菊地 仁著『近世田租法の研究』
評者・菊地松秀 掲載誌・北鹿新聞(99.10.26・28)


<江戸時代「高」は年貢であった>
石高(こくだか)とか禄高(ろくだか)、知行高(ちぎょうだか)あるいは村高(むらだか)など、江戸時代の人びとのみんながよく知っていた高(たか)とは、いったい、どんな意味なのだろうか。
広辞苑第五版は高を「@収穫・収入・知行・生産物などの、額、数量。…」、また、石高を「近世、検地によって法定された耕地の生産高。玄米の量によって表示される。村高や知行の大きさは石高で表した。…」と説明している。
この説明は、歴史上の通説または定説を簡潔にまとめたもので、歴史書を読んでみても、広辞苑とだいたい同じような事が書かれている。
しかし、近年、歴史上の定説なるものが次々と覆えされてきている。たどえば青森県三内丸山遺跡の巨大木柱発掘や、奈良県飛鳥池遺跡からの富本銭出土などは、その象徴的な出来事として、マスコミを賑わしているが、江戸時代の歴史も、最近の研究によって大幅に書きかえられるであろうと予見される。

このほど出版された『近世田租法の研究―秋田藩渋江田法の実態』(菊地仁著、東京・岩田書院発行)は、正に近世史の常識を根底から揺さぶる書として刮目(かつもく)に価する。
何しろ、現代の歴史研究者たちが、難解という理由を付けて、誰一人として満足に説明することの出来なかった、いわゆる渋江田法(しぶえでんぽう)の原典「御当国御格式検地秘伝之書」(写本)を、菊地仁氏(元大館市史編さん室嘱託)が見事に解き明かしたばかりか、多くの古文書を駆使して、渋江田法が秋田藩の現実の税法として、りっぱに機能していたことを実証して見せたのである。
私の説明は抽象的で中味が無いと読者からお叱りを受けそうなので、同氏の論文を、枝葉の部分をすべで端折って(ほんとうは、どの部分もみな重要であるが)根幹だけを要約すると、「江戸時代の用語の高(たか)とは年貢籾(ねんぐもみ)のことである」というに尽きる。従来の学説の「高は生産玄米」と、菊地仁氏の「高は年貢籾」とでは、ずいぶん話が違う。
「高」というわずか一字の持つ意味の違いが、なぜ問題になるのか。それは「高」の解釈如何によって、農民や武士の生活をはじめ藩や国の経済に至るまで、江戸時代の歴史の様相が広範囲にわたって一変してしまうからである。ひいては、明治期の歴史も大きく見直されるであろう。それ程に衝撃的な論文だが、その三五○頁にも及ぶ大著を、私がここでいちいち解説するには荷が重すぎる。
そこで、百聞は一見に如かず、次の資料をお目に掛けよう。
引用する資料は、大阪府立中之島図書館所蔵の『新編塵劫記』(享保二年=一七一七=駒込・西村伝兵衛新板)である。(中略)
以上で、江戸時代の高(年貢籾)から物成(年貢玄米)にする計算方法が理解できたと思う。(中略)

菊地仁氏の研究によれば、明治六年の地租改正条例公布にともない、秋田県は明治十年に公定収穫米総量を百十四万石余(一反平均約一石一斗七升)と決めた。これは坪刈り実績の数量を土台として、官民交渉の結果はじき出された数字で、地租金算定の元値となった。収穫米は坪刈り実績(総量は不詳)の七割に減額されたことまでははっきりしており、最終的には六割以下にまで減額されたと推定されるという。
このように、明治の収穫米とは実際の生産米ではなく、税法上の見なし生産米のことであった。そして収穫米を元値として算定された地租金を米に換算すると二十八万五千石余となって、収穫米のちょうど四分の一にあたる。これは奇しくも、江戸時代における秋田藩の年貢取り立ての原則と同じであるという。とすれば、明治のすぐ前の江戸時代の米産量も明治期のそれと変わらないであろうと考えられる。
一方、明治十年前後における統計上の秋田県産米は百万石内外(一反平均一石内外)で、公定の収穫米よりも小さい数字が計上されていた。これは、農家申告をそのまま、積算して統計数字としたからだという。いつの時代でも過少申告は世の習い、つまり、明治初期における統計上の秋田県産米は、事実とはかけ離れた架空の数字であったと言える。

ところで、これまで一般に知られている『塵劫記』の活字本は岩波文庫の『塵劫記』(大矢眞一校注、一九七七年第一刷〜)であろう。これは寛永二十年(一六四三)版の『塵劫記』を底本とし、数学史専門家の校注本として高く評価されているものだが、残念なことに「高」「斗代」など年貢関係用語についての解説には誤りがある。(中略)
この解説は―現代のほかの多くの学者と同様に―おそらく大石久敬著『地方凡例録』(寛政六年=一七九四=成立)の記事に依拠したものであろうが、大石久敬は「…昔の名残で、今でも年貢籾の納め高を石高といふ」とも述べている。このように前後矛盾しているのであるが、多くの学者は、この矛盾については全く知らん振りの頬かぶりである。
菊地仁氏は『近世田租法の研究』の中でその矛盾を指摘し、大石久敬自身が計算した作徳勘定と対比し、久敬が矛盾した記述をせざるを得なかった背景をも分析して上で、多くの古文書による収量計算、年貢計算の実例を示し、「斗代・石盛は上田一反当たりの生産米ではなく、上田一反当たりの年貢籾米である。斗代に面積を掛けたのが高である」ことを明らかにした。詳細については同書を参照されたい。

さいごに次のような研究もあることを付け加えておく。
『近世地域社会論―天草の大庄屋・地役人と百姓相続』(渡辺尚志編、一九九九年一月、岩田書院発行)
幕末期の事例ではあるが、安政五(一八五八)年八月の本戸馬場村の小作証文(木山四○八)では、「高」五斗四升四合の田地の小作米が一石と定められている。幕末期において、この田からは少なくとも地主の取り分としで小作米一石が収穫でき、それ以外に小作人の取り分があったであろうことを考えれば、実生産高は「高」の二倍をはるかに超えるものであったと推測できる。検地帳に登録された公定の「高」と実生産力との間には、これほど大きな懸隔があったのである。(比内町扇田)
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