阿部 昭・長谷川伸三編『明治維新期の民衆運動』
評者:落合 延孝
掲載誌:歴史学研究787(2004.4)


                  T  

 本書は,1995年12月に栃木県歴史文化研究会の近世・近代史セミナーが,茨城・栃木・群馬の3県を中心に近世・近現代史の研究者に呼びかけてはじめた「地域社会と近代化シンポジウム」の成果を反映したものである。北開東をフィールドとして近代移行期をテーマとした研究会の報告集である。

 本書の構成は,以下の通りである。(中略)

 北開東における幕末維新期の世直しや村方騒動を主に取り扱い,第六章は豪農層(地域指導者)の地域社会秩序編成の論理とそれに対峙する民衆運動と対立の構図を明らかにしている。

 幕末維新期の民衆運動をテーマとしているが,執筆者によって切り口は異なる。 第一の切り口は,幕末維新期の政治闘争と民衆運動との関連を分析したものである。水戸藩の権力闘争と民衆運動との関連を分析した第二章の高橋裕文論文と戊辰戦争下の武州北部の打こわしを分析した第五章の長谷川伸三論文である。

 第二の切り口は,世直しの運動様式を論じたものである。野州の世直しを分析した第三章の齋藤悦正論文である。

 第三の切り口は,米市場との関連で西上州と信州佐久地方の世直しを論じた第四章の中島明論文である。

 第四の切り口は,豪農層(地域指導者)の地域社会秩序編成の論理とそれに対峙する民衆運動との対立の構図を明らかにしたものである。第一章の高橋実論文は,地域農民にとって維新期の政治社会とは何であったのか,それをどう受け止め,いかに対応し,どう行動したのかという視角から,村々の明治維新を分析している。第六章の阿部昭論文は,豪農層(地域指導者)の地域社会秩序編成の論理と,それに対峙するかたちで展開した民衆運動の動きの両面から,その対立の構図を明らかにしようとした論考である。

                  U                    

 本書の意義と問題点を著者たちの切り口に即して検討したい。 第1に,世直しと権力との関係である。世直しはあくまでも経済的要因から起こったものであり,「世直し」観念に政治性がないという誤解をもつ研究者が少なくない。高橋裕文論文や長谷川論文を読むと,藩権力の分裂や幕府権力の崩壊とその後の在地の秩序のあり方が騒動を規定していることをあらためて認識させられる。

 高橋裕文論文は,1864年(元治元)水戸藩の天狗党と諸生派との内乱状況のなかで,天狗党の金策・暴行に反発を持った民衆が独自に村々を自衛し,天句党への荷担を理由に村役人・豪農・商人・神官宅を打こわしている事例を紹介している。そして,明台維新になって,水戸藩政が尊攘派に代わると,諸生派追討が命ぜられ,元治元年の打こわしとその成果は否定される。打こわしの責任をとって逮捕・処罰され,村ぐるみ詫びをさせられるという逆転した事態が生じたことを明らかにしている。

 長谷川論文は,東征軍によって焼き払われた幕府の羽生陣屋崩壊後の,羽生を中心とした武州北部の騒動を分析している。特に,西大輪村の質屋左一郎が質入れ人の質物請戻しを拒否するために質物を隠匿し,自分の倅や下男などに官軍の衣装を身につけさせて農民たちを妨害した偽官軍騒動は興味深い。左一郎が農民に対抗するために,在地権力の動向を見極めながら訴訟先を変えていることに注意を払う必要がある。  維新政府の成立によって世直しの成果がどのような形で否定されていくのか,維新政府と旧来の権力との差をどのように考えるのかという問題をもっと突きつめる必要がある。 評者も上州世直しを検討する機会があったが,世直しの質物の取戻しなどの要求がどこまで貫徹したかは,幕藩権力と豪農層と民衆との力関係で決まることが多く,各地域の状況によって異なっている。たとえば,七日市藩の御用商人への打こわしは,打こわし勢との交渉の上で,七日市藩の役人が商人の家を打こわし,所払いの処分を下しているのである。また上野国甘楽郡国峯村の打こわしは,小幡藩役人と打こわし勢の頭取との協議の上で,質蔵以外の居宅・物置・表門・塀・雪隠・家財・建具類・井戸から小道具・煙草に至るまで破壊している。七日市藩は1万石,小幡藩は2万石の小藩であるため,世直し勢を抑えることができないどころか,藩の公認のもとで打こわしが執行されている。国峯村では,2月下旬に質入蔵の質物も村役人立会の下で,質物が残らず無償返還された。その後も質物の無償返還の状態が持続し,経済的な秩序は回復していない。維新政府によって6月に岩鼻県が設置され,支配秩序が安定化する中で経済秩序も回復し,田村家の金融活動も6月中旬より再開する。打こわしの際に無償返還された質物を「貸渡」しておいたとして,自分の元に質物を回収し始めている(拙稿「世直しと質物の返還」『群馬大が教養部紀要』第23巻,1989年)。質物をめぐる攻防も,民衆と質屋との関係だけでなく,旧来の幕藩権力の支配状況や維新権力の地域支配の成立と深く関わっている。 

