榎本直樹著 『正一位稲荷大明神』
評者・大森恵子
掲載紙(日本民俗学216 98.11 )


 一

 二月初午になると稲荷社や稲荷祠の周囲に、「正一位○○稲荷大明神」と染められた幟が数多く立てられるのが常である。神名に「正一位」が付いていないと、祈願しても御利益が少ない稲荷神のような、印象を受ける人々も多いのが現状であろう。なぜ、大部分の稲荷神に「正一位」が付随するようになったのか、という疑問を解明するために、正面から取り組んだ成果が本書である。


 本書の冒頭において榎本氏は、神社や屋敷神の幾つかには稲荷の勧請を示す文書が伝えられていることと、これらの勧請証書にはすべて「正一位」の神階が添えられていることに注目し、稲荷勧請とは稲荷を分祀するだけではなく、それに「正一位」の神階を添付するものではないかと仮説を設定している。それに基づいて本書の論は展開されている。つまり、本書の大半は本来の「神階」ということにこだわって、論証されているのである。


 著者は、近藤喜博・宮田登・宮本袈裟雄など、先学諸氏の稲荷信仰に関する研究成果を分析した結果、これまで近世期の伏見稲荷が各地の稲荷に対して持っていた意味を、必ずしも明らかにしていないと判断し、次のような論点を明記している。伏見稲荷から授与される「正一位」の神階と稲荷の勧請は、近世期の伏見稲荷の宗教活動を究明するうえで、重要な部分を占めていると考えるに至った。関東の稲荷勧請の文書を糸口にして、近世の稲荷勧請と神階との関係、および近世の稲荷信仰の表層に生じた宗教現象を明らかにしたいと、論証する問題の定義をしている。これらの研究課題を究明する手投として、「民俗資料や近・現代に作られた資料に重きを置くことなく、むしろ近世の文書・記録を中心としながら、同時期の棟札・勧請札や神璽なども活用したい」(四頁)とある。


 まず、目次をおって本書の構成を紹介する。
(目次省略)

 

  本書の記述内容を各章ごとに分析し、論点と結論の概要を記載する。第一章では、近年の民俗調査や市町村の屋敷神調査、県や市町村の文書調査等、各地域での調査の進展に伴い、正一位稲荷勧請の文書が翻刻掲載されるようになり、これらに注目して、関東とその周辺の地域、特に埼玉県を中心に正一位稲荷の勧請証書や文書を引用して、正一位の神階の授与の形態を詳細に紹介している。勧請証書をもとにその種類と発給者を分析し、吉田家(吉田殿)神祇管領長上家や自川家(白川殿)神祇伯王殿家、伏見稲荷大社、妻恋稲荷、王子稲荷の五ヶ所から、稲荷の勧請証書が発給されていると指摘している。章末に関東とその周辺の「正一位稲荷大明神」に関する文書の一覧表が掲載されている。一七一四(正徳四)年から一九九○(平成二)年に勧請された稲荷が年代順に並べられ、「文書または稲荷の所在地」「発給者または差出書」「祭祀の格式」「宛書または勧請先・願主」「神号」「出典及調査・提供者」の各欄に分けられて、稲荷の要点が要領よく記載されている。

 この一覧表からも、吉田家が村鎮守である各地の稲荷神社に対して、明神号や私的な宗源宣旨の「正一位」の神階を授与したことが理解できる。著者は、このような宗教活動は神に神号を与えるものなので、神階授与のときに手渡す書状を、仮に「神号授与状」と称すると定義している。吉田家は神社のみに宗源宣旨を与え、神社や村組などの地域神や同族神、屋敷神などには神号授与状を与えていたとし、江戸時代中期には宗源宣旨が、埼玉県内の各村の鎮守の神社に広まっていたことを明らかにしている。


 また、表「諸神における吉田家の宗源宣旨・神号授与状と、白川家の勧請証書」をもとに、吉田家と白川家は諸神に正一位を授与するが、伏見稲荷と妻恋稲荷は稲荷の勧請時に限って「正一位」を授けたと記述する。


 なお、本章の各節には@吉田家の宗源宣旨と神号授与状A白川家の勧請証書B伏見稲荷の勧請証書C妻恋稲荷の勧請証書D明治維新後の勧請文書などが全文引用されており、稲荷信仰を研究する者にとっては、貴重な史料集の役割をも果しているとおもわれる。


