松尾恒一著『延年の芸能史的研究』
評者・宮本圭造 掲載紙 芸能史研究147(99.10)


本田安次氏の大著『延年』は、従来、延年について纏められた唯一の研究書であったが、最近刊行の松尾恒一氏『延年の芸能史的研究』は、多くの意味で、本田氏『延年』の対極的位置にあるといえよう。まず、『延年』で取り上げられているのが、多武峰延年にはじまり、美濃長滝、身延山、日光山の延年、そして毛越寺をはじめとする東北地方に伝わる延年であったのに対し、松尾氏が対象とされたのは、南都寺院―興福寺・東大寺―、近江園城寺といった中央寺院の延年であり、本田氏の著書と好対象を示している。また、本田氏の研究が芸態論的な視点に支えられているのに対し、松尾氏の関心は一貫して環境論的なところにあって、そこから見えてくる延年の姿は、当然、本田氏の延年像とは大きく異なっているのである。
こうした松尾氏の姿勢は、氏の修士論文に基づくと思われる第一章第一節「延年発生基盤としての寺院法会」、第三節「南都寺院における衆徒の延年結構」の二篇に、すでに明確に現れている。すなわち、松尾氏の関心は、平安末から室町時代に行われた延年の、その拠って立つ時代性を明らかにすることにあり、松尾氏自身の言葉を借りれば、「〈延年〉という芸能を通じて生きた中世の人間の生き様を描くことと、前近代における宗教儀礼における文化生成のあり方を、儀礼構造論的視座より明らかにすること」(一五ぺージ)が本書の主題なのである。その際、松尾氏は、近年、大いに進展を見ている寺院史研究の成果を精力的に延年研究に活用され、さらに、日本文化史・政冶史・民俗学・宗教学といった多分野にわたる研究成果をも自身の研究に熱心に取り入れておられる。そうした松尾氏の研究スタイルは、中世の延年の持つ多様性を描き出すことに十二分に成功しているといえよう。視野偏狭な評者には、それら全てを批評しきるのは到底不可能だが、以下、本書の順に沿って、評者の関心のおもむくまま、各論についての批評を加えたい。
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第一章「延年の発生と成立」では、延年が寺院において、どのような機会に行われ、また、いかなる形で結構されたか、といった問題について論じられる。まず、第一節「延年発生基盤としての寺院法会」では、平安後期から鎌倉期の記録をもとに、延年が法会そのものの後宴よりも、任官儀礼における祝賀として催されることの多い点を指摘。さらに、第二節「賓客来臨・任官儀礼と延年」でも、前節の論を敷衍して、賓客饗応・任官祝儀としての延年の性格を明らかにし、それは、そもそも延年が王朝貴族社会における就任祝賀の芸能として発生したことと大いに関わっていたとする。
続く第三節「南都寺院における衆徒の延年結構」では、南都の興福寺・東大寺での事例を挙げて、延年が大衆もしくは衆徒と呼ばれる人々の主催で行われたこと、そして、延年がしばしば「僉議」「披露」といった次第を踏んで、蜂起の形をとって結構されていたことを指摘する。
こうした指摘は、南都北嶺寺院の延年について見た時、たしかに説得力を帯びているが、第三節にいう、延年が衆徒による蜂起の形態をとっていたとする点については、それが果たして発生・成立期の延年の特徴とまで言いきれるかどうか、やや検計の余地を残しているように思われる。
