北原 かな子著洋学受容と地方の近代−津軽東奥義塾を中心に−』
掲載紙:洋学通信20(2001.07)
評者:石山 洋


 本書は青森県弘前市の東奥義塾の草創期を調査し、明治初期のこの地方で洋学受容の状況を解明した著者(秋田桂城短期大学・弘前学院大学非常勤講師)の博士(東北大学・国際文化)論文を改稿したものである。

 「第1章 東奥義塾開学」 東奥義塾の前身は寛政8年(1796)設立の稽古館以来の旧弘前藩学を引き継ぐ明治5年(1872)5月設立された弘前漢英学校である。同年8月の旧藩学廃止を指令した文部省布達第13号に対し、旧藩主承昭の寄付5000円を得て私立東奥義塾として存続が可能となった。旧藩主は明治7年2000円、8年以降13年まで年額3000円、別に田畑17町16畝12歩(地価4593円余)、14〜16年計4900円余の追加寄付を続けた。この追加寄付の背景には旧弘前藩藩札処理問題が絡んでいた。維新動乱期に発行した無届藩札26万円余につき、大蔵省から始末書を取られ藩主の私債として5年年賦返済を命ぜられたが、他藩では大蔵省が無届藩札も無条件引き継いでおり、弘前藩だけ、差別は不当と幹事菊池九郎が抗議したところ、弘前藩側から訂正を申請すれば返済免除可能と知る。菊池は津軽家執事に返済免除を成就したら、何でも希望に任せるとの約束を得たうえで、彼が明治3年鹿児島留学の際の人脈を生かし、政府部内に根回しをして大蔵省の更正決定を得、見返りに藩主津軽承昭から東奥義塾への追加寄付を獲得した。

 創設期の中心人物は共同し結社、官に申請し東奥義塾を設立した兼松成言、吉川泰次郎、成田五十穂、菊池九郎4人という。筆頭の兼松は文化7年(1810)江戸生まれの弘前藩用人の子で、幕府学問所で漢学、別に皇学・和歌を修め、更に同藩で初めて藩命により蘭学を杉田成卿に学び、和洋両学に通じた学者として藩学稽古館勤務、明治3年督学(校長)となる。東奥義塾設立実務は菊池ら若手に任せたが、結社人筆頭としての存在意義は重い。吉川は明治4年青森英学校、弘前敬応【慶応?】学院の開設に際し、慶応義塾から破格の高給で招かれた教師の一人で、同校閉校後も6年8月まで弘前に留まり東奥義塾設立に尽力した由。著者は「ただし、閉学の際に実際どのような役割を果たしたのか、という具体的な内容となると現在のところよくわかっていない。可能性として考えられるのは、勝海舟の下で海軍術を学び、慶応義塾で英学を修めたという経歴の中で築いた人脈を生かして、文部省などとの渉外折衝を受け持ったということである」という。丸山信編『福沢諭吉門下』(人物書誌大系30、1995)p194によれば、吉川は「和歌山県人、嘉永3生〜明治28没、福沢塾に慶応3入門(推定)、慶応義塾初期卒業・初期教員、明治3.文部省出仕、愛知英語学校長、宮城師範学校長、郵便汽船三菱入社、日本郵船会社社長、明治22.11〜死去まで慶応義塾評議員」とあり、非弘前藩士だが、慶応出身者で、東奥義塾認可申請時、教頭であったことを重視すべきかと思われる。吉川は弘前を離れたのちに東奥義塾へ莫大な財政援助をしていることも留意すべきであろう。著者は石河幹明『福沢諭吉』を援用して岩川友太郎(1854−1933弘前生まれ、藩校英学寮から東奥義塾修学後、ウォルフ夫妻と上京、東大生物学科明治14卒。動物学を修め、東京師範学校教諭から同31年東京女子高等師範教授となる。 E.S.モースやC.O.ホイットマンに学び、近代動物学導入者の一人。日本の貝類目録編纂者。)の批評「吉川は言行活発なれど学問は遠く永島(=小幡)貞二郎に及ばず」と言う。前記『福沢諭吉門下』p7「小幡貞二郎」の項には「明治5年津軽英学校(のちの東奥義塾)に吉川泰次郎と教員として出張する」とある。それより同書p8の弘前出身「吉崎豊作」の項が気に係る。池田哲郎『日本英学風土記』p246には「吉崎権作」とあるが同一人であろう。慶応義塾から明治2年帰郷、英学寮設立に成功、自ら塾長になる由。本書では全く触れられていない。成田五十穂は文久・慶応期(1861〜68)に弘前藩外への遊学者の一人で測量学を修得というから、勝海舟の海軍操練所に学んだのかも知れない。明治2年7月慶応義塾入門、8月にはのちに同僚となる菊池九郎と寺井純司が入門した。同5年以前に横浜のバラ(Ballagh)牧師にも師事したらしい。東奥義塾認可申請時に菊池とともに副幹事(副校長)で、最初の外国人教師ウォルフを招聘する端緒は成田のバラを介しての斡旋によるものであった。菊池に移る。昭和6年刊『東奥義塾再興十年史』の中で、当時の塾長笹森順造は「東奥義塾の創意者は菊池九郎である」と書く。弘化4年(1847)生、元治元年(1864)書院番として出仕、明治2年7月慶応義塾入塾(丸山によれば8月20日)。翌3年藩命で鹿児島遊学、4年帰郷、弘前漢英学校幹事に就任。同校開学当時の学校体制は菊池、成田、吉川らが学んだ慶応義塾システムを模範に塾則を定めていて開学時(6年)の「課業概表」が掲げられている。上等・下等に別れ6級から成り下がり下級は6歳以上就学可、文部省「小学教則」により邦人教師が教え、上等は14歳以上の下等課程修了生に「外国教師ニテ教授スル中学教則」を参考に米人ウォルフ(Charles H.H.Wolff)夫妻が教えた。柴四郎(1853−1922、会津藩士、東奥義塾修学後渡米、ハーバード大学などに学ぶ。新開記者、小説「佳人之奇遇」を著した東海散士(衆議院議員、農商務次官)、藤田重道(後の工学士)、江南哲夫(後に豪商となる)らが生徒として来学している。