 また,水戸天狗党の活動は常陸国だけで完結するでのはなく,北開東一帯にまで大きな影響を与えている。1864年(元治元)5月中旬から下旬にかけて,水戸浪士は軍用金調達のために野州・武州・上州まで来て,5千両余の御用金の強奪を承諾させている。前橋藩以外では浪士たちの行動を阻止することができず,この事件を契機に非常事態の防衛のために農兵隊を組織した村もあった。改革組合村大惣代が1千両の大金を強奪された村もあり,小藩の領主権力の無力さを認識し,郷土防衛のための農兵隊を組織する必要性を痛感したのである。

 前年(1863)には,武州榛沢郡中瀬村の桃井儀八(可堂)や榛沢郡血洗島村の渋沢栄一などが,攘夷の旗揚げをした後横浜を焼き払うという挙兵計画を図っている(未遂に終わる)。天狗党の野州・上州・武州での御用金強奪の動きを見ると,その地域の天狗党の出身者が導いており,関東全域の尊王攘夷運動との関連で深める必要がある。  

 第2に,世直しの運動様式の問題である。打こわしは,訴願を伴わない,本来的な一揆の作法からはずれた行動であり,「窮民救済」を掲げて正当性を主張する行為である。上州や野州の世直しは無宿・博徒などが頭取となり,村の外部から債務破棄や金穀拠出の要求を村役人や有徳人に突きつける事例が多い。 近年,須田努は,逸脱する人々の行為への関心が十分に向けられなかった研究を批判し,世直しを「逸脱への視座」,打こわし勢の焼き打ち,武器の使用などの民衆運動の暴力行使を問題にした(『「悪党」の一九世紀 民衆運動の変質と“近代移行期”』,青木書店,2002年)。世直しを百姓とは異質な無宿博徒などの「悪党」から捉え直す研究である。  

 これに対して,齋藤論文は,世直し勢の要求が「一同証文」(質物返還を各人で個々に交渉して獲得するのではなく,村中一同で統一した交渉によって条件を獲得する)という形で要求し,獲得項目の確実性を村役人の保証,従来の村社会に求めているとしている。質物返還証文に村役人の奥印を要求するのは,村や地域を立脚点として行動したのであり,「村社会や地域社会を否定するものではなかった」と評価している。

 たしかに最初は無宿・博徒たちが「頭取」となるが,彼らの「押領」や不正が明らかになると,世直し勢の手で殺害されている。彼らは「起爆剤」としての役割を果たしているが,債務破棄や金穀拠出の要求の実現は,村や組単位で民衆自らの力で獲得しようとしている。須田の暴力論と齋藤論文の「村社会や地域社会を否定」するものではないという評価をどのように捉えるかは,過渡期の民衆運動を考える時の大切な論点といえる。須田が提起した民衆運動の暴力行使の問題は,廃藩置県以後の新政反対一揆の段階で本格的に議論されるべきであろうと評者は考えている。

 本書には齋藤論文以外に,世直しの運動様式それ自体を対象とした論文は掲載されていない。この点については,保坂智『百姓一揆とその作法』(吉川弘文館,2002年)が廻状と張札について論究している。1780年代以前は廻状による動員が一般的であり,19世紀の文化文政期になると,主たる動員方法が張札となり,廻状が廻された場合でも副次的なものとなることを指摘している。農民層分解の進展による村内対立の激化,村と村との間の利害対立の激化により,廻状による動員が困難となり,直接個人に参知を呼びかける方が有効となるからである。この点からの研究の深化が求められる。