維摩会延年の原初的な姿を伝えるとされる『中右記』承徳二年(一○九八)十月十五日条の記事(「見聞衆誦要文、有遊興事」)や、同記の永久二年(一一一四)十月十四日条の記事(「寺中衆徒数百人来賀、或誦法文(中略)、或作猿楽」)には、いずれも「蜂起」の文字は見えず、また、『台記』康治元年(一一四二)五月十四日条所見の鳥羽法皇山門御幸の記事にも、「依召参御前、大衆入興乱舞、又歌童謡」とあるのみで、少なくともこれらの記事からは、発生期の延年が蜂起の形をとっていたかどうかは明確になしえない。もっとも、これらの記事はごく断片的なものであり、これをもとに僉議の次第がなかったとも言えないのであるが、延年が衆徒蜂起の次第を踏んで結構されたことを明確に示す記録は、十三世紀まで下り、『東大寺続要録』諸会篇に見える建暦二年(一二一二)の華厳会延年の記事が比較的早い(もちろん、延年とは無関係の衆徒蜂起は平安後期から多く見られる)。そこでは、東大寺尊勝院の延年について、「此延年以前大衆蜂起」とあって、延年に先立って衆徒の蜂起が行われた由が見える。しかし、この記事の書きぶりからは、いまだ延年次第の中に蜂起・僉議が完全に組み込まれていない段階を示すものと見ることも出来よう。十三世紀も後半になると、弘安六年(一二八三)の春日臨時祭のように、蜂起の趣旨が述べられる「僉議」が、延年の一演目として、記録に登場するようになる。
延年の中に衆徒蜂起の次第が取り入れられたのは、十二世紀末か十三世紀初頭のことである可能性もあるのではなかろうか。その際、参考にしたいのが、平泉毛越寺の延年に、「僉議」の次第が全く見られない点である。毛越寺の延年は、滑稽な猿楽芸を主体とする初期の延年の姿をよくとどめているが、それが衆徒蜂起の形をとっていないことは大いに注目すべきであろう。毛越寺だけでなく、中尊寺、日光輪王寺、美濃長滝寺、身延山久遠寺、多武峰妙楽寺、周防仁平寺など、地方に伝わる延年のほとんど全てが、大衆(衆徒)の主催で行われていながら、延年の次第に「僉議」を欠いているのであり、これらが地方伝播の際の変容でなければ、初期延年に蜂起の次第が存在しなかった可能性を示唆する有力な補強資料となろう。こうして見ると、蜂起の次第を踏んで延年が結構される例は、平安末期に衆徒の勢力が極瑞に肥大化した南都北嶺寺院の特殊例と考えるべきではなかろうか。
この第一章をはじめ、本書の過半を占めるのは、興福寺をはじめとする南都寺院の延年についての論であるが、第二章「園城寺の延年」では、延暦寺と並び称された園城寺の延年について論じられる。まず、『三井続燈記』、『園城寺伝記』などの資料をもとに、園城寺においては、寺門三門跡が園城寺長吏に就任する際、また、大阿闍梨の伝法灌頂を行う際に拝堂儀礼が行われ、そこで延年が執行されたことを明らかにする。松尾氏によれば、こうした拝堂儀礼にともなう延年は、東大寺などの南都寺院でもしばしば見られるところであり、ともに賓客来臨や任官儀礼が延年開催の契機となっている点で両者は共通性を持っているが、園城寺の場合、鎮守社である新羅社が延年開催の場となっている点に特徴があるという。その新羅社での祭礼については、第二節「園城寺新羅社をめぐる祭祀と芸能」で論じられるが、冒頭、新羅社延年について言及するものの、後半は新羅社祭礼における御剣の献上や新八播宮祭礼、新羅社への起請など、問題が多岐にわたり過ぎるきらいがあり、本書全体における位置付けがやや明確でない印象を受けた。
続く第三章は「興福寺延年、発生と展開」である。興福寺では、平安中期から江戸時代にいたるおよそ六百年もの間、維摩会にともなって延年が盛大に開催された。第三章では、その維摩会延年がどのように成立し、また具体的にどのような形で開催されたか、そして室町期にいたってどう変容を遂げたか、などの問題について論じられる。
