工藤 威著『奥羽列藩同盟の基礎的研究』
評者:上松 俊弘
掲載誌:歴史評論649(2004.5)


  一

 著者は、戊辰戦争や奥羽列藩同盟の研究が停滞しているのはひとえに実証的研究の不足によるものとする。したがって、「戊辰戦争期の津軽藩を中心とする東北諸藩の動向を明らかにし、さらに奥羽列藩同盟の実態を成立過程を中心に明確にすること」が本書の目的であるとする(本書一〇頁)。章立ては以下の通りである。序章、第一章 王政復古への政治過程、第二章 鳥羽伏見の開戦と奥羽鎮撫総督の派遣、第三章 奥羽諸藩の動向と津軽藩の対応、第四章 白石会議の開催、第五章 嘆願後の仙台・米沢藩の動向、第六章 嘆願書の却下問題、第七章 世良下参謀の密書、第八章 「白石同盟」と「仙台同盟」の成立過程、第九章 九条総督と沢副総督の転陣問題、第一〇章 沢副総督の転陣と津軽藩の対応、第一一章 津軽藩の「藩論」決定過程、第一二章 秋田藩の同盟脱退経過、第一三章 津軽藩の同盟脱退、第一四章 所謂「東北朝廷」問題と同盟の崩壊、総括。内容の詳細な紹介は、紙幅の関係上省略させていただくことにする。

  二 

 列藩同盟は構成諸藩が多く、その全体像を把握することはなかなか困難な作業にもかかわらず、著者は列藩同盟の成立過程とその位置づけの明確化に意欲的に取り組み、独自の解釈を下した点をまず評価したい。著者によれば、従来位置づけが不明確であった「白石同盟」(閏四月二二日に盟約)と、その後に結ばれた「仙台同盟」(五月三日に盟約)とでは全く性格が異なるものだという。白石会議は、会津征討関係諸藩の協議によって会津藩の救解を目指した「嘆願同盟」として開催されたものであり、したがってその後に調印された「白石同盟」は、庄内藩征討問題も加わった奥羽諸藩全体の「嘆願同盟」であるとする(第四章)。これに対して「仙台同盟」は、会津・庄内両藩と共同戦線を結び、薩長両藩と敵対することを決定した「軍事同盟」であるとする(第八章)。また奥羽列藩同盟はその後、白石城内に「公議府」を設置し、公現法親王を推戴してより政権としての形を整えてゆくが、これを「東北朝廷」として一つの政権とみなす従来の見解に対しても、著者は公議府の決定が諸藩に対して拘束性を持たなかったことなどから政権と見なすことはできないとする(第一四章)。

 白石盟約書と仙台盟約書の違いを明確に指摘したのは佐々木克氏だが、確かにそこでは両者の盟約の内容の相違は説明するものの、両者を同一の性格の「防禦的嘆願同盟」とみなしていた(「奥羽列藩同盟の形成と性格」[『史苑』三二−二、一九七二年])。また列藩同盟を政権と見なすのかという問題に関しても、従来は同盟内部がどのように統制されていたのかまで踏み込んで議論することなく、「地域的諸藩連合政権」(同前)、もしくは「公議政体論=大政奉還コースの現実化した」性格を有する政権を目指したもの(原口清『戊辰戦争』塙書房、一九六三年、二三三頁)と見なしていたことも事実である(なお石井孝氏は「東北辺境型諸藩のル−ズな連合体」[同『戊辰戦争』吉川弘文館、一九八四年、三三〇頁]としている)。したがって本書は、より厳密な列藩同盟の段階的把握を試みたものと評価されよう。

 また津軽藩の同盟脱退に至る経過を詳細に検討して、従来の通説に対して新しい解釈を下している(第一一、一三章)。著者の論旨とは異なるが、津軽藩の同盟加入から脱退に至る動向の検討は、列藩同盟の結成が奥羽諸藩の政治行動をいかに統制・制約したのか、またこれによって奥羽諸藩にその後の政治行動の目的がいかに与えられたのかということにあらためて気づかされ、評者にとっては有益であった。