 第3に,世直しと市場構造との関連である。1960年代から70年代にかけて,世直しの個別研究が盛んに行われた頃,豪農−半プロの農民層分解論で一揆の経済的分析が盛んに行われた。社会経済史を中心とした戦後歴史学への批判とともに,一揆の経済史的分析はあまり行われなくなっている。その意味では,西上州と信州佐久地方の世直しを米市場との関連で分析した中島論文の視点は重要である。

 当時の経済史研究は,村や地域社会における農民層分解や階層構造の分析は精緻に行われたが,地域社会を全国市場との関連で具体的に分析する視点が弱かったのではないかと評者は反省している。

 たとえば,個別の一揆研究は史料の発掘とともに深化していったが,武州一揆と信達一揆を全国市場との関連で分析することはなかった。周知のように,武州一揆は1866年(慶応2)6月13日夜から19日に,信達一揆は6月15日から20日とほぼ同時期に発生した。評者は近年,森村新蔵「享和以来新聞記」という情報留を分析しているが,その中には蚕種生糸会所の取立を歎願する豪農たちが,奥州・出羽・常陸・下野・下総・信州・越後・武州・上総・房州・ 甲斐・相州・上州などの13か国にまたがるネットワークを設けていることが明らかになっている(拙稿「武州一揆の史料紹介」『群馬大学社会情報学部研究論集』第10巻,2003年)。武州一揆と信達一揆がほぼ同時に発生する理由を,奥州−関東−甲信越東日本にまたがる蚕種・生糸の広い市場圏のなかで位置づけ直すことが必要となっている。

                  V             

 上層の村役人・豪農層を主体に領主層とも連携し地域産業を振興し,住民生活の向上を目指すことに新たな社会秩序形成の方途を見出そうとする運動展開と,そうした活動が逆に住民の負担を増し,いっそうの生活難をもたらすという共同体維持の立場からの物価統制と,社会的救済を要求する小前・貧農層を主軸とする下層の運動展開とが同時併存していることを阿部昭論文は指摘している。

 豪農・村役人層と民衆との対抗をどのように捉えるかという問題である。この問題は佐々木潤之介の豪農−半プロ論の提起以来議論され,1980年代以降,久留島浩・薮田貫・平川新・渡辺尚志などによる近世の豪農・村役人層の政治的・経済的・社会的・文化的力量を明らかにする具体的な研究が大きく前進してきた。豪農・村役人らの中間層を総体として把握し,領主権力や小農民・半プロとは異なる彼らの独白の運動論理が明らかにされてきた。

 さらに,岩田浩太郎「豪農経営と地域編成  全国市場との関係をふまえて  」(『歴史学研究』755号,2001年10月),全国市場と地域市場とを結ぶ広域的な市場関係論(斎藤善之の一連の研究),菊池勇夫の東北史像の再構成(「方法としての地域 東北史像をめぐって」『日本を問い直す』,岩波書店,2002年)などの新たな試みによって,地域社会は全国市場や文化交流との関連で議論されはじめた。

 このような研究動向を踏まえると,民衆運動や中間層の研究も,地域史料だけでなく,『編年百姓一揆史料集成』(三一書房)の膨大なデータベースや全国市場の広域的な視野を持ちながら個別研究に着手しなければならない時代に入ったといえる。

 最後に,「地域社会と近代化シンポジウム」の会報は毎回,報告要旨と報告に対するコメントを掲載している。研究会の討論の雰囲気を伝える意味でも,報告へのコメントも本書に掲載してほしかった。

 また,同会報の第6号(1998年9月)にはシンポジウムの中間総括(阿部昭・丑木幸男)が掲載されており,個別論文を繋ぐ総括的な論文があれば,今後の研究のあり方を探る上で参考になったと考える。見出しのなかに記述とは異なる「誤まった見出し」もあり,執筆者と編集者の編集作業を丁寧にしてほしいという要望を述べたい。


詳細へ 注文へ 戻る