第一節「維摩会延年の成立」は、成立期の維摩会延年をとりあげ、延年が金堂前で行われる場合と、講師房で行われる場合があったことを指摘する。後者の講師房延年は維摩会講師の講師補任を祝しての催しと見られ、延年がしばしば賓客来臨・任官儀礼の際に行われたという松尾氏の説と合致するが、一方の金堂前延年については、「儀式の終了後に行事が無為無事に完遂したことを本尊仏へ報告、感謝するのが金堂前延年であった」と述べられるように、法会の後宴として催されたものであったらしい。しかし、維摩会においてこうした二つの形の延年が行われていたことの意味、そのいずれが維摩会延年の本来の形態であったか、といった点にまで論が展開せず、後半ではもっぱら講師房延年と大嘗祭との比較などに移ってしまう。講師房延年は鎌倉期、維摩会の催しとして定着するものの、金堂前延年は早くに行われなくなっていたようであり、そうした点に維摩会延年の変容を見て取ることが出来るように思うのだが、その意味でも、金堂前延年について、一歩進んだ考察が必要だったのではないかと思う。
第二節「室町期、興福寺の延年」は、前半が足利将軍南都下向の折の延年、後半が興福寺遊僧についての論である。遊僧に関しては、林屋辰三郎氏、植木行宣氏の先駆的研究があるが、松尾氏はそれらを踏まえ、遊僧が専業の芸能座とは異なる存在であり、れっきとした寺僧であったとの見解を示しておられる。首肯すべき見解だろう。春日社の禰宜が神職の一員でありながら、同時に神楽男の組織を持っていたように、遊僧もまた寺僧として活動するとともに、芸能座に近い組織を形成していたものと見られる。その遊僧が声明師から分化したとする説も、傾聴すべき見解である。さらに本節の最後では、興福寺の遊僧が、長谷寺などの末寺の延年に派遣された様子などが明らかにされるが、こうした遊僧の幅広い活動の実態とその果たした役割は、今後さらなる解明が期待される領域であろう。興福寺の延年には薬師寺や吉野の遊僧も参加したことが記録に見えるほか、紀州熊野の延年資料が南都に伝えられていたり、興福寺維摩会延年の記録が比叡山に残っているのも、あるいは遊僧の広範な活動と深く関わっているのかも知れない。
次の第三節「u州会儀礼と延年」は、興福寺u州会の際に行われる延年についての考察で、u州会延年が大乗院門跡の別当就任時に限って行われ、一乗院門跡が別当職にある時には行われなかったこと、下臈分新入帳の披露の後に延年が演じられたこと、などの特徴が指摘されている。また、その延年で行われていたと思われる倶舎舞について、「倶舎頌・倶舎論義のモドキとしての意味をもって舞われた」こと、その倶舎舞に特徴的な烏帽子は、新入加冠の意味合いを持つものと論じておられる。u州会延年の特徴についての指摘はまさにその通りだと思うが、倶舎舞を倶舎頌・倶舎論義のモドキと見るのは再考の余地があろう。現在も民俗芸能として伝わる倶舎舞(秋田象潟のチョークライロ舞ほか)では、頌らしきものが舞の中で唱えられているし、『周防国仁平寺本堂供養日記』でも、音頭と六人の助音が倶舎頌を頌した由が見え、倶舎舞の名の由来はやはり舞の中で倶舎頌が歌われていたためと見るべきではなかろうか。また、烏帽子を着しての舞は倶舎舞に限らず、大衆舞にも見られ、倶舎舞の烏帽子装束を特に新入加冠と結び付けることの妥当性にいささか疑問を感じた。
これまでの各章が、延年の歴史的背景や環境について論じたものであるのに対し、第四章「延年芸能の考察」では延年の芸能自体についての論が繰り広げられる。第一節「示威・闘諍・介入、異形の芸能」は、発生期の延年が蜂起の次第を踏んで執り行なわれ、衆徒の示威の場となっていたこと、そこで行われる芸能は「異類異形」の形象に他ならないことを論じたものである。しかし、示威・闘諍・介入・異形といった概念が先に立って、全てはその概念に沿うように論が展開される感があり、論としては面白いが、いま一つ考証性に欠けるように感じられた。
