高橋 実著『助郷一揆の研究−近世農民運動史論』
掲載紙:歴史評論654(2004.10)
評者:中島 明


 本書、すなわち高橋実氏の『助郷一揆の研究』は、文化元(一八〇四)年に起きた牛久助郷一揆の舞台となった村々農民の意識、並びに彼らの行動の特質は何か、という分析から始まっている。そしてこの分析から生まれた成果を基底に、近世の中期から後期、それに続く幕末・維新期にいたるこの地域の農民と農村が、移り行く社会情勢の中で何をどのように認識し、対応し、また行動していったかについて、史料を提示しながら具体的に検討を加えている。その中で著者は、百姓一揆について注目すべき諸問題を提起している。

 本書の構成は、以下の通りである。(省略)

 以下、各章別の要約とともに、史実に裏付けられた優れた論理の展開を紹介する。

 序章において著者は、近世農村研究史の歩みを批判的に振り返りながら、自身の研究視角と方法論を提唱している。その中で著者は、まず自身の立場は「あらゆる歴史の基盤、バックボーンには『天下国家』の政治・社会経済史が位置づいていなくてはならない」(一四頁)と主張する。次いで著者は、村方文書を基礎におき、幅広い視野で史料と対話をくり返しながら研究を進めるという態度を堅持すると宣言する。

 さらに著者は、「近世は、個性あふれる地域の時代だった」(一七頁)と規定し、それ故に多くの諸先学が試みられた社会経済史的視点に基づいて形作られた近世農村史に代わって新しい近世農村を再構築しなければならないとする。そこで著者は、史料と正面から向き合って「事実」を摘出し、それを歴史的文脈の中で理解し、解釈するという作業を行っている。

 第一章では、第二章以下で卓越した論旨を展開する伏線として、牛久助郷一揆をより鮮明に描き出す緻密な作業を展開する。その中で著者は、訴訟における農民の「したたかさ」、「巧みさ」などを個別的に考察し、常州将監新田村農民の訴状を詳細に分析する。

 第二章では、本書の中核をなす牛久助郷一揆の解明と、歴史的意義についてさまざまな論旨を展開する。ここで著者は色川氏の提唱する「原風景論」を援用しながら、一つの興味ある問題を提起している。それは文化二年正月と記名されている道標がいかなる目的で建てられたのかについて、考察し、本論の導入にすると同時に、一般的には思いもよらぬ事実を指摘する。すなわち、この道標には「かつて爆発させた一揆農民のエネルギーが静かに刻み込まれている」(七八頁)という事実を「あさや願い」の中から鮮やかに引き出している。

 このようにして一揆の発端が私たちの眼前に摘出され、農民が一揆勢として文化原へ集結していく様子が明らかになる。彼らは集結の過程で、発頭人の名前を知られることなく、多数の農民を集める手段として「無名の張り札」を高札場に掲げ、また不参加の村々には、参加を要請する廻状を回していく。

 第三章では、「牛久助郷一揆の構造」、とりわけその中で展開する一揆指導者の人間像などの明確化は、圧巻である。それは著者自身を含めた従来の業績、言い換えれば数多くの史実を援用して絶えざる推論と補強をくり返しながら一揆の実体に迫った著者の産物である。それと同時に現在でも比較的多くの人びとが唱え、かつ信奉している暴徒史観の訂正を迫る優れた論理を展開する。

 前述したように張り札や廻状などによって数多くの農民が集まったとしても、それは単なる集団に過ぎない。彼らが一つの目標に向かって統一ある行動を起こすには、彼らを指揮する「頭取」の選任が必要になる。そこで農民は「農民の共通の敵、いわゆる『悪』を肯定して、一般農民の反感を急速に増大させ集中せしめ、そして広範な農民を彼ら発頭人のまわりに結集」(一二八頁)する作業に取りかかる。

 この時点で平凡な農民の一員であった勇七、吉十郎、兵右衛門の三人が、頭取に押し立てられた。その根源は、彼らが「何方も若気ながら家柄じや、生ぬきじや、いや高い御了簡じや、あの人方の仰しやる事に間違ハない」(一三一頁)からである。従来から史料に書き残され、多くの人びとが信じている「徒百姓」ではなく、「律儀百姓」なのである。このような農民が頭取に就任した結果、農民は一団となって打ちこわしに発展し、助郷差村化を画策した人物に制裁を加えた。その後鎮圧に出動した土浦藩兵らと戦っては、無用の犠牲者を出すと判断した農民は即座に解散し、それぞれの村方に帰っている。

