高橋 実著『助郷一揆の研究−近世農民運動史論−』
掲載紙:歴史学研究792(2004.9)
評者:須田 努


 日本近世を対象とした民衆運動史研究は,1980年代以降,研究者層・研究成果の両面において低迷が続いている。高橋実氏の『助郷一揆の研究』がこのような研究状況下に登場した。まず,各章の論点を紹介していきたい。

 序章 高橋氏は近世農村史・民衆運動史研究の成果をトレースし,近世史研究全体に関しては世直し状況論と幕藩制国家論とを,民衆史・民衆思想史に関しては,安丸良夫・色川大吉・鹿野政直各氏の研究を高く評価する。その上で,1980年代以降の研究状況を「『身辺雑』分野をふくめた生活史研究が盛んになっている」として批判し,「脊椎動物としての歴史学は,『天下国家』を基軸にしながら,やはり多元的な分野の複合体として構築されるべきであろう」との見解を表明する。高橋氏のこの挑戦的な発言は,「近世農村史研究で貫こうとする視点と方法」は,「地域史料の丹念な読取りを基礎にして地域農民の視点から地域の歴史展開を具体的に浮き彫りにしていこうというものである」という箇所と,地域に腰をすえた定点観測により,地域農民の歴史を「等身大」に再現したい,との言説をふまえることにより生きてくる。本書の起点はここにあると思う。

 第一章では,将監新田・上谷井村(現在の茨城県筑波郡)で発生した別名主訴願運動を対象として,深谷克己氏が提起した百姓成立・御百姓意識・農民的強かさ,といった説明概念を分析・検証していく。高橋氏は多くの農村史料に当たりながら,百姓らが代官を批判する場面において「我儘」「勝手」「迷惑」という語句を多様していることに注目し,ここに百姓成立の論理を見出そうとする。また,「先規」「古来」という語句には,農民の正統性観念にもとづく,伝統主義的認識が基礎にあった,とする。そして,歴史を規定し形成していくのは,一揆などの派手な事件だけではない,として農民の「継続的な実践」が重要な意味をもつと述べ,その政治性を評価していく。

 第二章で高橋氏は,稲敷郡阿見町にある助郷一揆の供養塔を入り口として,牛久助郷一揆の展開過程を細かく実証していく。デスクワーク型の研究者では到底真似できない,心にくいまでの導入箇所である。そして,増助郷を企図する牛久宿問屋飯島治左衛門(麻屋)らの動向を追い,彼ら宿場関係者に対して助郷村農民の反感・不満が高まっていく様子を具体的に論じ,発頭人指揮により「統制のとれた」一揆・打ちこわしが展開した,と評価する。そして高橋氏の視線は,牛久助郷一揆の内部へと向かい,幕府の武力行使以前に一揆勢が解散していた点などに注意を向ける。この論点は第五章へとつなげられていく。

 第三章では牛久助郷一揆に参加した農民の「意識と行動の特質」に迫っていく。第一・二節では安丸良夫氏が提起した「悪」の措定論や深谷克己氏の「律儀百姓」論をトレース,実証していく。「一揆・打ちこわしにおける農民の意識と行動の特質」を論じた第三節に注目したい。高橋氏は,農民が強訴へのためらいを断ち切るために「媒介物」としていた,「神や仏という超越的シンボルの存在」に着目する。第四節では,百姓一揆における参加強制の問題を考察していく。高橋氏は,参加強制とは,一揆取り調べの際に有効な弁明の口実になり,さらには,領主側にとっても都合がよかった,と述べる。領主はすべての参加百姓を厳罰に処すことは不可能であり,参加強制という口実をうけいれることにより,多くの農民を軽い処分ですますことができた,というのである。百姓一揆研究者は,多量の裁許史料を読み込んでいくが,この論点にまではなかなか目が届かない。地域史料の丹念な読みとりを基礎にしてきた,という高橋氏独自の鋭い視点である。一方で,このように“強制”の側面を強調すると,百姓たちの主体性の問題はどうか,といった疑念がわく。高橋氏は,このような発問を「現代人の立場からの偏見」であるとして封じ,「仲間一統の強制に媒介されることによって」百姓たちの主体性は具体的に発動するのだ,と論じていく。

 第四章と第五章とがもっとも充実した部分であろう。第四章第二節・第三節では,百姓一揆いでたち論・得物論をたどりながら,ここから「日本の歴史の基層に生きつづけた集団心性を掘り起こすことも不可能ではあるまい」と論じる。この論点は,現在における近世民衆運動史研究者の共通の認識であろう。高橋氏は,牛久助郷一揆における,一揆勢のいでたち・得物を具体的に分析し,文化期と慶応との相違に着目し,武州世直し騒動における一揆指導者のいでたちがとてもカラフルであることに対して,牛久助郷一揆の指導者のいでたちは百姓姿であったことを重視する。