第二節「延年風流の祭儀性」は、延年の中で演じられる「風流」が風流と呼ばれるゆえんを明らかにしようとしたもので、松尾氏は「風流」に登場する「劇の筋とは特に関係のない大勢の弁大衆・花杖児・葉杖児といった諸役が」「いずれも彩々の甲冑―腹巻―を着し、また花で飾られた杖や、刀・槍等を手にしていることで、これらの贅を尽くした装飾の総体が延年風流の〈風流〉たるゆえんであった」(四○九ページ)とされる。そうした点に風流性が認められるのは確かだが、延年「風流」の第一義はむしろ、ある趣向(昆崙山や宝塔涌出など)に沿った作り物が出され、様々なカヅキ物が登場して、その場面が再現されるという点にあったと見るべきではなかろうか。
第三節「走物―表現とその展開―」は、江戸中期、興福寺の維摩会延年で行われた「大風流走り」について、戯曲の構成や演出面に能からの影響が見られることを指摘したものである。具体的に言えば、外道が護法善神や毘沙門によって調伏される大風流の形式は、《舎利》《第六天》などの調伏型鬼能の戯曲構成の影響を受け、大風流の「僧に対してかけり、僧杖にてあしらい」といった演技には、能のカケリが移入されていたものとする。しかし、松尾氏が留意されるように、外道調伏の大風流はすでに、永享元年(一四二九)の『室町殿御翫延年等日記』にも見え、その流れを考えれば、能からの影響を特に考える必要はないし、大風流の演技について「かけり」の語が用いられていることも、能と延年とで同じ用語が用いられていた可能性は十分にあるのではなかろうか。
最後の第四節「舞催―延年の道化―考」は、興福寺維摩会延年における舞催なる役についての考察。舞催は烏帽子姿で舞台に登場し、稚児の舞を引導したり、また、「云立」や「風流之意趣」を述べるなど、延年の司会進行をも勤めたようで、その存在は従来ほとんど注目されていなかったが、松尾氏の言われる通り、実に興味深い存在である。松尾氏はこの舞催が、延年の中で稚児の糸縒舞の舞催歌を歌っている点に注目。同じく、糸縒を得意にしたという江戸初期の伝助なる狂言師が、歌舞伎踊りの猿若の祖と伝承されていることを踏まえ、さらに猿若の持ち芸の一つである大小舞と舞催との「舞踏の演出様式」の類似から、舞催の芸が猿若に継承されたものと考えられた。そして、この芸の経承の橋渡し役をしたのが、中世以来、維摩会延年に参加し、また、服部幸雄氏によって歌舞伎踊りにも参画したとされる春日社の禰宜であったろうとするのが、松尾説の論旨である。しかし、猿若が糸縒を演じたことを示す確実な史料はなく、また、後代の『歌舞伎年代記』のほかは、猿若と大小舞との関連を伝えるものがない上、糸縒も大小舞も、どちらかといえば若衆の狂言師の得意とするところであって、猿若の芸とはいささか質が異なるように感じられる。初期歌舞伎については資料が決定的に不足しており、推論に推論を重ねての論証になるのはやむを得ないが、大小舞と舞催との「舞踏の演出様式」の類似も、特に決定的な類似とは言い難いし、全体的にいまだ十分に説得力のある論に成熟しきれていない印象を持った。
