大石 学編『近世国家の権力構造−政治・支配・行政−』
評者:深谷 克己
掲載誌:地方史研究306(2003.12)


 本書は、「東京学芸大学近世史研究会」の「共同研究」を集約したもので、前年公表した『高家今川氏の知行所支配』(名著出版)に続く二つ目の成果であり、続編として『近世国家権力と公文書システム』の公刊も計画しているという。本書は、大石学を指導教員として作成された卒論・修論を、学界に提起できるまでに発展させた成果でもある。

 日本近世史の研究力量がどのように維持され、どこで活性化のエネルギーが与えられているのかを考えてみると、学会、研究会、大学の教育研究活動、研究所の調査活動や自治体の歴史編纂、文化財保存事業など、多様な場所で指導ないしは助言が行われ、それに応えて若手や後進・初心者が問題設定から史料解釈、論理構成までの研鑽を積んでいることに思い至る。本書は、熱意と全体像への見識を持った教師と自己啓発を求める学生が出会えば、たいへん大きな成果が大学で生み出されることを証明した成果でもある。

 本書には、論集完成までの活動記録や、十本の論稿の要旨、全体の狙いのなかでの位置づけが丁寧に記されているが、まだ見ていない方々のために各章を紹介する。序章には、本書の狙いと分析視角、目次構成と各章の要旨が記される。第一章「寛永期一柳氏の分知について−家臣団とアーカイブズの分割−」(大石学)は、家臣団・文書の分割を伴う分知を経て大名・旗本としての基礎が確立されることを明らかにする。第二章「近世天皇葬送儀礼確立の政治史的意義−後光明天皇葬送儀礼の検討を中心に−」(野村玄)は、天皇の即位から死にいたる推移に幕府が関与することで、逆に天皇存在に規定されることを検証する。第三章「越後騒動に関する一考察−幕藩権力構造分析の視点から−」(佐藤宏之)は、高田藩松平家の将軍親裁による改易から、津山藩松平家としての再興にいたる過程で、大名家の自律性が喪われ国家の「機関」化が進んだとする。第四章「水戸藩連枝の支配機構−守山藩常陸領を中心に−」(根本俊)は、陣屋にわずか十数人の藩士が駐在し、支配業務は時に三五〇人をこえる百姓登用の山横目などの在地役人が執行したことを証明する。第五章は「享保初期政権に関する一考察−徳山毛利藩再興運動を中心に−」(中村大介)は、支藩徳山藩が改易後、吉宗政権の下での運動によって再興されたことについて、国家掌握を強めようとする将軍の意図と、領民参加の運動が合致した結果であったとする。第六章「御三卿の領地変遷」(竹村誠)は、一橋・田安・清水家の領知を克明に復元し、知行所が当主の公務の基盤になったことを証明する。第七章「転封に関する一考察−明和四年前橋藩松平朝矩川越転封の実態−」(橋本光晴)は、転封の実態を検討し、藩主家族、家臣団、寺院の引越しを明らかにする。第八章「高家の知行所支配−戸田氏・今川氏を事例に−」(福井那佳子)は、高家の知行所支配を検討し、知行所農民が高家独特の人足役を負担したことを明らかにする。第九章「幕末期の旗本の「役」と知行所支配−一五〇〇石の旗本牧野氏を事例に−」(野村禎司)は、幕末の旗本が家政改革と積金仕法を行って「役」を遂行しようとしたことを論証する。第十章「近代移行期、官僚組織編成における幕府官僚に関する統計的検討−『明治五年官員全書』を中心に−」(三野行徳)は、江戸幕府から明治幕府への移行に当たり、新政府の約三割が旧幕府官僚であったことを検証する。

 各章は、「役」を近世国家の統合原理と見る大石氏の序章「課題・視角」のなかに組み込まれることで、本書を構成する部分としての意義を発揮している。「役」をキーワードに近世国家を説明することは大石氏の創始ではないが、近世の全体像を「役」論で整合させようとする意欲は大石氏のものである。

 序章で大石氏は、近世国家は「中世権力の多元性・分散性」を克服し、「近代国民国家の一元的権力」を「準備するという歴史的位置」にあるという。「権力構造」として横断的に見ると、「天皇・公家・寺社・武士などの諸勢力が、将軍を中心に国家的規模で編成された」体制であるという。近世は「国家権力機構」と「民間社会」が向き合い、前者は天皇と将軍を頂点とし、天皇は公家を従え、将軍は寺社・旗本・大名を従える。「民間社会」はそれぞれに対応し、天皇に直接向き合う「禁裏御料」、公家に向き合う公家領、将軍に直接向き合う幕領、大名・旗本・寺社に向き合う藩領・知行地・寺社領から構成される。各領地・知行地は国家的な「役」を果たす基盤として保障されている。 本書の各章は、「動態的視角」(権力間、権力・支配民衆間の緊張・対立、統合・依存関係の具体的分析)に立って、「役」を軸に権力・社会の両方を視野に入れることをめざした研究であり、「権力構造」論に当てはめると、朝廷権力論(第二章)、旗本権力論(第八・九章)、大名権力論(第一・三・四・五・七章)、幕府権力論(第六・十章)となる。大石氏によれば、近世権力の展開は、「役を安定的に遂行するために、機構やシステムを合理化・客観化していく過程」だという。本書の各章が明らかにした、「大名の分知、朝廷統制、御家騒動、幕政改革、藩の廃絶と再興、旗本の家政改革、官僚化の進展などの諸事象」は、その重要な場面であったという。

 紹介を一歩こえた批評を述べると、一つは、「役」が説明概念としても実態概念としても使われて、不統一の印象を与える点である。「役」を諸権力が国家に統合される原理であるとするのは、おおよその線で納得できる。ただし本書は、原理とするだけでなく、それぞれの家役を果たす固有の負担が領民に課されることを明らかにしている。そういう部分があることはたしかだが、百姓は固有の役向きのためというより、大名なり旗本なりの機構の再生産を担うために基本の「年貢諸役」を課されている。百姓論の観点から近世国家を見ると、やや脇門を叩いている印象となる。ついでに言うと、「役」論で社会まで降りたのは評価できるが、ここからは百姓成立・御救論のような近世の政治文化は出てこない。百姓論・地域論があるのに上部構造論になってしまう。一工夫ほしい。

 二つは、多元的分散的な中世権力と一元的な近代国民国家の中途に近世国家があるという理解に立つため、諸権力が国家機関化の方向に一元化を強めていくとする点である。この解釈で新しい論点がでている章もあるが、明治国家と比較すると異質さを持つことも明確にしなければならない。私は、大名−藩世界の国家的性格は潜伏的に持続しており、その人格的象徴が大名の明君であると見る。「地方自治体」ではないということである。

 三つは、近世国家の動向を、秩序を維持させ「役」を遂行するために「機構やシステムを合理化・客観化していく過程」とし、幕末期の諸改革にもその理解を適用する点である。日本近世史は、常に三つの質問に同時に対応することが求められる。一はなぜ二世紀半余の長期政権であることが可能だったのか。二はしかしなぜそれが解体したのか。三は明治以降につながる要素・種子をどのように貯えているのか。本書は一と三の質問に答えているが、二の質問に答えていない。近世国家の機能不全化、公儀離れの拡大という論点が組み込まれていないのである。

 本書は執筆者の若々しい力に研究の深化を期待したい。


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