 「第2章 東奥義塾の洋学(1)ジョン・イング着任まで」 ウォルフ夫妻の教え方は所謂「正則」即ち発音重視の英語による教育で、会話・文典以外、合衆国史や聖書も教えた。(夫月給200円、妻50円で、邦人教師筆頭・兼松の月給7円と比べ極端に高額)真面目な牧師で評判よく、契約延長を期待されたが、宣教師の教員雇用を政府が禁じ、ウォルフ夫妻は6年一杯で退職、次ぎにメソジスト教会日本支部創設のため来日した牧師マックレー(Robert Sammuel Maclay)次男(Arthur Collins Maclay)が米国の大学中退・来日21歳月給150円で就職、7年(1874)11月11日退職、直後にイング(John Ing 1840−1920とLucy1837−81)夫妻が来る。彼もメソジスト教会牧師長男に生まれ、一旦は軍人となったが、大尉(騎兵少佐ともいう)で退き、メソジスト教会が設立したインディアナ・アズベリー大学卒業、1870年結婚、70年牧師として中国へ布教に赴き、73年帰国途上、来日した。

 「第3章 東奥義塾の洋学(2)ジョン・イングの貢献」 当時、塾生間の小話に「東奥義塾とかけて何と解く?」「現在分詞と解く」「そのこころは?」「イングを要する」がある。現在分詞…ingとイング姓とを重ねた小話だが、イングを顕彰する表現が多い。イングは教育課程を改革し、中学5年間のカリキュラムに教科書も改め、たとえば、いわゆる英語読本依存は縮小し、ウェーランド修身論は止め、代わりに英語の文典や修辞学書採用、数学・化学・博物・史学等の各課教科書を英書にした。また「文学社会」という「演説作文の進捗を為さん為」「講談、文章朗読、論説、討論、の4科を講習する」研究会組織を設けた。イング自身が大学生時代、体験したLiterary Societyの効用を評価しての設置という。1876(明治9)年の天皇東北巡幸の際、7月15日青森市蓮心寺での天覧授業でイング指導下、英文を朗読、英作文を奉呈し、頌歌を歌った。「文学社会」は塾生の英語力向上に貢献したし、時論討論などの研究の場となり、政治家を養成し、自由民権運動へ影響した。またイング夫妻は日本語を学び、日本語でキリスト教布教に務め、半年後14名に洗礼を受けた。同時期、明治8年10月弘前教会が本多庸一により発足した。本多は「嘉永元年(1848)12月13日生まれ」というから西暦なら1849年生まれであろう。祖父本多東作は兼松成言の父同様津軽藩用人で上士出身、秀才で16歳にして稽古館司監へ抜擢きれ、横浜遊学中の明治5年キリスト教入信、洗礼を受け7年帰郷、東奥義塾で教鞭を執り、教会を設け、イング夫妻の教育活動を助けた。東奥義塾は8年女子部を設置、70−100名の女生徒を収容した。教師には菊池九郎母きく・兼松成言娘志保らがおり、イング夫人も英語や裁縫を教えた。