 第二章においては、勧請証書の文面のほかに、証書とともに各地にもたらされた神璽などにも注目して、「正一位稲荷大明神」に関する文書の示す意味を考えている。宗源宣旨による神階の授与には、正一位の神階を帯びた幣帛の授与が付帯していたこと、宗源宣旨とともに「正一位」神階の象徴として、幣帛・神璽が神社の内陣に安置されたことを記述している。


 次に、勧請の形態が比較的明確である伏見稲荷の事例を中心に取り上げて、稲荷の勧請にあたって様々な形態が身受けられるが、基本的には神璽(四角柱または八角柱)と「正一位稲荷大明神安鎮之事」と記された勧請証書とが授与されたことを記している。神璽は木の角柱を金襴地で包んだもののようで、本来はさらにそのまわりを幣東で飾っていたと推察でき、基本的な形態上の共通点がみられること、あるいは、神璽は「京都の神社(祠官・社僧)または神祇を司る公家から授与される」(八三頁)という共通点があり、必ずしも伏見稲荷からもたらされたとはがぎらないことなどを論述している。


 章末で、近世後期には「神階の授与」の形態をとる宗源宣旨から、勧請文書へ変遷していったと述べるとともに、稲荷勧請とは、「正一位稲荷大明神」の神号を授与するとともに神璽を授与し、それを証する文書を添付することであると定義付けている。


 第三章では、@宗源宣旨の「神階」と「神階」の意義A「神階」ヘの批判と規制B『法曹後鑑』に見る私的神階C白川家の同座勧請D神階の消滅と勧請の普及E勧請にかかる費用F宗源宣旨と伏見稲荷の勧請G競合する稲荷と勧請Hその他の「神階」I神階の変遷と各テーマを設定し、それぞれ詳細な考察が行われている。特に神階から勧請への移行という点に留意しつつ、正一位の神階と正一位稲荷大明神の勧請の意義を明らかにしている。このほかに吉田家の優位が確定したェ文五(一六六五)年の「諸社禰宜神主法度」を背景に、吉田家の支配が地域に浸透していく中で、村の鎮守の権威付けも、宗源宣旨の神階を受けるという形で実現されていったとも推定している。


 なお、史料の上から見ると、原則として神階は勅許に基づくものに限られ、白川家や伏見稲荷からの勧請も本来の神階を倣って授与され、神階に似た性格と機能を持つ私的な神階であったと推論している。一方、吉田家は勧請と同じ行為を神号などの語で表現したが、これは白川家との差別化を図っていたためという。


 特に一八世紀前期に見られた宗源宣旨が、一七四一〜四四年(寛保年間)以降は激減するとともに、伏見稲荷や白川家の勧請証書が多く見られるようになる背景の一つに、経済的な面があったと記している。つまり、裕福でなければ、神階を得ることは不可能であったのである。


 一八世紀後期には稲荷勧請が権威あるものとして意識され、当時の社会において機能しうるものであったことが示されており、宗源宣旨の神階による「正一位」にかわって、伏見稲荷の勧請による「正一位」によって、権威付けが図られたと結論づけている。稲荷を祀る者にとっては、勧請証書を持つ根拠が必ずしも明確ではなく、免許・資格、あるいは由緒として機能したと考えている。

 著者は、稲荷の流行は江戸を中心に周辺地域にも及んでいき、流行神稲荷の大部分が正一位の勧請を実施した結果、正一位を占める稲荷の割合が大きくなったと考えている。伏見稲荷をはじめとする正一位は、村内の村組などの集団や同族団、さらには家や個人が受けることもできたという。いわば正一位の大衆化というべき事態が、吉田家や伏見稲荷を中心とするいくつかの私的な神階によって引き起こされ、かつては資格を必要とした正一位の称号が、遅くとも明治末年にはすべての稲荷に無条件に用いられていたことを記載している。明治時代には、正一位は完全に神階としての意味を失い、むしろ稲荷の代名詞、または名称の一部として定着していたと指摘している。


 時代が下がると正一位の称号は権威を失い、狐の位と考えられるようになり、初午行事の幟に象徴されるように、正一位神号を掲げることが習俗化していったという。


 第四章では、@伏見稲荷の稲荷勧請A神階奉授と勧請の根拠B社司と愛染寺との争論C神階奉授説の変遷D『兎園小説』の疑問E『柳庵随筆』の疑問F明治維新後の稲荷勧請の各テーマについて論述している。「正一位稲荷大明神」である伏見稲荷の祭神の写しを勧請するということで、江戸時代において伏見稲荷は、稲荷勧請の際に神階を添付したわけであるが、その場合、次の二つの問題点があったという。


