磯沼 重治編 『菅江真澄研究の軌跡』 
評者:小池 淳一
掲載紙:國學院雑誌100-2(1999.2)


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 時代が追いつく、ということはあるものだ。突出した人物とその事績とがその人自身が生きた時代には理解されず、賛同者も得られないまま、幾星霜かが過ぎ、時には埋もれかけ、遥かに時間が過さ去って、ようやく景仰、理解する人々に巡り会う、そうしたことはないわけではない。本書に取り上げられた菅江真澄とその研究もようやく時代が、彼を追認しつつある、ということができるだろう。その道案内人は、圧倒的な情熱で、真澄に取り組んできた磯沼重治氏(以下、編者)である。

 もちろん、本書の随処で指摘されているように、菅江真澄は彼自身が生きた時代に周囲の社会や生活から全く隔絶、孤高の存在であったわけではなく、暖かい理解者と協力者とに囲まれ、多くの仕事を成し遂げ、それなりに満ち足りた生涯を送ったということができるだろう。しかし、彼が貫いた庶民生活への注視、そこから、この日本という島国の来し方行く末を考えるという態度と作業は、柳田国男氏が民俗学を創始するまで、なかなか気づかれにくかったし、真澄自身の生涯を丁寧に検証し、伝記を構築していく基礎作業も内田武志氏によって推進されるまでは、個々の篤実な研究者の、時には孤独な作業に委ねられていた。いわば、研究の展開という面では、もどかしさがあった。このたび、そうした渇望を癒すかのように刊行された本書は、真澄の見聞や思考を検証し、その人となりを位置づけ、さらに我が国の民俗学の先達という従来の評価を深めるとともに、新たに多様な視点を確立していく、盤石の礎というべきものである。そのことを以下、確認しながら、本書の意義を考えていきたい。


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 本書は巻頭に編者の「菅江真澄研究史素描」が置かれ、以下四部二一編の菅江真澄を主題に据えた論考が集成されている。さらに、巻末にはやはり編者による「菅江真澄研究文献目録」が収載されている。順を追ってみていこう。第I 部は「菅江真澄への誘い」と題されて陳舜臣氏の小説、竹内利美氏と谷川健一氏による対談、加藤秀俊氏の現代との比較を打ち出した大館から阿仁への紀行が収められている。本書は五五○頁を超える分厚い書物ではあるが、その最初にはこうした多様な関心と表現によって真澄への関心を呼び起こし、その世界の重要性に気がつくことができる配慮がなされているといえよう。

 第U部は「菅江真澄研究の萌芽」として五編の昭和初期の研究が集められている。柳田国男氏による注意と唱導とに呼応して、それぞれの土地における真澄の足跡を探り、研究を開始した時期の論考群である。早川孝太郎氏の論は三河で、胡桃澤勘内氏の論は信州で真澄を想い、興隆しつつある民間伝承の学への情熱に裏打ちされたものということができる。さらに中道等氏が陸奥での足跡を、深澤多市氏は羽後での活躍を描いている。最後を飾る村井良八氏による伝記はこの時期における郷土研究の先人への敬慕に彩られたものである。ここに集められている論考は勿論、今日の研究水準からすれば、もの足りない面がないわけではない。しかし、こうした論考へと結実していった真澄への関心と篤実な記述態度は、柳田氏や内田氏に限らない多様な関心がこの時期から寄せられており、研究の隆盛が準備されていたことを知ることができる。真澄の顕彰と遺文の発掘に尽力していた時代を彷彿とさせるものである。

 第V部は「菅江真澄の学問」である。ここは民俗学の先駆としてすませてしまいがちな真澄の学の内容とその背景とが追究されている六編の論考から成る。故郷での交流と修学については新行和子氏が、美濃・木曽の旅路については長沢詠子氏が、史資料をぶまえた論を展開している。そして真澄の博物学に関しては内田ハチ氏の論が、国学の位置づけには井上豊、内野吾郎両氏の論が配されている。安水稔和氏の論は、同じ時期、奥羽を旅した古川古松軒との比較を試みて、真澄の観察眼の特徴を引きだしている。いずれも、これから深められていくべき多様な学問領域からの接近であるといえよう。


