岡山藩研究会編『藩世界の意識と関係』
評者:守屋 浩光
掲載誌:「法制史研究」51 法制史学会(2002.3)


 本書の構成は、編集委員会による総論、T村社会(二論文)、U大名権力と家中・領国支配(五論文)、V藩と幕府(四論文)という構成になっている。各部の意義、個別論文の位置づけについては、総論の中で「藩世界」「意識と関係」というキーワードの含意も含めて述べられている。さらに各論文の冒頭に「論文要旨」を設けて、執筆者自身が特に主張したい点を明確にするなど、共同研究としてのまとまりと執筆者固有の主張との両立を図る意図は十分に理解できる。ただ論旨を確認するのに、いろいろな部分をめくる必要があり若干煩雑な感はある。

 紙幅が限られているので、本書評では、研究会の共同研究の方針や個別論文を位置づける総論の部分には触れないが、「マイクロ史料の活用」の部分について、若干私見を述べたい。本研究会発足のきっかけは、丸善株式会社から『池田家文庫藩政史料(古文書・古記録)マイクロ版集成』が刊行されたことであり、発足当初マイクロ史料を共同研究にどのように取り入れるかが議論されたらしい。その過程では、マイクロフィルムをプリントアウト→スキャンを通じてデジタル画像化し、ホームページ公開することでデータベースを作成することも話題になったとある。しかし、著作者の問題やデジタルデータ化に費やす労力と作成後の効果、料紙の質や原秩序などフィルム化、デジタル化してしまっては分からない情報があることから、現地調査をできる限り実施することにしたということである。商業目的で作成されたものを研究会レベルでデジタルデータ化することの限界や、安易に入手できる情報のみで事足れりとする危険など、研究会としての結論は納得できる(他に研究者間のいわゆるdigital divide の問題もある)が、他方で入手した史料情報をデジタル化することの必要性・重要性も指摘したい。特に研究会の構成員が全国各地に散っていて、容易に会合をもてない状況のもとで、史料を翻刻するなどの共同作業を行う際には、インターネットを通じた史料データのダウンロードが非常に便利であることは評者自身実感するところである。評者が所属している藩法研究会でも、藩法史料のデータベース化をにらんでデジタル化した史料画像を会員限定のホームページに掲載し、共同研究作業や翻刻作業の材料としようと試みている。

 さて各論文に対する書評であるが、本書評では、齋藤悦正「一七世紀の村社会と内済の成立過程−村の自立と公儀支配−」、深谷克己「近世における教諭支配」、谷口眞子 「無礼討ちに見る武士身分と社会」の三論文を取り上げる。法や裁判、さらに広く国制に関係する論文は他にも掲載されているが、紙幅の都合で評者の狭い問題関心から選定させていただきたい。

 まず齋藤論文であるが、内済という紛争解決処理手段の採用を幕藩権力による在地の把握、支配貫徹のための介入という性格を持ちつつも、在地の自立性を前提するものであると理解した上で、岡山藩が、一七世紀中盤まで在地で起こる紛争解決に際して扱人の選任以外に調停の内容には介入しない姿勢をとっていたのが、承応年間の地方支配機構改革(特に大庄屋の廃止)を契機として、済口証文を提出させることにより紛争解決過程を掌握しようとしていること、対する在地側も内済を幕藩権力への出訴なども含めて様々な紛争解決手段の一つと位置づけ、幕藩権力を介在させない内々での紛争解決も含めて選択・利用しようとしたと主張する。

 集団で提起される公儀権力への訴訟を、強訴から個別の陳情・請願に至る民衆運動の範疇の中で捉えるべきであると考える評者としては、齋藤氏の論旨には大いに共感する。訴訟制度を用意する幕藩権力の視点からだけでなく、訴訟を利用する在地側の立場からも紛争解決制度を考察し、両者のせめぎ合いの中で位置づけようとする姿勢は今後も注目したい。