 一点目は、伏見稲荷は正一位の神階奉授を実施したか否か、授与した時期の確定、その根拠は何かということ、二点目は、伏見稲荷はなぜ稲荷勧請に際して正一位の神階を添付するのか、その根拠はなにかということであると、著者は論点を明確にしている。


 一点目の疑問点に関して、社家の秦・荷田両家を筆頭として、本願所愛染寺の勧請がいつから始まったのかは明確ではないが、奉行所の調べによれば愛染寺の場合、願主からの勧請願書によって、元禄年間にその勧請が遡るとする。これが事実とすれば、ほかの社家による勧請はそれと同じか、それ以上に年代を遡る可能性が高いであろうと推定している。


 明治時代になっても伏見稲荷が分社に与える正一位稲荷の神号が、口宣や位記と紛らわしいものと捉えられていたらしく、明治維新時には国家神道の確立に向けて、江戸時代以上に厳しい神社統制が行われていた。修験道の廃止や狐下げの禁止、明神号の禁止など、神仏分離や民俗宗教への介入が著しく、慣例として行われていた稲荷勧請も禁じられた状況が記載されている。明治六年以降の教部省の判断には、稲荷勧請の解釈をめぐる伏見稲荷と教部省との攻防がうかがえ、明治政府の神社統制の中で、正一位の明確な位置付けが迫られた。しかし、強硬な神道国教化策が永く続かなかったこともあり、あえて稲荷の正一位を問題視する必要がなくなり、稲荷勧請も容認されたのであろうとする。


 第五章では、著者が「それらの資料のあり方は一様ではなく、そこに示された内容もさまざまであり、かなり雑然としたものになるであろう」(一五一頁)と予測しつつ、数多くの文書や記録・棟札・勧請札・神璽などの資料をもとに、稲荷勧請の様々な事例を報告している。と同時に、@江戸の武家屋敷の稲荷勧請A勧請の方法B勧請の代行と取次C阪阪の稲荷勧請D社祠の形態と勧請E重複した勧請F勧請の諸相と七節に分けて「稲荷勧請の諸相」をテーマに論じ、次のような結論を導いている。


 既存の社祠に稲荷神を勧請する形が一般的であり、狐をカミとして稲荷に昇華するための装置として、稲荷の祀り込みに正一位の勧請が求められたと推定している。伏見稲荷から勧請する主体は百姓や町人・寺院・神主・修験などさまざまであった。吉田家・白川家から勧請する場合、両家の支配下におかれた神主が積極的に取り次ぎをしていたとし、基本的には稲荷勧請をする主体者の身分などは限定されておらず、むしろ不特定多数を対象に開かれたものであったと考えている。願主がどこに勧請を依頼しようと基本的には自由であったため、白川家による伏見稲荷の牽制もあり得たし、伏見稲荷内部における愛染寺と祠官との対立もあり得たと記述している。


 第六章では、@狐の「正一位」A「正一位」の威光B伏見稲荷は狐の本所C藤森に集う狐D伏見稲荷と狐の飼育料E兼助稲荷の勧請と稲荷山F兼助稲荷のお位上げG勧請の仲介者H狐の官位と吉田家・白川家と九テーマを設けて、正一位の民俗的展開について記述している。稲荷勧請が普及した江戸中期から後期にかけて、狐ないし狐の霊を擬人化し、人が官位を受けるのと同じように、狐も官位を受けるものと考えられるようになったという。


 この章では、諸神とは異なる「稲荷の正一位」独自の展開を考察している。稲荷全般に共通することは、個々の稲荷がそれぞれに個性ある狐として認識されていたとし、あちこちで託宣などによって狐が意思表示をするのは、同じ稲荷という神ではなく、それぞれの祠に稲荷として祀られた個別の狐たちであったとする。本章では、特に江戸時代中期以降、これらの狐たちは伏見稲荷などの著名な稲荷のもとに序列化され、統御されていたと強調している。伏見稲荷は諸国の狐が集う「狐の本所」であったと規定し、狐を稲荷として祀る信仰と神階・神璽とが人々の間で不可分に理解されていたと指摘している。

なお、稲荷勧請の場合は一時的なものであったために、稲荷やその祭祀者の組織化や系列化には至らず、稲荷を信仰する一部の人々の観念の中では、各地の稲荷が伏見稲荷に集い、修行し、官位を授けられるというような、伏見稲荷を本所とする各地の稲荷の組織化が進められていたとする。

