田中 智彦著『聖地を巡る人と道』
掲載誌:交通史研究55(2004.9)
評者:増田 廣實


 著者田中智彦氏は、本会にあって委員・監事として会の運営と発展のためご尽力いただいたが、二〇〇二年十二月急逝された。心から哀悼の意を捧げる。

 その年の九月二十一・二十二日大阪の例会・巡見、翌十月二十六・二十七日の岐阜での例会・巡見でご一緒した。特に十月には、氏の例会報告「旅日記に見る飛騨・美濃」を拝聴し、中山道垂井宿・関が原宿を一緒に巡見した。その途上、昼にはにこやかに「愛妻弁当」を開いた氏と談笑し、普段と変わらないお元気な姿に接していただけに、一入無常迅速の思いを深くする。いまだ若くして、研究途上に逝った氏の無念を思い同情に耐えない。

 またこの場を借りて、田中氏の遺志を慮って、本書を編集出版してくださった関係者各位には深甚なる敬意を表したい。

  (一)
 氏は、巡礼研究に新天地を開いてきたことは多く知られる所であるが、その没後氏の業績を惜しむ研究者たちが集い、編集刊行されたのが本書である。その刊行については、本書巻末に付された「本書刊行の経緯」に詳しいが、氏は生前一美夫人の勧めもあって、近い将来自ら著作を一書にまとめたいとの意思を温めていたとのことであった。本書は、その点氏の遺志を果たし、聊かその無念を慰めるものであろう。
 
 本書の構成を知るため先ず目次を掲げよう。(省略)

 本書はこの目次を見て判るように、序章と三篇一一章と終章からなり、全体への序文と氏への追悼、履歴及び業績一覧などを加え構成されている。

 本書の構成は編集委員会の手によるものであるが、前後に序・終章を据え、本論は 第一編西国巡礼路の復元 第二編地域的巡礼地 第三編四国遍路と近世の参詣 の三編をもってなされている。そして、ここに集録された諸論文の刊行年次を見ると、八六年五月(第五章)から〇三年三月(終章)に至り、三編については、第一編は八七年から八九年までに集中し、ほぼ時系列順に並んでいるが、第二編は八六年から〇二年、第三編は八七年から〇二年と広がり、配列も時系列を追ってはいない。

 序章は表題通り、巡礼の成立と展開について日本での巡礼の特質とその発展について明らかにしている。平安末以来どのような発展の道をたどったかにつき、〇一年段階での研究蓄積に立って書かれたもので、概説的一篇として最もここにふさわしい。また終章は表題の示すように、日本における諸巡礼の発達を論じ、没後〇三年になって刊行されたものである。ここでは、巡礼研究の盛行する中で巡礼の全体像が遠退いてしまうという危機感から書かれた力作であり、多くの点を明確にし、諸外国での巡礼との比較検討の可能性とその必要性を提言している。将に氏の研究の集大成の感があり、終章に据える意図をもって書いた一篇とも言えるほどである。

 次に本編に当る三編について見ると、この構成を通して、編集委員会が田中氏の研究の道程をどのように捉え、評価して編集に当たったかが窺い知れる。すなはち田中氏の研究の原点は、一編に掲げた八〇年代後半に相次いで発表された西国巡礼路復元の諸論文であり、これを基礎としてそこから派生し発展した成果が、二編の地域的巡礼地、三編の四国遍路と近世の参詣などの諸論文であったと、編集委員会は考えたと理解できる。

 それゆえに編集に際しては、第一編に「西国巡礼路の復元」をおき、第二編には「地域的巡礼地」として、最初に巡礼路復元の中で八六年に書いた「近畿地方における地域的巡礼地」(第五章)をおき、そのデータベースに関する基礎研究を掲げた。そして第三編では八七年「四国遍路絵図と弘法大師図像」に始まり、これを発展させた八九年「『四国遍礼絵図』と『四国辺路道指南』」(第八章)を最初として、西国巡礼に限らず四国遍路や近世寺社参詣全般に関する研究を集録したのであろう。