 そして第W部は「菅江真澄研究の可能性」と銘うたれ、七編の検討が集められている。長谷川政春氏は遊覧記のなかの歌を入り口に呪的時空という表現でその特徴をとらえようとしている。大島建彦氏は小町伝説や恐山への注意を取り上げて、民俗の記録としての遊覧記の価値を述べている。昔話研究の立場からは野村純一氏が、遊覧記の記述の中から「時鳥と兄弟」や昔話の伝承の場を抽出してくれている。中田嘉種氏は旅路の順に従って記されている民俗への共感、関心を整序している。さらに内藤正敏氏は民俗研究とともに写真家としての鋭い視線から真澄の旅を異界を視たもの、と指摘し、宮田登氏は図絵から真澄の記録が現代の民俗学の関心と呼応するという位置づけをしている。最後に東北史からは菊池勇夫氏が生活文化の中の「蝦夷」を真澄の記述を通して考えようとする。


 出典あるいは初出に関する書誌的な記述も丁寧で、過去の論文集成としては入念なものとなっている。さらにここに収められる際に補記、補注もなされており、編者の情熱に各論者(とその遺族)が応えたものと受け取ることができよう。躯け足で第T部からW部の紹介を試みたが、個別に長い時間をかけて生み出されてきたそれぞれの論考が、配置されて、一冊の書物として整然とした宇宙を成しているのは、編者の各論考に対する深い読みがあってのことであり、さらには研究史の構築を長年追究し、努力を傾注してきた成果であることを確認、称揚しておきたい。本書はこうした努力の上に成った、これからの真澄研究が拠るべき金字塔であると言えよう。


 3

 編者は菅江真澄が遺した著作は「古典」と称すべきものだと、本書の冒頭で一言う。確かに本評の冒頭にも記したように今日、真澄に対する興味と関心は、時代がようやく、真澄をとらえるだけの視座を獲得し得たかのように、盛んである。「古典」という言葉にこだわっていうのならば、真澄の著作は、未来社から刊行されつつあり、完結が待望される『菅江真澄全集』(未来社)からはみ出し、既に古典全集の類に収められているし(1)、東北の歴史や民俗の研究にも当然のように依拠、言及される史資料として定着している(2)。さらに一般からの関心も盛んになりこそすれ、衰える気配はないようである(3)。しかし、こうした関心の高まり、隆盛にこそ、研究の上では落とし穴が待ちかまえているのかもしれない。人々が真澄の名を頻繁に口にし、その事績を利用すればするほど、真澄自身と真澄が遺した記録自体への注意、内在的な検討は置き去られ、通り一遍の伝記をなぞる行為とのっぺらぼうで平板な記録としてだけの紹介と引用とが増えていくのでは、と危惧される。だから、編者は大きな楔を打ち込むことを忘れてはいない。本書の巻末に収められた六九頁に及ぶ精細な「菅江真澄研究文献目 録」はそうした安易な利用、消費に対する何よりの抗議であり、抵抗であろう。真澄を語り、あるいは究めていこうとする時、ここに整理された先学の仕事は大きな導きであるとともに超えるべき目標でもある。


 さらにそれは篤実であるけれども孤独な、貴重であるけれども限定された面がないわけではなかった真澄研究を連帯と共同の場にしようとする編者の意志の表明でもあるだろう。もちろん、そこには初発の文献目録にはつきものの誤記や校正もれが散見される(4)。しかし、そのことはごく小さな瑕瑾に過ぎない。編者は長年の営為と知友の協力の成果を惜しげもなく提示したのである。これに応えるのは、これからの真澄研究者でなければならない。


 また編者は、本書で自らの論考を研究史の綿密な叙述である「菅江真澄研究史素描」のみにとどめた。編者が真澄遊覧記研究会を主宰し、多くの研究者とともに自らも真澄研究を着実に推進してきた論客であることを想起すれば、この事実は重い。編者は絵解き研究にも造詣が深く、関連する資料の発掘、紹介にも尽力してきた。真澄研究に集中してからも多くの重要な論考を発表してきている(5)。本書において編者は見方によっては過ぎるほど禁欲的である。そしてそこから、当然、次の期待が浮かび上がってくる。それは編者自身の論文集成であり、本書を踏まえ、編者が中心となっての新しい共同研究の刊行といった事柄である。さらには、こうした研究史の理解を経て、遠からず、簡便な真澄研究ハンドブックが編まれることを、期待したい。慎重で堅実な編者はこうした性急な要望に応えるには