 続いて、兼助稲荷に関わる史料を中心に考察し、蓮華寺の僧は伏見稲荷へ出入りした宗教者の一人であり、祠官による勧請や神札を取り次ぐ一方、独自の宗教活動も展開していた状況を報告している。伏見稲荷を核とする稲荷ないし狐のネットワークが存在している、と人々が考えるようになった原因は、民間宗教者たちの宗教活動と、それを求める信者の存在があったことにほかならないと推察している。


 ちなみに、白川家が稲荷勧請と同時に「くた狐払御守」を出している例もあり、野狐除けも伏見稲荷にがぎられたものではなかったとする。江戸中期・後期以降、「正一位」を伴う勧請の普及とともに、「官位」の授与が狐を統御する装置としての意味を強く持ってくるという。その理由は、伏見稲荷は盛んに稲荷勧請をおこなうとともに野狐除けの札を出したり、憑き物の狐落としを実施し、その霊験談が民間に流布された結果、伏見稲荷は狐の本所として狐を統御する力を持っていると考えられたからである、と論を展開している。稲荷勧請と野狐除け・狐落としとは表裏一体のものとなり、狐の統御に関わる様々な修法は、伏見稲荷やそれに関わる者たちの重要な職分であったことと、稲荷勧請とともに野狐除け・狐落としなどの修法について、伏見稲荷以外の者が少なからず同様の役割を果たしていたことに留意している。


 評者はこの章に登場した「カミ」という表現と、「神」とがどのように違うのか、また、「狐

の本所」とはどのような場所を示すのが、理解できなかった。文中にこれらの語句を便用する定義、もしくは説明があれば、納得がいったと思う。

 補説では伏見稲荷と「藤森」を論点として、@伏見稲荷の呼称A藤森稲荷は伏見稲荷B藤森稲荷の由緒と位置C藤森稲荷の分霊D藤森稲荷を称する稲荷E忘れられた呼称と六節の構成で、「藤森稲荷」と称する稲荷の全てが、伏見稲荷の分社であるとはかぎらないとする仮説を述べている。「藤森」稲荷の呼称の根拠が不明である場合、本社である藤森稲荷の呼称をとったもの 国矢野荘における悪党活動やそれに対する荘民結合の展開などは、悪党研究にとってなじみ深い話題であり、荘民が警固にあたった白石城などについても漠然としたイメージを研究者それぞれが抱いていたものと思われるが、高木氏の現地調査を踏まえた景観復原には「えっ、こんな所だったのか」という驚きを禁じ得ないというのが正直なところではなかろうか。


 第三章で野伏の活動を扱った梶山論文や合戦の様相に言及した佐藤論文も、悪党や悪党活動の具体相に迫ろうとする論稿であるが、そのアプローチの仕方は文献史料の読み直しというオーソドックスな方法であった。高木論文は、この分野に新手法をとりいれたものとして注目すべきであろう。今後も悪党活動の舞台を具体的に復原する研究が蓄積されていくことが期侍されるが、これも悪党研究の新しい環境の目指すべき方向の一つではなかろうか。


 本書全体を通じて、若手の執筆者の多いことが注目される。最初にも述べたように、悪党研究は中世史の諸分野にわたるものであるが、悪党研究を通して中世史の新生面が切り拓かれることを願うとともに、我々もそれに伍して行かねばならないと思うところである。


 以上、評者の力量不足から、一部に偏した紹介に終ってしまい、本書の全貌には触れることができなかった。本書執筆者の面々及び読者のご海容を乞う次第である。


  最後に気になった点を一つ。巻末の関係文献目録に山陰加春夫氏の「『悪党』に関する基礎的考察」が挙げられ、氏の著書『中世高野山史の研究』所収とされているが、この論文は同書には採られていない。

 旨の「正一位」の神階を授与したことが理解できる。著者は、このような宗教活動は神に神号を与えるものなので、神階授与のときに手渡す書状を、仮に「神号授与状」と称すると定義している。吉田家は神社のみに宗源宣旨を与え、神社や村組などの地域神や同族神、屋敷神などには神号授与状を与えていたとし、江戸時代中期には宗源宣旨が、埼玉県内の各村の鎮守の神社に広まっていたことを明らかにしている。


 また、表「諸神における吉田家の宗源宣旨・神号授与状と、白川家の勧請証書」をもとに、吉田家と白川家は諸神に正一位を授与するが、伏見稲荷と妻恋稲荷は稲荷の勧請時に限って「正一位」を授けたと記述する。


 なお、本章の各節には@吉田家の宗源宣旨と神号授与状A白川家の勧請証書B伏見稲荷の勧請証書C妻恋稲荷の勧請証書D明治維新後の勧請文書などが全文引用されており、稲荷信仰を研究する者にとっては、貴重な史料集の役割をも果しているとおもわれる。