 さらに評価とは異なるが、著者が末松謙澄の『防長回天史』に対するこだわりを見せ、たとえば嘆願書が却下された日付や、「奥羽皆敵ト見テ」の一句で有名な世良修蔵の密書改竄説に対する検討などを詳細に行っていることも本書の特色の一つであり(第六、七章)、その他にも奥羽鎮撫総督附属の参謀交代の背景や(第二章)、「奥羽同盟列藩軍議書」作成日時の特定など(二一一〜四頁)興味深い事実も指摘されている。

  三

 結論から先に述べれば、同盟成立過程全般の経緯の説明に終始しているきらいがあり、それに比して肝心のテーマの分析と論証が不十分なものとなっている。また津軽藩からの視点が生かしきれておらず、先行研究に屋上屋を架す観があけ、著者が目指した実証的な研究という点では不満が残った。とりわけ本書の主要なテーマである奥羽列藩同盟の成立過程に関しては、評者がすでに述べた見解(「奥羽越列藩同盟の成立と米沢藩」[『歴史評論』六三一、二〇〇二年二月])と異なることもあり、また評者なりに疑問に感じた点もあるので、この同盟の成立過程とその性格規定に焦点を絞った形で議論をすすめてゆきたいと考える。

 まず著者と評者の白石盟約成立に至るまでの過程の違いをそれぞれ簡単に説明しておく。著者は白石盟約までの過程を次のようにとらえている。三月下旬以降、奥羽鎮撫総督府から仙台、米沢両藩に対して会津藩の征討が命じられる中で、両藩により会津藩の周旋工作が行われ始める。強硬な姿勢を崩さない会津藩を説得するために、仙米両藩は奥羽鎮撫総督府への嘆願成就の言質を会津藩に与え、さらに嘆願書が却下された場合の対処法として、すでに庄内藩との間に「会庄同盟」を結んでいた会津藩の強硬策に仙米両藩は同調していった。閏四月一一日に開催された白石会議は、会津藩征討関連の諸藩しか招集されなかったことから会津藩征討関連諸藩による「嘆願同盟」と位置づけられ、またその後に秋田、津軽藩なども加わり庄内藩征討問題が話し合われ、その上で結ばれた同月二二日の「白石盟約」は、太政官への嘆願を前提とする奥羽諸藩全体の「嘆願同盟」と位置づけられるとする。

 それに対して評者は、列藩同盟の出所は前年の一二月末に届いた徳川慶喜の奏聞書に応じる形での率兵上坂策に失敗した米沢藩が、それを打開する策として打ちだした「奥羽合従之策」にあり、当初藩の執行部は奥羽鎮撫総督府の会津藩征討の先鋒の命に応じる姿勢をみせたが、それに対する藩内の反対論が強く、一転して武力的解決も視野に入れた新たな会津藩周旋の方針(「四月一四日の決議」)を打ちだす。この決議を母体として閏四月一日に仙台、米沢、会津の三藩の間で会議が開かれ(「関宿会議」)、会津藩の降伏謝罪条件と嘆願が却下された場合の対応(武力的解決)が盟約された(「関宿盟約」)。そしてこの盟約に基づき白石会議が開催されたが、他の参集した諸藩に対しては、武力的解決が盛り込まれた関宿盟約の内容は開示されないまま白石盟約書に調印がなされたとした。

 本書では、閏四月一日の関宿会議後の夜、仙台と会津両藩だけの協議の場で、会津藩側から「会庄同盟」を基本とした同盟構想が示され、仙台藩がそれに同調したものと推測し(一七〇頁)、これが奥羽列藩同盟へとつながる端緒ととらえている。そしてその推測の根拠を「会庄同盟」の存在と(一六七〜八頁)、同月の二〇日に会津藩が白河城を攻撃し、同日に仙台藩士が世良修蔵を暗殺したことから両藩に軍事行動の密約があったとすること(四六三頁)の二点に求めている。

