新刊案内:西海賢二        『地方史研究』314(2005.4)
中村茂子著『奥三河の花祭り−明治以降の変遷と継承−』


 愛知県の奥三河地域には、霜月神楽の一種である花祭りが今日も十数か所で伝承されている。花祭りは、江戸時代後期までいくつかの集落が寄り合いで、何年に一度行ってきた式年祭である大神楽と併存の形で継承されてきたものである。
 さて「花祭り」の研究を回顧するときバイブル的に紹介されるのが、わが国最初の「民俗誌」とされる早川孝太郎の昭和二年から五年にかけてまとめられた『花祭』であることは周知の事実である。
 本書は早川孝太郎の『花祭』がまとめられて七十年余の時を経て、新たな「花祭」としてまとめられたさしずめ平成版『花祭』の定番になる著作であろう。本書は奥三河の花祭りの伝承地を中心に、周辺地域に伝承する民俗や祭祀と民俗芸能を事例として、明治維新政府の試行錯誤によるさまざまな布達によって、地域の人々がどのように翻弄され、どのような形でそれを受け入れることになり、明治・大正・昭和に繰り返された長い戦時下を、どのように乗り越えなければならなかったかを検討したものである。
 また、昭和三十年代以後の高度経済成長期に、この地域を巻き込んだダム建設による住民の離村と、明治維新後特に力を注いできた主生業である林業の不振などを経て、バブル崩壊前からの過疎という明治維新後にやってきた最大の難問を抱え、現在に至る一地域の生き残りのための努力過程について調査し、比較分析をするという、前掲した早川の『花祭』論ではまったく論ぜられることのなかった所論であり、かつ新たな『地域民俗論』として注目されるであろう。
 以下に主要目次を掲げる。
  はじめに
  第一章 早川孝太郎が『花祭』に記した明治維新の変革
  第二章 真栄町の花祭り
  第三章 豊根村の花祭り
  第四章 津具村の花祭り
  第五章 富山村の祭りと芸能
  第六章 明治維新の奥三河改革に尽力した人々
  第七章 設楽町旧田口十か村の御堂山観音と白山神社
 各章ごとの詳細は紙幅の関係から紹介することは差し控えるが、以下は今日の民俗芸能論を標傍する人たちが原点的に認知している「花祭り」論に対しての多少の疑問を提示しながら本書の意味を考えてみたい。
 第一章に「早川孝太郎が記せなかったこと」という項目があり、須藤功氏の論を引用して早川の不首尾について論じようとした気配があるが、全体を通じてはこの論は本書では展開されていないようである。具体的には、早川の仕事を刺激することを目的として渋沢敬三が語った「花祭の奥に、また基底にある宗教学的または社会学的経済的、さらには、農村学的面についての解明は不十分な点も感じられた」という一文とも相通ずるものがあるであろう。
 第二章から五章までは東栄町・豊根町・津具村・富山村の現行の「花祭り」と廃絶した「花祭り」を徹底して事典項目のように詳細に渡って紹介しており、その点では個人的には本書の白眉ともいうべきものであろう。今日、民俗学や民俗芸能を標傍する人たちが調査を踏まえない民俗や民俗芸能の方法論に陥りがちな状況からすればなおのことである。しかし、この調査報告で気になつたのが「花祭り」の「廃絶」「廃止」の問題である。というのも「廃絶」と「廃止」を併用している点である。本書では「廃絶」を明治以降の近代化の問題として把握かつ位置づけようとしているためにこうした結果になったものと思われる。
 この問題は六章の問題とも表裏一体になっているといわざるを得ない。明治維新の奥三河改革に尽力したと紹介されている人々と民俗芸能「花祭り」論として紹介されている文献ではある程度そのように読み込むのも可能だが、ここに登場した人々は実のところ「花祭り」や他の「念仏踊り」「夜念仏」など村を存続するための一環として廃止していったことを明治以降の変遷と継承のなかで論じなければいけないのが常套ではないだろうか。それを渋沢敬三がいみじくも語ったとされる「宗教学的または社会学的経済的、さらには、農村学的面についての解明に不十分」に連動してくるものであろう。
 奥三河の近代化のなかで廃絶していったと理解される「花祭り」と、廃絶されていった「花祭り」は明らかに別物であったことを前提にしていかないと「花祭り」の近代化論は展開していかないことになるのではなかろうか。
 このあたりは本書のなかでは展開されていないが、奥三河から遠江周辺における幕末国学の地域的展開と関連するものであり、このあたりが本質的に問われていかなければならない。かつ渋沢のいう「社会学的経済学的」の問題、とくに藤田佳久氏がはやくから『日本の山村』・『日本・育成林業地形成論』などで指摘されている奥三河の入会問題、山村構造の質的変化が民俗芸能にも深く関わっていたことを視野においた芸能としての「花祭り」論が展開されることを望みたい。
 花祭りの研究者でもない筆者が暴言めいたことを書きすぎたかもしれない。しかし、昭和五十年からちょうど三十年間、奥三河を何も書かずただ歩き、踊り回って来た「花狂い」(著者の中村先生にも花祭りの現場でよくお会いした)の傍観者の実感である。それにつけても昭和四九年に受講した三隅治雄先生、同五十年の本田安次先生の「民俗芸能論」の講義の切り出しは、きまって君たち「花祭り」を見たかねという言葉と所作であった。これがきっかけで遠山祭りや花祭りへ足繁く通うようになったのだから、こうした問題にアプローチしなければならないのは私自身なのかもしれない。でも「花狂い」で終わりそうである。自戒をこめて。


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