、あるいはまだ時間を要する、と言われるかもしれない。しかし、本書の刊行はそうした展望と発展とを充分に予期し、待望に値する仕事であったことは疑いないのである。


 さらに、そうした真澄研究の進展を期待しながら、評者なりのコメントを書き付けておくならば、従来の真澄研究は現代における民俗学の文脈や概念にとらわれすぎていたように想われる。真澄とその理解者が生きた時代には民俗学という学はなかった。このことはいくら確認しても、し過ぎることのない、忘れてはならない事実である。真澄の遺した仕事やその他の国学や考証随筆、あるいは好事家的な収集や分類がわが国の民俗学の基底となっていったことは確かである。しかしそのことは真澄の事績や記述態度を民間伝承への興味、記録といった見方に押し込めてしまってよい、ということにはならないだろう。よリ同時代の感覚や動向に寄り添い、考察を巡らし、真澄の視線をとらえ直し、定位していくことが必要である。果たして真澄は民俗、伝承文芸、伝説、昔話、民俗誌などといったことどもを、民俗学成立後のわたくしたちが感じ用いるような近代的な文脈で扱っていたであろうか。そういった点を意識し、峻別を試みながら、真澄の仕事を見つめていかねばならないだろう。そしてこのことは民俗の学の成り立ちを識る考究の重要な柱にもなるに違いない。


 4

 本書の出現は菅江真澄研究の重要な転換点になるだろう、ということを、収録された内容の紹介や編者の仕掛けたメッセージ、さらには今後に対する期待などを織りまぜながら述べてきた。既発表の論文を一冊の書物に編み直す時に生じるさまざまな問題については種々の意見があるに違いない。言われる可能性を予測しておくならば、古い論文の明らかな地名表記の誤りをそのまま踏襲したことや発表時に付されていた図表の多くが略されていることなどは評価が分かれるだろう。しかし、評者も迷いながら、技術的な困難さを想い、編者と同じ処置をしたであろうと通読してみて感じている。評者の理解が是か非かは読者に委ねたい。それでも本書が、真澄研究における必携の書であるとともに研究史の共有という点からも考えるべき問題を多く提起してくれる好編著であるということは動かない。


 書評の常道として、著者や編者と同程度もしくはそれ以上の学識を有する人がその任にあたるべきだと言われている。その点で真澄はもちろん、本書の各論者にも、そして編者にも遥かに及ばない評者がその責を負うのは全く危険なことで、この書物の真の価値を誤り、あるいは歪めて伝えていないか、それをおそれつつ、拙い書評を終えさせていただく。




(1)『新日本古典文学大系62 田植草紙 山家鳥虫歌 鄙廼一曲 琉歌百控』(一九九七、岩波書店)。真澄の『鄙廼一曲』の校注は森山弘毅氏。永池健二氏、石井正巳氏が協力している。

(2)評者にとって身近な例を挙げれば、浪川健治『近世日本と北方社会』(一九九二、三省堂)、長谷川成一編『「虫おくり」フォーラム報告書』(一九九五、五所川原市)、『東北民俗学研究』六〈特集・民俗学と考古学における動植物〉、(一九九八、東北学院大学民俗学OB 会)など。


(3)JR 東日本の車中に配置される雑誌『トランヴェール』一九九九年一月号(第一二巻一号)は「特集・菅江真澄と巡る「秋田遊覧記」」と題して、これもまた、真澄研究を牽引してきた田口昌樹氏らによる文章が掲載されている(五-二六頁)。さらに未来社の『未来』一九九九年一月号(三八八号)は巻頭で「菅江真澄の旅日記世界-「菅江本奥じやうるり」公演によせて」と題するインタビューを載せている(一-八頁)。


(4)評者が気がついた箇所を挙げる。文献目録の二○頁の新野真吉は新野直吉(もとの論考に付せられた著者名の時点からの誤りが踏襲されている。ただし、発表時の目次箇所は正しい表記となっている。)二一頁の松元松代は秋元松代、二三、二九頁の益田勝美は益田勝実であり、四五頁の「原始漫筆風土年表」は一般に流布している「みちのく双書」では「原始謾筆風土年表」と表記されている(ただし、評者は当該論考未確認)ことなどが目についた。


(5)このことも身近な一例のみを挙げておく。磯沼重治「菅江真澄の伝承文芸への関心」(『國學院雑誌』第九九巻一一号、一九九八、一四-一二七頁。)ほか。



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