 まず同盟の構想であるが、著者は閏四月一日の関宿会議までは米沢藩にも会議や同盟の構想はなかったとしているが(一六九頁)、拙稿ではすでに前年の一一月に仙台藩の呼びかけにより京都で「奥羽会」が結成されている事実と、米沢藩の甘糟継成が率兵上坂策失敗の打開策として、その「奥羽会」をヒントに提唱した「奥羽合従之策」がその出所であることを指摘した。閏四月一日の関宿会議まで同盟の構想はなかったとしている本書は、少なくとも右の事実を見落としているのではないだろうか。

 さらに同盟の成立過程に関しても、関宿会議後の仙台、会津両藩の会談で果たして軍事行動の密約と同盟の構想が話し合われたのか、その肝心の会談の内容が不明のままでは論証が不十分ではあるまいか。その他にも米沢藩がその構想にいつ同意したかなど全く触れられていない。

 また同盟の性格規定に関しても、五月三日に結ばれた仙台盟約を「軍事同盟」とする新しい見解を打ちだしているが、嘆願同盟と軍事同盟は本質的に異なるにもかかわらず、わずか二週間足らずで軍事同盟へと転換した理由を、会津藩と軍事行動の密約をした仙台藩の強硬論にひきずられた結果であると結論づけるのは(二八七〜八、四六九頁)、政治的解決から一転して武力的解決に至るにはそれ相当の理由、動機づけといったものがなければならないと考える評者にとって説得力あるものとは思えない。

 拙稿で、「同盟の成立過程は単線ではなく、藩内部の政治動向や各藩相互の思惑などを背景に、複線的な動向・構造の上に成立していた」ことを指摘したが、根本的な問題は、著者が四月一四日の決議や関宿会議(なお本書ではそのような表現をとっていない)については触れるものの(一六四〜五、一六八〜七一頁)、それが米沢藩の方針の大きな転換であり、そこで仙台・米沢・会津の三藩の間で武力的解決を含んだ正式な盟約(関宿盟約)が結ばれたとの認識がなく、したがってそれらが結ばれる一方で、並行的に白石盟約と仙台盟約が結ばれていった複線的な構造であることを理解していないことにあると思われる。

 本書のテーマの一つである津軽藩の動向に関しても同じことが言える。たとえば本書では、勤王派の人数頭山崎所左衛門の説得により、藩主は一転して沢奥羽鎮撫副総督一行の津軽領内への転陣を承諾したことが津軽藩の同盟離脱の契機ととらえているが(三四五〜五四頁)、主な人名を除いては、勤王派の形成、人脈、影響力といったものが全く明らかにされていない。また同盟脱退後に同盟遵守を主張するグループによる脱藩騒動が起きているが(弘前市史編纂委員会『弘前市史 藩政編』名著出版、一九七三年、八二九〜三〇頁)、彼等と勤王派との関係に関しても同様である。藩内の政治動向もまた複線的な構造であり、それを理解したうえで同盟の成立過程を理解する視点を持つべきであり、またそれが津軽藩からの視点を生かす一つの方法ではないのだろうか。

 さて本書では、仙台同盟を軍事同盟と規定する理由を以下の二点に求めている。著者はまず閏四月二九日から会津藩が仙台での列藩会議に参加を許されたことを、奥羽諸藩はこれにより「会津・庄内両藩との共同を決め、薩摩・長州両藩と敵対することを決定した」(二九三頁)と解釈する。さらに津軽藩の動向から同盟の性格の変化を読み取ろうとする。すなわち津軽藩では、仙台同盟成立の報がもたらされると一転して沢奥羽鎮撫副総督一行の転陣を拒否し、藩境封鎖を行い、場合により開戦が指示される(三四一〜五、四七二頁)。著者はこれを津軽藩が仙台盟約を軍事同盟と受け取っていたことの証拠とみなす。

 著者は仙台、会津両藩の軍事密約を前提として、会津藩の会議への参加がすなわち軍事同盟への転換と考えているようだが、先にも述べたようにその密約の存在は論証されてはいないのである。おそらく仙台藩の但木らのグループと会津藩との間では、世良の暗殺や白河城の奪取などの計画は存在したものと思われるが、仙台藩内部の複雑な政治勢力とその対抗関係を解明したうえで、閏四月一日の密約なるものを明確に論証しないかぎり、著者の主張する同盟の成立過程とその性格規定そのものが成立しないのではないだろうか。