 第二章においては、勧請証書の文面のほかに、証書とともに各地にもたらされた神璽などにも注目して、「正一位稲荷大明神」に関する文書の示す意味を考えている。宗源宣旨による神階の授与には、正一位の神階を帯びた幣帛の授与が付帯していたこと、宗源宣旨とともに「正一位」神階の象徴として、幣帛・神璽が神社の内陣に安置されたことを記述している。


 次に、勧請の形態が比較的明確である伏見稲荷の事例を中心に取り上げて、稲荷の勧請にあたって様々な形態が身受けられるが、基本的には神璽(四角柱または八角柱)と「正一位稲荷大明神安鎮之事」と記された勧請証書とが授与されたことを記している。神璽は木の角柱を金襴地で包んだもののようで、本来はさらにそのまわりを幣東で飾っていたと推察でき、基本的な形態上の共通点がみられること、あるいは、神璽は「京都の神社(祠官・社僧)または神祇を司る公家から授与される」(八三頁)という共通点があり、必ずしも伏見稲荷からもたらされたとはがぎらないことなどを論述している。


 章末で、近世後期には「神階の授与」の形態をとる宗源宣旨から、勧請文書へ変遷していったと述べるとともに、稲荷勧請とは、「正一位稲荷大明神」の神号を授与するとともに神璽を授与し、それを証する文書を添付することであると定義付けている。


 第三章では、@宗源宣旨の「神階」と「神階」の意義A「神階」ヘの批判と規制B『法曹後鑑』に見る私的神階C白川家の同座勧請D神階の消滅と勧請の普及E勧請にかかる費用F宗源宣旨と伏見稲荷の勧請G競合する稲荷と勧請Hその他の「神階」I神階の変遷と各テーマを設定し、それぞれ詳細な考察が行われている。特に神階から勧請への移行という点に留意しつつ、正一位の神階と正一位稲荷大明神の勧請の意義を明らかにしている。このほかに吉田家の優位が確定したェ文五(一六六五)年の「諸社禰宜神主法度」を背景に、吉田家の支配が地域に浸透していく中で、村の鎮守の権威付けも、宗源宣旨の神階を受けるという形で実現されていったとも推定している。


 なお、史料の上から見ると、原則として神階は勅許に基づくものに限られ、白川家や伏見稲荷からの勧請も本来の神階を倣って授与され、神階に似た性格と機能を持つ私的な神階であったと推論している。一方、吉田家は勧請と同じ行為を神号などの語で表現したが、これは白川家との差別化を図っていたためという。


 特に一八世紀前期に見られた宗源宣旨が、一七四一〜四四年(寛保年間)以降は激減するとともに、伏見稲荷や白川家の勧請証書が多く見られるようになる背景の一つに、経済的な面があったと記している。つまり、裕福でなければ、神階を得ることは不可能であったのである。


 一八世紀後期には稲荷勧請が権威あるものとして意識され、当時の社会において機能しうるものであったことが示されており、宗源宣旨の神階による「正一位」にかわって、伏見稲荷の勧請による「正一位」によって、権威付けが図られたと結論づけている。稲荷を祀る者にとっては、勧請証書を持つ根拠が必ずしも明確ではなく、免許・資格、あるいは由緒として機能したと考えている。


 著者は、稲荷の流行は江戸を中心に周辺地域にも及んでいき、流行神稲荷の大部分が正一位の勧請を実施した結果、正一位を占める稲荷の割合が大きくなったと考えている。伏見稲荷をはじめとする正一位は、村内の村組などの集団や同族団、さらには家や個人が受けることもできたという。いわば正一位の大衆化というべき事態が、吉田家や伏見稲荷を中心とするいくつかの私的な神階によって引き起こされ、かつては資格を必要とした正一位の称号が、遅くとも明治末年にはすべての稲荷に無条件に用いられていたことを記載している。明治時代には、正一位は完全に神階としての意味を失い、むしろ稲荷の代名詞、または名称の一部として定着していたと指摘している。


 時代が下がると正一位の称号は権威を失い、狐の位と考えられるようになり、初午行事の幟に象徴されるように、正一位神号を掲げることが習俗化していったという。

第四章では、@伏見稲荷の稲荷勧請A神階奉授と勧請の根拠B社司と愛染寺との争論C神階奉授説の変遷D『兎園小説』の疑問E『柳庵随筆』の疑問F明治維新後の稲荷勧請の各テーマについて論述している。「正一位稲荷大明神」である伏見稲荷の祭神の写しを勧請するということで、江戸時代において伏見稲荷は、稲荷勧請の際に神階を添付したわけであるが、その場合、次の二つの問題点があったという。
 
