砂川博著『中世遊行聖の図像学』
評者・梅谷繁樹 掲載紙 日本文学 48-10 (99.10)


本書は、本編全九章と付編三編の、五百十頁余の膨大な著作であるが、紙数の関係で、評者の恣意によって選択して述べることを了承されたい。
第一章は、最近の『聖絵』研究が十九項目に渡って手際よく整理されている。
まず、「善光寺参詣」の項の、一遍が善光寺で二河白道の図を見て感動し、自己の浄土教観(十一不二の頌)を体得した箇所を取り上げたい。一遍は、本格的な遊行の前に、十二年間九州の聖達上人の下で浄土宗西山義の学問修行をしたのに、二河白道や浄土宗西山義の域を出ぬ頌という、浄土教の常識について、今更どうして言挙げするのかについての氏の注目と見解がないのは不審である。これは『聖絵』の構想や一遍の語録の形成と深くかかわる問題であるから、いきなりないものねだりのようだが言及した。
次に、「一の人」の項について、『聖絵』の末尾の「一人のすゝめ」の「一人」の意味について、黒田日出男の「勧進」説への、氏の意見がどこかでほしかった。
第二章は、第一章をふまえて、従来の研究に対する氏の新たな見解が六ヵ条に渡って示されている。
ここで特筆すべきは「描かれざる聖達」の項である。『聖絵』は聖達の顔・姿を描かないのである。その理由を、氏は一遍が聖達を「智者」と評したことで、『聖絵』の制作者聖戒(一遍の異母弟)が描くことに「思いあぐね、ためらったのでは」としている。
「騎馬武者の一団」の項では、前述黒田の「狩猟の旅」説に異を唱え、武者の右腰の箙が実戦用の逆頬箙であると指摘していて、軍記研究者としての氏の面目が窺える。
「市屋道場」の項では、黒田説が空也五輪塔を画面上部(主題)に位置づけたため、南北が逆になったとするのに対し、踊り屋の上方部には群衆を描かないという構図上の問題だとする。これも氏の新見である。
第三章は、一遍遊行の節目の十一場面に桜が描かれていることを指摘し、一遍の民俗的宗教的体験があったからであろうとする。これを一番よく示しているのは一遍ら河野氏の氏神である伊予大山祇神社(大三島社)の桜会で、これは鎮魂と疫霊退散と豊作の祈願の神事であるとする。また、花の本教願の結縁や一遍が遊行以前に籠もった伊予の菅生寺の観音像が桜の木であることにも注意を喚起している。
その通りかと思うが、氏が「深読み」を懸念しているように、『聖絵』のインパクトからすると、隠喩とするには少し軽いという印象を持つ。
第四章では、一遍が熊野の神に問わなかった、「浄不浄を嫌わず」念仏札を配れという神託について氏の考えを述べている。一遍は熊野参詣前に四天王寺で札配りをしている。寺の築地の外に非人・乞食ら当時不浄とされた人々が描かれていて、これが一遍の念頭にあったのではないかとする。この点は詞書にないのが少し気になる。経典では「闡提」「十悪・五逆」を明らかに救済に漏れるとしているのもあるから、この点ここまでの一遍がどうであったか気になるところである。
次に、一遍は熊野参詣途中、『聖絵』では一人の僧に信がないからと念仏札を拒否されるが、『絵詞伝』ではこの僧を律僧としている。これは、一遍の後、時衆教団を組織した二祖他阿真教が律宗と競合関係にあったからだとする。傍証として井原今朝男が鎌倉末期に善光寺信仰の布教をめぐり、念仏堂(妻戸)時衆と西大寺流律僧の「対立・抗争」があったとする説を引いている。また、『沙石集』の記事も同様に引いているが、律宗の方に強力な証拠があるか不勉強で存知しない。
第五章で、氏は『絵詞伝』を正統的時衆教団史とし、一遍や真教のカリスマ性を強調する。それは当然のことではあるが、例えば、河内太子廟での秘事を一遍が真教に語ったこと(『聖絵』)を『絵詞伝』は引用しない。この理由を、氏は廟が旧仏教に属すること、時衆の教線外にあったからとするが、これは真教の教団継承者資格を言う絶好の件であるから一考の余地があろう。
乞食・非人の問題では、尾張甚目寺の項で、その組織化が教団によって始まったことを明示せんとしたとする。しかし、それが遊行(移動)の教団にどの程度可能であったろうか。
なお、『聖絵』と『絵詞伝』が共に素材(一遍も真教も近江・多賀社に参詣)を熟知しながら捨象したことへの言及もほしかった。
第六章は、真教の教団継承と確立の根拠を追求する。資料の『絵詞伝』そのものが、真教が遊行に出る前に、教団継承者としての資格を持ったことを明示しないため、氏は越前に遊行に出てからの奇跡・奇瑞を根拠にするが、少し苦しい主張である。越前は、延慶本『平家』などで「畜生国」とするため、ここを布教せんとして最初の遊行地としたとするが、この「畜生国」がどの程度の普遍性を持って越前国をイメージしていたか知りたいところである。
第七章は、真教が第三の一遍行状伝十巻(原本なく、写本・抄本の残存可能性あり)を熊野本宮に奉納した『奉納縁起記』(以下『縁起記』と格称)の考察である。
『縁起記』では一遍が建治年中、宇佐→石清水→熊野に参詣したとし、とくに一遍の安心の獲得が熊野でなく、石清水とする。氏はこの大問題にとまどうが、石清水の本地が生身の弥柁で、真教も自身弥陀だと言っていること、一方で嘉元年中の蒙古襲来ともかかわって、本記が石清水を重視したとするが、熊野への奉納の縁起であるから一考を要する。
中世は新たな神話の創世期であるらしいから、真教もそういう線で一遍と時衆史を書こうとして挫折したのではないか。一方、この第三の一遍伝が世に隠れ、『絵詞伝』が流布しているのは、氏がかすかに疑うように、あるいは本記が真教の作でないのかもしれない。
第八章の『明徳記』作者論と第九章の『鎌倉殿物語』と念仏比丘尼の論考の評は省略。
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