庄屋に委ねられていたという。特に絵解きとの関連で興味深いのは、衆徒の才覚や個性によって勧進方法に差違があり、仏前回向・諸祈祷・絵解きなどを主体とする「御祈祷主体型」と、護符や売薬品の頒布を中心とする「護符頒布主体型」とがあったとする指摘である。これからすると、芦峅寺衆徒の檀那場巡りと「立山曼荼羅」の絵解きがイコールであるかのように考えるのは、短絡的ということになろう。ちなみに、前者の型が導き出される根拠となっているのは、宝泉坊の泰音が記した元治二年の江戸廻檀日記帳で、江戸御府内や武蔵国各地を廻檀した泰音は、信徒宅に招かれて講を催し、「御絵図弘通」を行なっていた。

 第二章は、芦峅寺宿坊家の檀那場に関する諸論考のなかで、しばしば取り上げられてきた尾張国の事例について。当国では、福泉坊と日光坊が互いのテリトリーが入り組まないようにしつつ、檀家という一軒一軒の「点」が密集してほどよい規模の「面」となるかたちの、廻檀配札に効率のよい「良質の檀那場」が形成されていたことが指摘される。坂木家本「立山曼荼羅」は、もと福泉坊所蔵であったと伝えられており、同坊が師檀関係を結んだ信徒らの名前が軸裏に記されている。また坪井家本「立山曼荼羅」は、日光坊の檀那場内の信徒宅に残されたものである。

 尾張国の「面」的な檀那場に対して、第三章で扱われる信濃国の場合は、各村に数軒ずつ点在する檀家を衆徒が移動していくことによって結ばれる、「線」や「筋」のかたちで檀那場が形成されていたとされる。これは、立山信仰研究において、檀那場を「面」的にだけ捉えてきた従来の見方に、一石を投ずる分析結果である。

 第四章で取り上げられる房総半島の場合も、第一章の農・山・漁村の事例同様、衆徒は各村の檀家を一軒ずつ訪れているわけではなく、護符等の頒布は名主や組頭に委ねられ、衆徒は村々を一筆書きのように移動していたという。本章では、檀那場地域の宗教勢力についても検討されている。文政期から天保期にかけて芦峅寺に定住した高野山学侶龍淵の影響によって、天台宗でありながらも真言宗的要素を多分に含むこととなった芦峅寺の立山信仰を担う衆徒達が、天台宗・真言宗系の寺院の勢力が強いところで、檀那場を形成・維持していたとの指摘が興味深い。

 第五章では、年代の判明しているほぼすべての檀那帳・廻檀日記帳が江戸時代後期以降の成立であるなか、非常に貴重なものとなる、江戸・武蔵・安房についての記載を持つ江戸時代中期の檀那帳(旧蔵宿坊家は不明、宝泉坊か)が紹介・分析される。さらに、続く第六章では、江戸時代後期の江戸の檀那場が対象とされている。両章によれば、江戸時代中期には、後期ほど廻檀配札の商業活動的な性格は強くはなく、江戸においては、当初は商人・職人・新吉原関係者を主なターゲットとしていたのが、後期になると、幕臣や藩士、大名などとも師檀関係を結ぶようになっていくという。第六章の、宝泉坊泰音が老中をつとめた松平乗全と身分差を超えた親密な関係を築いていたというくだりは、ともすれば無個性化して思い描いてしまいがちな衆徒一人一人が、それぞれの才覚・個性によって活動していたことを、改めて知らしめてくれる。なお、宝泉坊本「立山曼荼羅」は、乗全が自ら書写し寄進したものである。

 第七章は、宝泉坊泰音の勧めに応じて江戸の信徒たちが寄進した、六地蔵石像の検討。

 さて、ここまで数度にわたって名前を出してきた宝泉坊は、江戸の女性を対象として、血盆経唱導を積極的に行なっていた。第八章では、宝泉坊がその唱導に用いた『血盆経の由来』が翻刻され、さらに『立山血池地獄血盆経納経御方記帳(控)』が紹介・分析されている。この帳面には、宝泉坊と師檀関係を結んでいない人々の名前も多数見られ、血盆経唱導が、師檀関係を超えて、さまざまな身分の女性に向けて行なわれていたことが了解できる。

 第九章は、経済的な事情から、近世後期に廻檀配札活動を行なえなくなった宿坊家に着目するとともに、活動によって得られた収益の行方−−そのほとんどは、半強制的に加賀藩の寺社奉行所に没収されていた−−が論じられている。

 第十章は、幕末期に起きた芦峅寺宿坊家同士の檀那場を巡る争いについてのものである。布橋灌頂会を含む、年間数十回にも及ぶ〔うば〕堂の年中行事を執り仕切る別当職は経済的な負担も大きく、輪番制でその役が廻ってきた宿坊家が、芦峅寺一山の規約違反であることを承知しながらも、他の宿坊家の檀那場領域を侵犯したのであった。布橋灌頂会が、文政期を境にイベント性の高い大がかりの法会となったことは、前著第三章「「芦峅寺文書」に見る布橋と布橋灌頂会」において論証されている。これは、さまざまな要因によって生じた変化であるが、一つには、参詣者のさらなる増加を期すという目論見があったであろう。しかし、そうした動向が、かえって宿坊家の経済状況を圧迫するという事態をも生んだということになろう。

 第十一章は、加賀藩領国内の檀那場に関する論考。藩領国外の場合とは異なり、何年かに一度行なわれた籤引きで割当地が決められたこともあって、檀那場はほとんど形成されなかった。この事実の背景としては、岩峅寺宿坊家が藩領国内で廻檀配札活動を行なっていたことが念頭に浮かぶが、実際には、岩峅寺側も同地でのその活動にさほど積極的ではなかったという。では、そうであるならば何故であったのか−−この問いに対しては、「結語」において、芦峅寺衆徒の藩領国外の廻檀配札活動に期待された「外貨獲得」という加賀藩の意図の作用が、検討課題として示されている。

 本書で対象とされる時代は、第五章以外は、主に江戸時代後期以降である。檀那場の発生や江戸初期の廻檀配札の実態などは依然不明なわけだが、これは史料的な制約によることである。だが、本書で扱われている史料のなかには新出のものが多く、まだこれから新史料が発掘される可能性もあろう。福江氏自身が実態解明を期しておられる、布教を受けた側の問題とともに、今後に期待したい。さらに勝手な贅沢を言わせて頂くならば、泰音に関わる史料の全文翻刻を読んでみたいところである。

 最後に、極めて個人的な感想を記させて頂く。

 本誌第十六号の前著の紹介(高達執筆)でも触れたように、富山県[立山博物館]では、平成十三年九月二十九日から十一月四日まで、開館十周年記念展「地獄遊覧−−地獄草紙から立山曼荼羅まで−−」が開催された(福江氏担当)。この記念展の準備・催行と図録作成に平行して、新稿四章(序章・第二章・第八章・第十一章)を含み、前著を上回るボリュームを持つ本書を編む作業が進められたと伺っている。福江氏の精力的な活動に、驚きを禁じえない。むろん、ひとり福江氏と立山の場合に限ったことではないのだが、氏の研究成果に触れるたび、筆者は、「人」と「場所」との幸運な出会いに、ある種の感銘を覚えるのである。
(こうだて・なおみ 東洋大学非常勤講師)


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