 ただ、論旨と関係ないところで付言すれば、齋藤氏が挙げる境界紛争や村方騒動における「内済」と金公事に関する「内済」とは、かなりイメージが異なるのもまた事実である(このことについては、すでに笠谷和比古氏が内済を類型化する中で述べている)。内済に対する消極的評価は、多くが幕府が金公事を内済で解決するよう強制したことに向けられたものであり、幕府が専ら紛争処理負担の回避を目的として内済を活用しようとしたことを批判しているのである。内済の紛争解決手段としての性格付けは、我々法制史家の仕事ということになるかも知れないが、評者としては、紛争の内容・性格と紛争解決方式との関係にも注意を払った分析を期待したい。

 次に深谷論文の書評に移る。本論文は軍事的支配から法度支配へという近年の日本近世史研究の理解に同意を示しながら、同時に支配における人格的影響の比重が高いことを指摘し、法度による支配と並んで教諭・教令による支配の重要性を説く。また筆者は次のようなことも主張する。君主の教諭の重要性は災害のような社会危機の中で強調されるのであるが、それは上意が一方的に下達されるようなものではなく、領民のおこす「訴」や家中の提出する「諌言」を踏まえ、それに対する領主の答えという形で投げ返されるものであった。これら諸身分の「異見」のやり取りが、近世的な「法度支配」とは別系統の「教諭支配」として形をあらわす。さらに法度と教諭にそれぞれふさわしい発令環境が求められるようになり、教諭は儀礼の場で、法度は行政の場で発令される。教諭は成分化され、さらに別の教令・法令の中で引用されることにより、後世まで効力が保たれた。本論文の説くところは、以上のようなものである。

 前述したように、近世は「法度支配の時代」である、という理解が近年主流になっているが、だからといって支配における領主の人格への依存が決して小さいわけではない。本論文は、「法による支配」と「人格的支配」が併存し、なおかつ両者が相互に補完する関係にある近世という時代の支配を、筆者の立場から理解したものといえる。また人格・神格に対する依存は時代を追う毎に小さくなると考えるのが常識であるが、両者が相互補完関係にあると考えると、「法度支配」が優位になり、確立する時にかえって「教諭支配」が表面化し、一定の様式を調えるのだ、という筆者の主張は、近代と比較した場合の「近世的特徴」を考える場合、興味深い。

 ただ、そうだとすると時代が下って近世社会が一方で社会経済的な構造変化、他方で外圧によって動揺したとき、「法度」と「教諭」の二本立ての支配がどうなったのかという点についても是非考えたい。フィリップ ブラウンが 特徴づけた「flamboyant な国家」という言葉を引きつつ、日本近世の国家を「大仰でも空回りでもそれにめげずに「説諭・利解をひんぱんに重ねる教諭国家」」と表現したのは面白いけれども、重要なのはやはりそういう国家が結局どうなったか、言い換えれば、どのようにして崩壊して近代国家が形成されたか、というところにあると思うのだが。 

 最後に谷口論文を取り上げる。論旨は以下の通り。

 武士身分の性格についての研究は必ずしも進展しておらず、行政官僚としての側面について幕藩官僚制の研究により明らかにされつつある。しかし、家臣団全員が役方の役職体系の中に編成されているわけではなく、その役職から離れると本来所属していた番方の組に編入されることや、法令上庶民に対して無礼討ちを行う特権を持っていたことは、武士が軍人としての本来的属性を喪失していないことを示す証左である。したがって武士=行政官僚としてのみ解釈するのは一面的である。ところで無礼討ちに関する本格的な研究は存在しないが、少なくとも近世後期には、無礼討ちが実際に行使されることは稀になっていたという見解が主流になっている。しかしこれらの見解は、具体的な事例分析を行った上での結論ではなく、御定書の条文や後年の回顧録に依拠した推測に留まる。

 明和五(一七六八)年岡山藩士が幕領内で起こした無礼を理由とした手討ちについて、幕府の態度を見ると、幕府道中奉行は無礼討ちに当たると認定してお構いなしと判断、そればかりでなく当該行為を「御賞美」していることから、幕府は武士に対する無礼とみなされるような過言・慮外を一方的にしかけられ、その場で相手を殺害する意図を持って手討ちにする行為を、「あるべき無礼討ち」と認識している。よって御定書以後も無礼打ちを制限する意図は持たなかったと考えられる。