  一点目は、伏見稲荷は正一位の神階奉授を実施したか否か、授与した時期の確定、その根拠は何かということ、二点目は、伏見稲荷はなぜ稲荷勧請に際して正一位の神階を添付するのか、その根拠はなにかということであると、著者は論点を明確にしている。

 一点目の疑問点に関して、社家の秦・荷田両家を筆頭として、本願所愛染寺の勧請がいつから始まったのかは明確ではないが、奉行所の調べによれば愛染寺の場合、願主からの勧請願書によって、元禄年間にその勧請が遡るとする。これが事実とすれば、ほかの社家による勧請はそれと同じか、それ以上に年代を遡る可能性が高いであろうと推定している。


  明治時代になっても伏見稲荷が分社に与える正一位稲荷の神号が、口宣や位記と紛らわしいものと捉えられていたらしく、明治維新時には国家神道の確立に向けて、江戸時代以上に厳しい神社統制が行われていた。修験道の廃止や狐下げの禁止、明神号の禁止など、神仏分離や民俗宗教への介入が著しく、慣例として行われていた稲荷勧請も禁じられた状況が記載されている。明治六年以降の教部省の判断には、稲荷勧請の解釈をめぐる伏見稲荷と教部省との攻防がうかがえ、明治政府の神社統制の中で、正一位の明確な位置付けが迫られた。しかし、強硬な神道国教化策が永く続かなかったこともあり、あえて稲荷の正一位を問題視する必要がなくなり、稲荷勧請も容認されたのであろうとする。

 第五章では、著者が「それらの資料のあり方は一様ではなく、そこに示された内容もさまざまであり、かなり雑然としたものになるであろう」(一五一頁)と予測しつつ、数多くの文書や記録・棟札・勧請札・神璽などの資料をもとに、稲荷勧請の様々な事例を報告している。と同時に、@江戸の武家屋敷の稲荷勧請A勧請の方法B勧請の代行と取次C阪阪の稲荷勧請D社祠の形態と勧請E重複した勧請F勧請の諸相と七節に分けて「稲荷勧請の諸相」をテーマに論じ、次のような結論を導いている。

 既存の社祠に稲荷神を勧請する形が一般的であり、狐をカミとして稲荷に昇華するための装置として、稲荷の祀り込みに正一位の勧請が求められたと推定している。伏見稲荷から勧請する主体は百姓や町人・寺院・神主・修験などさまざまであった。吉田家・白川家から勧請する場合、両家の支配下におかれた神主が積極的に取り次ぎをしていたとし、基本的には稲荷勧請をする主体者の身分などは限定されておらず、むしろ不特定多数を対象に開かれたものであったと考えている。願主がどこに勧請を依頼しようと基本的には自由であったため、白川家による伏見稲荷の牽制もあり得たし、伏見稲荷内部における愛染寺と祠官との対立もあり得たと記述している。
 
  第六章では、@狐の「正一位」A「正一位」の威光B伏見稲荷は狐の本所C藤森に集う狐D伏見稲荷と狐の飼育料E兼助稲荷の勧請と稲荷山F兼助稲荷のお位上げG勧請の仲介者H狐の官位と吉田家・白川家と九テーマを設けて、正一位の民俗的展開について記述している。稲荷勧請が普及した江戸中期から後期にかけて、狐ないし狐の霊を擬人化し、人が官位を受けるのと同じように、狐も官位を受けるものと考えられるようになったという。
この章では、諸神とは異なる「稲荷の正一位」独自の展開を考察している。稲荷全般に共通することは、個々の稲荷がそれぞれに個性ある狐として認識されていたとし、あちこちで託宣などによって狐が意思表示をするのは、同じ稲荷という神ではなく、それぞれの祠に稲荷として祀られた個別の狐たちであったとする。本章では、特に江戸時代中期以降、これらの狐たちは伏見稲荷などの著名な稲荷のもとに序列化され、統御されていたと強調している。伏見稲荷は諸国の狐が集う「狐の本所」であったと規定し、狐を稲荷として祀る信仰と神階・神璽とが人々の間で不可分に理解されていたと指摘している。