11年3月イング夫妻帰国、デーヴィットソン(William Clarence Davidson)夫妻が後任となるが、翌年冬離職、同6月カール(Robert Froyt Kerr)が交代に着任した。しかし14年から15年にかけ東奥義塾弾圧が青森県議会で生じ、民権派やキリスト教徒は保守派に追われ、女子部は廃止され、18年火災に遭い、22年怪火全焼の惨禍を受けた。財政難で私学として経営不能となり、34年弘前市に一旦移管された。

 「第4章 津軽地方初の海外留学生たち」 明治10年珍田捨己、佐藤愛麿、川村敬三、那須泉の東奥義塾塾生4名及び菊池群之助が渡米し、恩師イングの母校インディアナ・アズベリー大学へ留学した。その留学過程と帰国後(珍田は東奥義塾牧師・外務省出仕・駐米大使・宮内省侍従長・伯爵、佐藤も外交官で駐米大使になる、川村は帰国直後死去、那須は東京高師英語教員)、珍田らの教育を受けた第2期以降の留学生(デポー大学留学の笹森卯一郎、益子恵之助、高杉栄次郎ら)にも触れる。帰国後、笹森は鎮西学院長、益子は神学を修め、キリスト教布教に努め、母校ほか各地の中学校で後進を指導した。高杉はボストン大学で博士号を得、母校・青山学院・札幌農学校・東北大・北大教授を努めた。

 「第5章 アーサー・C.マックレーの活動」 東奥義塾で教えたマックレーが東京で工学寮小学校英語教師、京都の中学教師を経て帰米、コロンビア大学で学び弁護士として活躍したが、在日1873−78年の体験を『日本からの書簡集』として21通の書簡形式に纏め1886年出版した。20代前半のアメリカ人の見た明治初期日本の見聞と彼の考察を載せる。彼は帰国後、日本紹介に精力的に活動した。弘前では全国レベルで高い教育を実施して業績を揚げたイングが、帰国後は日本を語らずイリノイの一農夫になったのと対称的である。

 「結」 その後の東奥義塾、東奥義塾から育った人々、明治期津軽地方の洋学受容過程の要約を、教育により地方の近代化と発展を実現しようとする旧士族と学校を基盤として布教を図る宣教師との両要素の複雑な展開であったと著者は見る。最後に著者は近代化が中央集権化であり、一般に様々な思想文化は中央から地方へ伝わったと考えられがちだが、本邦北端の地で、中央経由でなく、アメリカ文化が直輸入されたことにより、高い教育水準に達し、キリスト教や自由民権運動など、思想文化が東奥義塾から津軽地方に広がると同時に、アメリカでも津軽での情報が伝えられるという相互交流は存在していたことなど、注目に値する要素を多く含むのに、殆ど顧みられなかったと指摘する。

 巻末資料に東奥義塾所蔵明始期調査報告、英文資料(マックレーによる弘前城内の記述、イングやデーヴィットソンの報告、佐藤愛麿の英文)を収める。

 以上、明治前期の東奥義塾を中心とした洋学受容過程を読み、特色に富んだ津軽近代文化の歩みを丹念に追及された著者の努力に敬意を表したい。


詳細へ 注文へ 戻る