なお、本節中、春日社の禰宜について触れるくだりで、芸能活動に従事した禰宜を、本社禰宜ではなく散所禰宜だったとする点は疑問である。貞和五年の春日臨時祭の田楽を勤めた禰宜の名と、散所禰宜の名に「春」字が共通する点が氏の根拠であるが、散所禰宜のみならず、本社禰宜の名にも「春」字は普通に見られるし、貞和五年の田楽を演じた禰宜は、その祈の記録によれば、本社禰宜のうちの神楽男であったことが明らかだからである。また、『多聞院日記』天正十七年(一五八九)八月二十七日条所見の興福寺一乗院における豊臣秀長饗応の演能(禰宜や奈良の町衆を主体とする催し)について、これを維摩会延年の一環の催しと見なして、「もともと延年に奉仕する児は別当や頭役を始めとする高僧に所属する児であったが、先に見た天正十七年の維摩会延年に奉仕していたのは「クマサカ」「仏師屋」等、商工民と思われる家の子供であった」(三七○ページ)とするのも、やや問題であろう。この演能はあくまで秀長饗応を目的に行われたもので、維摩会延年とは全く別の催しであったと見るべきではなかろうか。
以上で各章についての批評を終えるが、本書には最後に報告・資料編として維摩会および同会の延年についての資料も収められている。その冒頭に、維摩会の行事次第についての詳細な考察があり、『維摩会講師坊引付』(東大史料編纂所蔵)、『南都一乗院延年舞図』(叡山文庫蔵)、『南都大乗院延年差図』(天理図書館蔵)、『維摩会開口并送表白』(東大寺図書館蔵)、『興福寺延年舞譜』(東北大学狩野文庫蔵)の各資料の影印・翻刻が載る。なかでも、『南都一乗院延年舞図』は、正徳四年(一七一四)の維摩会延年の様子を彩色で描いたもので、延年の実態を伝える資料として大変興味深い(本書の口絵にもカラー写真が掲載されている)。ただ、そこに描かれた東西一対の「山」を、楽屋と同様の建物と見る点については評者と見解を異にする。確かに、そこには稚児らしき人物や傘を手にした男が描かれ、「児の出仕の間」であったようにも見受けられるが、これは人形の作り物だった可能性はないだろうか。この「山」については、『南都大乗院延年差図』にも記事があり、「左右ニ山ヲツクリ、東ハシラヒケ、西ハ橋弁慶也」と見えるが、松尾氏はこれについても、「東の山は、猿楽能「白髭」の、西は「橋弁慶」の役者のための控所とされている」と、楽屋としての機能を見ておられる。しかし、興福寺延年の次第の中で能が演じられたという記録はなく(永享元年足利義教饗応の延年の際、四座猿楽が行われているが、これは基本的に延年とは別個の催しと認められる)、また仮に能が演じられていたとしても、楽屋について記す際、その能の演目まで明記する必要性はなく、「東方の能役者の楽屋」というような形で記録されるのが普通であろう。こうしたことから、維摩会延年の「山」は、能や説話を題材とした人形の作り物を飾ったものと見たいのだが如何。
さて、冒頭にも述べたように、松尾氏は本田安次氏の『延年』と全く異なった方法で、延年にアプローチしておられる。従来、寺院法会の後宴に行われた芸能大会という曖昧な把握しかなされていなかった延年であるが、松尾氏は、興福寺をはじめとする中央寺院の延年を詳細に検討され、衆徒の蜂起との関わり、また、示威の場としての政治的な意味など、延年の持つ多様な姿を描き出した。その点が、本書の持つ最大の価値であろう。ただ、対象を中央寺院の延年に絞った分、そこで描き出される延年像は、いまひとつ広がりと普遍性に欠けるように思われる。やはり、地方寺院に伝わる延年にも足を踏み入れ、それぞれの延年の歴史的な位置付けを果たした上で、総体としての「延年史」が述べられる必要性を強く感じた。むろん、そのことを松尾氏は百も御承知であり、「あとがき」の中で、毛越寺や日光山の延年についても今後考察を進める旨、記しておられる。本田氏の研究成果が、どのような形で松尾氏の研究と結実していくのか。今後の展開が大いに楽しみである。
(奈良県生駒市あすか野南2−10‐11)
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