 また岡山藩でも無礼を理由として手討ち事件が起こった場合、在方からの届けと証人の証言を元にして無礼があったと認定されれば、無礼討ちと認定され処罰されなかった事例があり、明文の法規定を持たないものの、やはり無礼討ちを武士の特権として認めていたことが分かる。さらに藩は無礼があったときに、武士はその場で相手を討ち留めなければならないと考えており、天保一〇(一八三九)年手討ちに失敗した武士に対して「始末はなはだ不行届」として二〇日間遠慮にしている。また無礼討ちに失敗した武士及び現場にいながら助太刀を怠ったとされた武士が事件後出奔し、家が断絶した事件があり、遅くとも享保期には無礼討ち(現場にいた武士が助太刀をすることも含めて)が武士の義務であるという観念が表れていたことが分かる。したがって、無礼討ちは半死半生の体を取り、留めを刺さない慣例が成立していたとする平松義郎氏の見解は妥当ではない。

 他方無礼討ちの対象となった民衆側の意識はどうだったのかというと、手討ち行為の正当性を厳しく問い、不当と思われる場合には公権力に訴えることがあったものの、無礼討ちそのものを、「禁止されるべき不当な暴力行使」であるとは認識していなかった。

 谷口論文は、幕藩官僚制の研究の進展と絡んで武士の「行政官僚」としての側面が兎角強調される昨今の研究動向に対する疑問から出発し、軍人としての属性の一つの現れとして無礼討ち特権を位置づけ、それが幕藩制後期に至っても形骸化していなかったことを論証しようとするのであるが、その問題関心自体は評者としても理解できる。また民衆が武士の特権行使に厳格な正当性を求めつつも、無礼討ち特権そのものは否定しようとしなかったとするところは、谷口氏が指摘するように、激化する民衆運動の中でなお幕藩制秩序そのものを否定するという考え方に至らなかったことと関連して、興味深い指摘である。 しかし、行論中若干気になったこともある。本論の中で平松義郎氏の見解が妥当でないとの指摘がいくつかある。まず、無礼討ちの時に留めを刺すかどうか(前述)について、谷口氏は地域を越えて全国的にそういう慣例が存在したと平松氏が主張していると解しているようである。これは『岩波講座』所収論文の記述をもとにしていると思われるが、評者は『近世刑事訴訟法の研究』で同氏が説くところからして、地域的な限定(特に京都)を付して読むのが正しいのではないかと思う。また平松氏が無礼討ちを武士の自由裁量であるとした点についても谷口氏の批判が及んでいるが、評者は無礼討ちが武士に課せられた義務であるとする谷口氏の主張は、若干勇み足ではないかと考える。同氏自身気づいておられながら、行論中「事例収集不足」として意外なほどあっさり処理してしまっているが、武士が庶民の無礼に対してはじめから無礼討ち特権を行使しなかったことを理由に処罰された事例は未だ見つかっていない。これは同氏の主張を論証する上で弱点になっている。一旦行使しようとした無礼討ちに失敗したこと及びそれに同身分の者が協力しなかったことが「武士に対面」を傷つける行為であると云うことは誰もが認めることであり、処罰対象となることも容易に想像できる。それを越えて無礼討ちそのものが武士の(単なる観念でない)義務であるというためには、そもそも無礼討ちを行使しなかった者が処罰された事例を指摘する必要がある。評者としては、この点については以下のように考える。無礼討ちの行使不行使は武士の自由裁量であるが、一旦着手した以上は討ち留めなければ批判される。そう考えれば、「あるべき無礼討ち」が観念として維持され、実際に認められる事例もあるが、討ち留めに失敗したときのリスクとの関係で、事実上行使が抑制されたのだ、と解する余地が出てきて、従来説と折り合いが付くと思うのであるが、これは外野の勝手な解釈というものであろう。いずれにしても谷口氏にはこれ以外にも法制史に関する研究があり、さらなる研究の深化を期待したい。

 以上、論文集全体のボリュームからすればはなはだ不十分な書評となってしまった。執筆者諸氏には予めお詫びをしたい。また誤解に基づいた批判もあるかもしれないが、この点についてもご指摘いただければ幸いである。


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