 なお、稲荷勧請の場合は一時的なものであったために、稲荷やその祭祀者の組織化や系列化には至らず、稲荷を信仰する一部の人々の観念の中では、各地の稲荷が伏見稲荷に集い、修行し、官位を授けられるというような、伏見稲荷を本所とする各地の稲荷の組織化が進められていたとする。

 続いて、兼助稲荷に関わる史料を中心に考察し、蓮華寺の僧は伏見稲荷へ出入りした宗教者の一人であり、祠官による勧請や神札を取り次ぐ一方、独自の宗教活動も展開していた状況を報告している。伏見稲荷を核とする稲荷ないし狐のネットワークが存在している、と人々が考えるようになった原因は、民間宗教者たちの宗教活動と、それを求める信者の存在があったことにほかならないと推察している。

 ちなみに、白川家が稲荷勧請と同時に「くた狐払御守」を出している例もあり、野狐除けも伏見稲荷にがぎられたものではなかったとする。江戸中期・後期以降、「正一位」を伴う勧請の普及とともに、「官位」の授与が狐を統御する装置としての意味を強く持ってくるという。その理由は、伏見稲荷は盛んに稲荷勧請をおこなうとともに野狐除けの札を出したり、憑き物の狐落としを実施し、その霊験談が民間に流布された結果、伏見稲荷は狐の本所として狐を統御する力を持っていると考えられたからである、と論を展開している。稲荷勧請と野狐除け・狐落としとは表裏一体のものとなり、狐の統御に関わる様々な修法は、伏見稲荷やそれに関わる者たちの重要な職分であったことと、稲荷勧請とともに野狐除け・狐落としなどの修法について、伏見稲荷以外の者が少なからず同様の役割を果たしていたことに留意している。

 評者はこの章に登場した「カミ」という表現と、「神」とがどのように違うのか、また、「狐の本所」とはどのような場所を示すのが、理解できなかった。文中にこれらの語句を便用する定義、もしくは説明があれば、納得がいったと思う。

 補説では伏見稲荷と「藤森」を論点として、@伏見稲荷の呼称A藤森稲荷は伏見稲荷B藤森稲荷の由緒と位置C藤森稲荷の分霊D藤森稲荷を称する稲荷E忘れられた呼称と六節の構成で、「藤森稲荷」と称する稲荷の全てが、伏見稲荷の分社であるとはかぎらないとする仮説を述べている。「藤森」稲荷の呼称の根拠が不明である場合、本社である藤森稲荷の呼称をとったものである可能性もあり、「藤森」「藤森稲荷」は、伏見稲荷やその所在地を示すものとして、江戸時代には普及していたことと、「藤森」の呼称は各地の狐が集って官位を受ける森というイメージをも、ときには負わされており、庶民の伏見稲荷への信仰を象徴するものであった状況を記している。しかし「藤森」も「藤森稲荷」も定着することなく、ある時期に一掃されてしまったと考えている。

 著者は「おわりに」で、本書の論点と結論の概要を記述している。本書は、伏見稲荷と地方の稲荷との関係を最も明確な形で示しているのが、稲荷勧請であると考え、その意味を調べることに主眼をおいたものであるという。

 正一位の神階は、神社神道の神である稲荷明神と民俗的なカミである狐霊との接点となり、前者が後者を統御する装置となることで、信仰上も重要な意味をもったことや、正一位の神階の信仰上の位置付けは、一般には江戸時代中期から後期にかけて広まり、殊に流行神や憑き物としての稲荷の流行とともに、定着していったと指摘している。

 ちなみに、中世に遡る勧請証書は現在のところ見当たらないことから、神階の授与を含んだ稲荷の分祀すなわち「稲荷勧請」は、「近世において、複数の雑多な稲荷の神々がまとった、同じ伏見稲荷のブランド」(二四○頁)とでもいうべき、性格を持つといえようと結論付けている。

 三

 著者が稲荷の勧請証書に注目し、「正一位」の宗教的な意義や稲荷の信仰圏を究明しようとした着眼点は評価すべきであり、これまで余りなされていなかった研究分野といえよう。評者も「第五編 伏見稲荷と信仰流布 第一章 愛染寺の稲荷信仰流布 第二章 伏見稲荷における 神道的稲荷信仰の流布活動」(大森恵子 一九九四『稲荷信仰と宗教民俗』岩田書院)を執筆するおりに、著者より「正一位稲荷勧請の文書」一覧表や資料の提供を受け、ひじょうに参考になったことを付記しておく。