 また本書では、沢副総督一行の転陣を五月一〇日に許可したのは白石同盟を軍事同盟とみなしていなかったからであり、それに対して仙台同盟が伝えられると一転して一二日に拒否の姿勢を打ち出したのは、これを軍事同盟と解釈していたからだとする。しかし、それ以前の七日には白石盟約に基づいて転陣を拒否し、薩長兵が強行に通行した場合の「臨時取計」が指示されている(三三五〜七頁)。これは、一二日の仙台同盟を受けての対応と全く同じということになり、同盟の解釈の相違から対応が異なったとする著者の主張と矛盾する。著者の説によれば、津軽藩の態度はわずか一週間の間に転陣拒否から受容へ、そして再び拒否へと目まぐるしく変わっていることになるが、これは白石同盟と仙台同盟の解釈の相違からくる対応の違いというよりも、むしろ本書を読むかぎりにおいて、一〇日の転陣許可は秋田藩との関係を重視した一時的なものであり、一二日の決定は同盟の正式な成立を受けての対応で、同盟に対する対応は一貫していたと解釈したほうが妥当であると考える。

 最後に列藩同盟の評価に関してだが、著者は奥羽列藩同盟を政権として機能する前に崩壊したと見なす(第一四章、四六五〜七〇頁)。そして、結果的に列藩同盟は軍事同盟へと変貌したが、本来は「事態の和平策による収拾を目指した奥羽諸藩の連合体」であったと結論づける(四七〇〜一頁)。確かに同盟は著者が主張するように政権としては十分に機能しなかったと考えるが、仙台同盟を軍事同盟とする新しい見解に比して、結論は安易すぎるように思われる。評者は、仙台盟約は諸藩の衆議を前提として一部の大藩の強権を否定し、同盟の義務行為や制約関係をより明確にしたものとする佐々木氏の見解(『戊辰戦争』中公新書、一九七七年、一二〇頁)に基本的に賛成だが、仙台盟約書の分析を全く行っていない著者は、この見解をどのように考えるのだろうか。本書では仙台藩の独走と定見のないその他の諸藩の行動が随所で強調されているが、その仙台藩の独走を抑止することがこの盟約書の一つの眼目ではなかったのか。津軽藩の執行部が早くから同盟脱退を考えていたにもかかわらず、藩内の世論の大勢が同盟遵守、すなわち「真正ノ勤王」を主張したように(三七三頁)、仙台盟約による列藩同盟の結成は、その後の各藩に明確な政治行動の目的を与えたのではないのだろうか。また秋田藩の同盟離脱の際、同盟諸藩はその盟約に基づき秋田藩領内に軍事進攻し制裁を加えたように、同盟の成立は現実に各藩の行動を統制、制約していったのではないだろうか。同盟の負の部分ばかりに視線を向けるのではなく、これらの意味するところをもっと吟味して欲しかったと考える。

 奈良本辰也氏はかつてエンゲルスの言葉を引用して、「歴史の転換が、つねにのっぴきならない一本の糸によって縛られているとみることの不自然さを考えるべきであろう」(同「雄藩の台頭」[『岩波講座 日本歴史』一三巻、岩波書店、一九六四年])と述べたが、いわゆる武力討幕派だけが日本の対外的自立の危機や新政権樹立の必要性をことさら感じて行動を起こしたわけではないだろう。列藩同盟はなぜ武力的解決を目指し始めたのか、この点に関しては先行研究も等閑であったが、今後は戊辰戦争を維新政権成立の一過程という視点から捉えるのではなく、戊辰戦争が明治国家の成立に果たした役割を今一度別の視点から捉え直したうえで、列藩同盟の意義を位置づける必要性があるものと考える。そして、これらの点を解明して初めて列藩同盟の全体像が見えてくるものと思われる。無論これらは著者一人が責を負うのではなく、評者も含めての課題である。

 本書の上梓によって再びこの分野の議論が深まり、より今後の研究が活性化することをぜひ期待したい。
(うえまつ としひろ)


詳細へ 注文へ 戻る