 次いで著者は、牛久助郷一揆の未開拓の部分に斬り込んでいく。すなわち打ちこわしへの飛躍、参加強制の論理へと検討を進めていく。そして打ちこわしの規律性と倫理性においては、多数の農民が集結した時点で一揆勢に対する指揮命令系統の確立に力を注いだ頭取が、打ちこわしの対象となった人物以外には如何なる損傷も与えない、という規律の厳しさを打ちだしていく過程を明らかにする。そしてこのような行為について「農民的規律のきびしさと、農民的精神の高さ健全さ」(一三八頁)と表現し、高い評価を与え「賊徒」と表現する従来の牛久助郷一揆観を批判し、その是正を追っている。

 第四章、「牛久助郷一揆の世界」は、一揆世界の特質を明らかにするために設けられた章である。まず「一揆の伝統と記録」を取り上げ、「一揆」という言葉が幕府によって禁句となり、そのため公的文書からその姿を消し、代わりに「一味神水」、あるいは「一味同心」という禁止令が数多く出されている事実を指摘する。同時に幕府の禁令にもかかわらず農民の間には、中世社会に見られた伝統的な一揆の作法が受け継がれている実体があることも推測している。

 そして一揆が記録化されるのは、百姓一揆が当時の人びとが慣れ親しんでいる通念では理解できないものであるとし、この理解しがたい一揆の模様を記録に残し、後代の人びとにも伝えようとする行為が生まれる。そこでこの記録を読み解き、さらにそのほかの記録と比較して、百姓一揆の類似性、あるいは法則性を引き出して百姓一揆の世界を明らかにする作業に取りかかる。

 次いで「牛久助郷一揆の装束といでたち」に進んでいるが、ここでは「何故百姓一揆の参加者は蓑笠姿となるのか」(一五八頁)というきわめて常識的な、また根源的な疑問から出発している。この指摘は、一揆研究者、あるいは百姓一揆に関心をもつ読者にとっても鋭い質問である。何故なら百姓一揆に参加した農民のいでたちは、蓑笠が当たり前と思われている傾向が強いからである。

 そこで著者は、一揆参加者のいでたちの「装束」に関する史料を深く読み込んで、具体的な検討を行っている。その結果、蓑笠姿は牛久助郷一揆、のみならず百姓一揆の参加者に共通する装束の基本であると結論づける。

 蓑笠姿については、中世史研究者からの発言、すなわち顔をかくす「異形」の姿が共通した認識であるという視点から、いでたち論を展開していく。これについて近世史研究者からの反論を紹介した後、蓑笠姿の身分的な意味、そして「経済的には困窮の表徴であった蓑笠姿を意識的に提示したもの」(一六三頁)と推測する。そして近世における一揆勢の装束が、中世以来の「異類異形」が脈々と流れていることを認めながらも、農民のいでたちについては、その時代の政治的・社会的、あるいは文化的・民俗的環境の中で、ふさわしいと考えて一揆に参加したと推定する。この点については、具体的、理論的な発展を大いに期待している。

 このような一般農民のいでたちに対し、一揆の頭取の服装はどのようであったかについて著者は、根本的には農民と同じであるとする。すなわち彼らは、それぞれ「度(土)百姓の出立」であって、「紙をもって采配をつくり」、あるいは「梵天」を振りかざしながら指揮をとっているのみである。頭取の服装は一般農民と異なっていたと言われることに対し、頭取の服装は百姓姿であり、ただ持ち物が異なっていただけとし、従来の考え方に鋭い異議を唱えている。その利点は持ち物を放棄すれば、一般農民と同じ一揆姿になり、一揆後に予想される探索の目をくらますことが出来る、という農民の知恵の産物である。