 さらに高橋氏は,第五章において「当時の一揆観」,「鉄砲使用意識」などへ論点を広げていく。第二節において,百姓一揆文言に視点を合わせ,このテーマにアプローチしていく。百姓一揆文言に最初に着目した研究者は保坂智氏である。高橋氏もこれに依拠しつつ,「我々が現在の歴史学でいう一揆と近世の当時の人々のいう一揆は,意味内容が違っているのではないか」として,百姓一揆を三類型に区分し,牛久助郷一揆は,「我々がイメージしている典型的な一揆」であるが,「領主への願い筋のない,独自の制裁を行う騒動型一揆」の要素も含む,と分析する。第三節では,幕藩領主による一揆鎮圧の際の鉄砲使用意識について論じ,「なるべく武器は使いたくないというのが幕藩領主側の姿勢である」と述べる。そして,この視座から牛久助郷一揆での鎮圧場面を分析し,土浦藩は実弾入りの鉄砲をできるだけ使わない基本姿勢であり,「圧倒的な防備人数を整えて攻撃をおさえ,間接的に退却の行動をとらせたいという姿勢」であったことを読み込む。さらに高橋氏は,ではなぜ一揆側も鎮圧側もともに「戦いたくない」のであろうか,と疑問を投げかけ,「筋書きができている管理されたデモと似ているといえなくもない」と述べる。この点が第五節へと繋がっていく。第五節には,従来の近世民衆運動史研究に対する挑戦的なタイトル「百姓一揆春闘論の検討」が付けられている。高橋氏は史料をもとに,「幕府役人は一揆への参加を容認していた」と述べ,水谷三公氏の研究成果を引用し,百姓一揆春闘論を「前向きに受けとめて今後具体的に考えていきたい」とする。

 第六章では茨城県筑波郡足高村で発生した村方騒動の実証研究を行っている。紙幅の制約から紹介は断念する。

 百姓一揆研究を構造論や政治史に帰着させるのではなく,民衆史・民衆思想史として深めることはできないであろうか。百姓たちは語らない,行動する。彼らの実践行為を史料から抽出し,ここから“衆’として一揆・打ちこわしに結集した彼らの心性を浮かび上がらせることができないものか,とわたしも苦戦してきた。ゆえに高橋氏の叙述・表現から刺激をうけた。これを認めつつも,いくつかの批判を行いたい。

 1.第三章 一揆勢の行動から彼らの「意識と行動の特質」を読み込むという方法
 百姓一揆・打ちこわしなどに関する研究は,戦後歴史学の進展のなかで,時代と現実社会における問題意識とを反映して,階級闘争史・人民闘争史・民衆運動史と変容・深化してきたが,多くの問題関心は,これらの実践行為が発生する状況=構造の分析へ向けられ,これに結集した人びとへ向けられることはまれであった。時代の転換点とされた天保期や,変革期と措定された幕末の時代状況を理解するために,百姓一揆・打ちこわしが素材とされてきたわけである。これに対して,高橋氏は,「等身大」の地域農民像を叙述すべきとしている。これは従来の民衆運動史研究に対するアンチテーゼであり,ゆえに,刺激的な表現・語彙が多様されている。特に第四・五章ではこの傾向が強い。これが前提となる。

 2.第三章 打ちこわしにおける「仲間制裁の論理」
 高橋氏は,牛久助郷一揆において百姓たちが強訴よりも,宿問屋らを打ちこわしていった点を重視し,「仲間制裁の論理」といった概念を提起する。しかし,論理の展開の仕方に疑問が残る。増助郷を企図した宿問屋らを打ちこわす行為は「仲間制裁の論理」なのであろうか。「仲間制裁」という語句を文脈から理解すると,制裁の対象は打ちこわしを受けた者をさし,ゆえに「仲間」とは打ちこわしをうけた宿場役人らを意味している,と解釈できる。高橋氏は,第二章において,宿場役人・宿問屋と周辺村落との対立を実証した上で,第三章第一節では,「悪」の措定論を援用しつつ,打ちこわし対象たる宿問屋らを「農民共通の敵」と述べている。しかし,第三章第三節では,牛久助郷一揆の力が出張役人の宿所を打ちこわさなかったことを重視し,「農民にとって公儀は,まさに圧倒的な権威と権力をもつものと観念されて」いたことを論証するために,ここでは宿問屋らを「仲間」としている。宿問屋・農民もともに被治者である。これを強調すれば両者は「仲間」であり,ゆえに打ちこわしには「仲間制裁」の論理がある,ということであろうか。高橋氏が使用しているこの「仲間」という語彙は,文書文言つまり当時の百姓たちが語った言葉ではなく,あくまでも氏が論証のために使用した概念である。牛久助郷一揆が直接の攻撃対象としていたものは,助郷増徴を企図する宿役人たちであった,という断片的事実がまずある。これの解釈として,高橋氏は,被治者内部の矛盾を重視したい,ということであろう。氏が語るように,公儀支配を排除,断ち切るような実践行為をおこなった百姓一揆は発生しなかったことは研究史のなかで,解決ずみの部類といえる。ならば,現在解明すべき課題は,一揆・打ちこわしに関連した人びとの心性であり,経済的対立に解消されない被治者内部の矛盾の問題ではなかろうか。ゆえに,「仲間」「仲間制裁」という用語・概念の使用にはより慎重であるべきであろう。