 なお、第一章に掲載された「表1 正一位稲荷勧請の文書」を見ると、伏見稲荷本願所であった愛染寺から勧請された稲荷が少ないことに気付くが、この現象を考察する上で明治初頭に実行された神仏分離の影響を無視することはできないと考える。というのは、『朱』編集部が執筆した「稲荷社における神佛分離の経過について-月番雑記を中心に-」(『朱』第三五号 伏見稲荷大社)によれば、一八六八(慶応四)年四月に伏見稲荷にも明治政府による神仏分離の触書が到来し、それを受けて稲荷社の社中は愛染寺住持の舜雄を呼び寄せ、社頭在来の諸堂と愛染寺内の二堂を即時取り払うように指示し、僅か三ヶ月後に稲荷山の神仏分離は完了した、と記載されているからである。

 この稲荷山の混乱状態を見聞した稲荷信者たちはどのような影響を受けたのであろうか。それを窺わせる事例として、兵庫県三田市寺村に住む喜多家の屋敷神稲荷勧請証書を上げることができる。この証書は、平成初年ころの大掃除のおりに、現在の戸主が蔵の垂木の上にそっと置かれているのを発見したものであり、家の者は先代からこの文書について、誰も聞き伝えていなかったという。これには「文久二年(一八六二)」に、「愛染寺舜雄」が「略式修封之」の勧請形式で稲荷神の御分霊を喜多氏へ授与したと記されている。ただし、現在でも祭日になると、喜多家の屋敷神稲荷は僧侶に祈祷してもらうことになっており、突然、愛染寺からの勧請証書を密かに隠す必要に追られても、祭祀の面では仏教的稲荷信仰を現在なお継承しているのである。評者は、「隠す必要に迫られた状態」を、神仏分離後の廃仏毀釈の混乱と推定している。

 つまり、廃仏毀釈後、伏見稲荷山に近い地域においては、稲荷祭祀者たちにとって、愛染寺から出された勧請証書を公然と人前に出すことが不可能になったとおもわれる。伏見稲荷へ証書である可能性もあり、「藤森」「藤森稲荷」は、伏見稲荷やその所在地を示すものとして、江戸時代には普及していたことと、「藤森」の呼称は各地の狐が集って官位を受ける森というイメージをも、ときには負わされており、庶民の伏見稲荷への信仰を象徴するものであった状況を記している。しかし「藤森」も「藤森稲荷」も定着することなく、ある時期に一掃されてしまったと考えている。

 著者は「おわりに」で、本書の論点と結論の概要を記述している。本書は、伏見稲荷と地方の稲荷との関係を最も明確な形で示しているのが、稲荷勧請であると考え、その意味を調べることに主眼をおいたものであるという。

 正一位の神階は、神社神道の神である稲荷明神と民俗的なカミである狐霊との接点となり、 前者が後者を統御する装置となることで、信仰上も重要な意味をもったことや、正一位の神階の信仰上の位置付けは、一般には江戸時代中期から後期にかけて広まり、殊に流行神や憑き物としての稲荷の流行とともに、定着していったと指摘している。

 ちなみに、中世に遡る勧請証書は現在のところ見当たらないことから、神階の授与を含んだ稲荷の分祀すなわち「稲荷勧請」は、「近世において、複数の雑多な稲荷の神々がまとった、同じ伏見稲荷のブランド」(二四○頁)とでもいうべき、性格を持つといえようと結論付けている。

なお、五来重は『稲荷信仰の研究』(五来重監修 一九八五 山陽新聞社)の総論で、狐の古語が「ケ(食)ツ(の)ネ(根元霊)」という方言に残っているとして、「キツネ(狐)の名称が食物の根元霊をあらわす」と指摘している。この説の根底にも、狐が食物神・農神・生業神であることを暗示しているとおもわれる。

 一方、能楽「殺生石」の詞章にあるように、玉藻前に変化した九尾狐(霊狐)は、自ら「塚の神」と語って祟りを成そうとするが、陰陽師の祈祷で鎮められる場面などもあり、さらに、稲荷山の神蹟や社殿も古墳上にあることも考慮に入れれば、稲荷神の祭祀と祖霊神の祭祀に強い関連性を窺うことができるのである。

 この点に関して、今後さらに著者が研究を進められ、その成果によって「狐」と稲荷信仰の論点が明確に結論付けられることを期待する。どのような結論が導きだされるのか、ひじょうに楽しみである。

 評者の役割を充分に果たすことができなかったが、著者が稲荷の勧請証書と、「正一位」の神階状に着眼し、そのシステムと形態、宗教的意義などを明らかにした本書は、今後の稲荷信仰の研究において、大いに寄与できる研究成果といえよう。


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