 「得物」、すなわち一揆勢が所持する道具類は、農民が日頃から使い慣れた農具を持参して戦う、これが近世百姓一揆に見られる一般的な姿である。これは農民が、相手を殺傷することの出来る得物を携行して戦うことはしないという強い自己規制をしていたからである。しかし、牛久助郷一揆の記録類を読むと、「竹槍」、あるいは「山刀」、中には「猪鹿防ぎの為めに借用の鉄砲」を持ち出したと記されている。この点について著者は、竹槍は旗や幟を立てるための竹竿であり、また指物であり、鉄砲は空砲であって、それは威嚇や意識の高揚、あるいは合図の為だったと解釈し、牛久助郷一揆においても得物と武器とは峻別されていたとする。このように一揆勢について詳細な検討を加えた上で、百姓一揆が「竹槍・蓆旗」という概念は、明治一〇年代に成立したものであって、たとえ竹槍の携行が見られたとしても、それは「竹槍・蓆旗」型一揆の前史ではないと否定する。

 第五章では、以上概括したように牛久助郷一揆分析の過程で著者が疑問に思った二、三の問題、とりわけ従来の百姓一揆の研究からは説明できない問題が多々横たわっているのを解釈するため、「百姓一揆再考」論を試みている。

 その発端は、今までの百姓一揆の認識方法が、全国的規模にわたる史料の検索によつて作り上げられたことにあるとする。多数の史料を読破して、そこから得た結果がこのようであると結論づけるのは、普遍的であり、またよく用いられる方法である。だがその反面において、一揆が起こった時代背景、あるいは地域の特性などを捨て去ってしまう可能性が多分にある。極言すれば論旨に都合のよい部分を引用し、全体像を創り出すという弊害に犯されやすい。その結果、主体者である農民の「息吹き」を感じることの出来ない、結論が提示されることになる。このような方法について著者は、真っ向から立ちはだかろうとしている。それが第五章なのである。

 本章において著者は、「牛久助郷一揆観について」(二〇五頁)、当時の人びとが一揆についてどのように考えていたかを主題に史料を通して考察する。その中で鎮圧に出動した佐倉藩役人が「事立候一揆抔と申程之儀ニも無之」と認識していることに注目し、それでは「事立候一揆」とは何かと疑問を呈した後、さらに史実を通して追求していく。その結果、「我々がこれまで認識していたほどのレベルで、当時の人々は牛久助郷一揆を見ていないし、みられてもいない」(二一二頁)とする。そして一揆に対する従来の考え方を根底から考え直す必要があると主張する。

 続いて著者は「鎮圧鉄砲使用意識について」論究する。その中で鉄砲使用原則がきわめて制限的であることを指摘した後、鎮圧側も百姓側もともに「アウンの呼吸」で、武器使用は可能な限り避ける傾向が強かったとする。結論として「従来の一揆認識を一度白紙に戻し、再検討してみる必要性は否定できない」(二三二頁)と提言する。

 著者は、牛久助郷一揆の分析を介して、特有な時代背景のもとで、また個性あふれる地域に長年にわたって住みついている農民が考えた一揆論を再構成し、画期的ともいえる結論を提示した。これについて著者は、牛久助郷一揆という限定された「史料との対話から生まれた小さな発言にすぎない」(二〇一頁)というが、従来の一揆論に再考を迫る勇気ある発言である。

 第六章は天保期における村方騒動を素材にして、さまざまな局面で対立と連合を繰り返す農民行動の特質を、足高村片山家の文書で分析したものである。さらに付論は、幕末・維新期における農民の生活と生涯を描いた成果である。この中で著者は、一人の農民の生活や意識の中身まで踏み込んで検討を加えている。

 以上記したように著者は、一揆研究について独自の接近方法をわれわれに提示している。それは歴史学の周辺科学として位置づけられる諸科学を援用し、多彩な、あるいは個性的な人間模様を描き出さなければならないとする。その手段として牛久助郷一揆を俎上に載せて、自らの研究方法を明らかにし、数多くの問題点を手際よく整理したうえで、ひとつの研究方法を提示するといった困難な作業を見事に成し遂げている。

 なお最後に希望を記すとすれば、より多くの人びとに、また評者を含む後学の者に対しても、一揆研究に積極的に参加してもらうため巻末に索引を付け、興味ある問題から研究に参加する道筋をつけて欲しかったことである。


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