 3.第四章 百姓一揆いでたち論からみた文化期と慶応期の相違
高橋氏は,いでたち・得物論からその前段の牛久助郷一揆と武州世直し騒動との相違に着目し,「牛久助郷一揆は,世直し的一揆に移行していない,惣百姓型一揆といえよう」との結論を下していく。なぜ結論を惣百姓型一揆という語彙に着陸させてしまうのか。これは,高橋氏がさけようとしている「現在の歴史学」が使用してきた概念ではないか。いでたち・得物が相違することの意味そのものを追究することにより,文化期と慶応期の社会の変容や,一揆・打ちこわしに関連した人びとの心性に迫れるのではなかろうか。

 4.第五章「歴史学でいう百姓一揆」と「近世の人々のいう一揆」
 高橋氏は,「我々がこれまで認識していたほどのレベルで,当時の人々は牛久助郷一揆をみていないし,みられてもいない」と論じ,「歴史学でいう百姓一揆」観念を排除すべきという。ところが,氏は,百姓一揆三類型論を展開し,牛久助郷一揆を「我々がイメージしている典型的な一揆」であり,「騒動型一揆」の要素も含む,としている。牛久助郷一揆を「歴史学でいう一揆」観,つまり近代的知をもって理解しているのである。わたしは,三類型論を展開するこの箇所よりもむしろ,「我々がこれまで認識していたほどのレベルで,当時の人々は牛久助郷一揆をみていないし,みられてもいない」と述べる論証部分に注目したい。氏は,第二節冒頭部分で,勘定奉行石川忠房の書簡を紹介し,「有能な実務派吏僚石川」にさえも,牛久助郷一揆に関して切迫した危機感は見受けられない,と述べ,統制のとれた訴願運動を中心とした牛久助郷一揆は,「実務派吏僚」の「掌の中の騒動・徒党ということになろうか」と論じていく。この箇所こそが,高橋氏がいう「当時の百姓一揆」観をあらわす場面ではないだろうか。この部分をもう少し厚く論じていただければ,と率直に感じた。

 5.最後に第五章「百姓一揆春闘論」について
 高橋氏は,牛久助郷一揆の膨大な史料を読み解き,「規制つきの一揆」であったことを実証した。また「春闘」という表現にも一定の留保をつけている。しかし,「等身大」の地域農民の歴史を叙述しようとする高橋氏が,なにゆえに水谷三公氏に依拠するのか。水谷氏は,江戸時代極楽論を展開するために,いかに百姓一揆というものが「子供のいやいや」のような軽いゲームであったのかを一般書で論じ,「一揆は春闘か」と述べているのである。高橋氏がいだく従来の近世民衆史研究への批判の気持ちはよくわかる,つもりである。しかし,それでも誤解を招く用法と言わざるを得ない。

 21世紀にはいり,権力・民衆,支配・被支配といった二項対立の歴史叙述のあり方への批判から,歴史学自体の存在意義すらも問われてきている。近代的知と既存の歴史概念に落とさずに,当時の人びとの心性や社会関係を叙述できないであろうか。そこで悩む。それは,帰納の方法論であり,実証から得た具体像をいかに抽象化させるか,という問題である。個別の百姓一揆・打ちこわしの史料分析から得た実証成果を歴史学として普遍化させるためには概念化が必要になる。当然,既存の知の体系とのリンクを無視することはできない。しかしせっかくの実証成果は,手あかにまみれた概念にリンクさせると,とたんに色あせたものになり,人びとの生き生きとした姿はかすんでしまう。これが,わたしたち,民衆運動史・民衆思想史研究者がぶつかる二律背反の壁である。歴史学研究が時代と社会との関係のうえで成り立つものであるならば,オリジナルとして形成され,見事に帰納された独創的な説明概念といえでも,命脈を保つのは10年ほどではなかろうか。史料から切り取った人びとの姿を,現実社会との緊張のなかからいかに普遍化させるか,この再生産の営みこそが,民衆運動史・民衆思想史研究の“しんどさ”であり“楽しさ”ではないか,ということをわたしは改めて考えさせられた。

 「脊椎動物としての歴史学」,「等身大」の地域農民の歴史,といった問題提起に触発されたかたちで忌憚ない書評を行ってみた。本書が実証成果の宝庫であることは間違いない。文化期および,北関東地域の百姓一揆研究を行ううえで必読の書といえよう。


詳細へ 注文へ 戻る