 確かに氏の研究の発展は、折りあるごとに聞いたり読ませてもらった論文や本書の業績目録等から押してそのようであった。田中氏自身が意図した編集方針も、きっとこのようであったろうと考えられ、改めて編集委員各位の労苦を多とする所である。

 これら三編には、第一編北川央・第二編小嶋博巳・第三編小野寺淳各氏の解説が付され、収録された諸論文の研究史的な意義付け等に触れ読む者の便宜を図っている。

  (二)
 氏の研究の出発点であり、基礎ともなったこの「巡礼路」の復元は、「道中記」・「紀行文」などの収集と読み込みを徹底的に行い、地理学者としてその巡礼地と巡礼路を踏査して、当時の巡礼者(旅人)の見聞を追体験するという研究方法が取られた。これにより、文献上の知見のみでは決して得られない多くの成果を得て、これを論文に盛り込み、厚みと説得力のある優れた業績の数々を生み出していった。

 しかも東京出身の氏は、関西にあってはある種のハンデを負っていただろうが、これに果敢に立ち向かい、東北・関東などの「東国」からの巡礼者の「道中記」・「紀行文」を史料として、「東国人」の視点から「西国」の巡礼路の復元に一貫して努めた。ともすれば地域に住む人びとにとっては、当然のこととして見落としやすい事実を、他地域の人の目と記録をもって解明を図った。

 しかし、研究の進展していくにつれ、この「東国」からの視点は「西国」からの視点を併せ持つようになって行き、近畿・近国から地域内の寺社参詣の研究へと発展していった。その始めは八六年の「近畿地方における地域的巡礼地」(第五章)からであったが、九三年「近世末、大坂近在の参詣遊山地」(第一一章)、九四年「近畿地方における地域的巡礼地」(第五章)へと次第に本格化していった。そしてついに〇二年「道中日記に見る畿内・近国からの社寺参詣」をもって、従来からの研究の立ち遅れを補い、自身の新しい視点を確立していった。

 また氏の研究にあってもう一つ重要な点は地理学者として視角史料である「絵図」類を重視し、これを積極的に活用したことであった。そのことは、西国巡礼路の復元に際しては、「巡礼案内記」や「巡礼絵図」に先ず当り、経路確認を行っていることにも示され、また本書に多くの図や表・写真などが有効に多用されていることからも言える。

 絵図類を史料とする論文の早くは、八七年「四国遍路絵図と弘法大師図像」に始まり、これを発展させた八九年「『四国遍礼絵図』と『四国辺路道指南』」(第八章)では、道中絵図と道中案内記とを一体化して利用する方向を全面に打ち出し、九三年「近世末、大坂近在の参詣遊山地」では、五枚の一枚刷りの案内類を史料にして、都市近郊の日帰り参詣遊山地について多くの事を明らかにしている。

  (三)
 田中氏の主張するように、巡礼とは「巡礼地」と「巡礼者」とその両者を結ぶ「巡礼路」の主要素があり、それぞれが密接に関連して成立するものとすれば、それは「旅」の一類型に他ならない。特に近世の旅の多くが、「寺社参詣」のための旅であり、それを直接的目的としない旅であっても、芭蕉の旅の例を引くまでもなく、その旅の路次寺社参詣することが多い。このような状況が、識字率の高まりとともに多くの「道中記」・「紀行文」の類を残すこととなり、それを利用した研究が八〇年代から進められてきた。

 このような研究動向の中にあって自らもその方法論に立ち、その先端を走ってきた氏にとって、〇二年「道中日記に見る畿内・近国からの社寺参詣」の一篇は、先にも述べたように従来の「東国」を中心とする研究成果を発展させ、この方法論によりながらも新しい研究方向を切り拓く大きな意義を負うものであったと考えられる。

 氏のこの「道中日記」類の畿内・近国での博捜と、意外とも思われるほど多数を発見した経験とは、これ以外の中国・四国・九州など西日本での「道中日記」類の発見の期待をもたせ、この方法による全国的規模での研究進展の期待を持たせたのではなかったかと推測させる。しかし、天は氏にその時間を与えなかった。

 この氏の業績を以後継承発展させるのは誰か?それを期待することまた切なるものがある。


                       
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