石塚 尊俊著『民俗の地域差に関する研究』 
評者:畑 聰一郎
掲載誌:日本民俗学235(2003.8)


 本書の著者である石塚尊俊は、一九一八年島根県出雲に生まれた。学生時代に柳田國男の講演を聞いて民俗学の道に入り、山陰地方を拠点として、多くの論文、著書を発表してきた。「地方在住」の民俗学研究者として『伝承』『出雲民俗』『山陰民俗』『山陰民俗研究』などの雑誌の刊行を通じ、「地域」の研究者を育ててきた卓越した指導者でもある。本書は、地方在住者としての視点から、「地域差」を検証しようとした労作である。

 本書は以下の論文・資料から構成されている。

一 民俗研究の今までとこれから−序に代えて−(「民俗研究の反省と願望」『山陰民俗研究』6 二〇〇一年三月)
二 在来信仰の消長と宗旨−中国地方における在来信仰と地域の宗旨および社会構造との関係−(『山陰民俗研究』1 一九九五年三月)
三 出雲と石見(「歴史地名通信」36 『日本歴史地名大系三三 島根の地名』平凡社 一九九五年十一月)
四 雲伯民俗の共通と背景(新稿)
五 俗信の地域差とその基盤−憑きもの研究梗概−(「憑きものと社会」『講座日本の民俗宗教』4 弘文堂 一九七九年十二月)
六 明治改革以前における村氏神の地域差−近世地誌による中国地方十二ヵ国の比較−(『中国地方における民俗の地域差』山陰民俗学会 一九九九年三月)
七 真宗地帯における非教義要素の地域差−安芸門徒地帯と北陸同行地帯との比較−(新稿)
八 回顧稽今−民俗学会創設のころ−(二〇〇一年九月九日 日本民俗学会七九二回談話会)
九 柳田国男翁の書簡(『山陰民俗研究』2一九九八年三月)

 第一論文の「民俗研究の今までとこれから−序にかえて−」は、長年にわたる著者の調査あるいは研究を振り返り、わかりやすい言葉で語った民俗学史である。豊富な調査研究から得た知見を随所に披露しており、学ぶべき部分が多くある。著者は、この論文の中で、地方学会は全国学会の稽古ではなく「地方には地方としての問題があるから、そういうことについては中央から、といっても実際には東京からですが、東京からひょいと来たのでは徹底したことができないから、地方は地方で組織を持ってやっていかねばならないというのでこそ、地方学会の存立の意義があるとしなければなりません。」(三六頁)と述べる。そして、出雲と石見の信仰伝承・儀礼伝承の差を指摘し、さらに中国地方全体を見渡し、地域ごとの宗旨の違いによる民俗信仰・儀礼伝承の違いが明確になっていることを主張する。

 第二論文の「在来信仰の消長と宗旨−中国地方における在来信仰と地域の宗旨および社会構造との関係−」では、中国地方各県の民俗分布図を分析し、「古来のイエ信仰や年中行事・人生儀礼に関わる行事や俗信が、東半地区では守られ、西半地区では薄くなっている」(五二頁)と指摘し、中国地方各県の寺院の宗旨を調査することにより、「美作を中心とする備前・備中の大部分は密教地帯、因幡の北部から伯耆の全域と出雲の大部分、そして備中・備後の雲伯寄りの地方は禅宗地帯、その西の安芸を中心とする一帯と長門の西部とは真宗地帯であることがはっきりする」(六一頁)と地域差を指摘し、「真宗地帯にはいわゆる講組結合型の村が多く、これに対して非真宗地帯には同族結合型ないしそれに準ずる型の村が多い」(六五頁)と述べ、さらに中国地方の東と西の相違を、土地経済の違いと見て、「石高が高い−同族本位の社会−密教・禅宗が動かぬ石高が低い−講組社会が進展−真宗が浸透する という原則が成り立ちそうである」(七五頁)という壮大な主張を展開する。

 第三論文の「出雲と石見」では、耕地の少ない石見が講組型であり、耕地の多い出雲は同族型であると指摘し、第四論文の「雲伯民俗の共通と背景」は、新稿であり、意欲的に出雲と伯耆の民俗の類似性を区画図で説明したものである。だが、評者には区画図はわかりにくいものであった。

 第五論文の「俗信の地域差とその基礎−憑きもの研究梗概−」は、本書の中では唯一、昭和の時代に発表した「憑きものと社会」を改題したものである。ここでは、いわゆる憑きもの筋と呼ばれる俗信について、多数地帯である出雲東部、出雲西北部、土佐西南部、豊後海辺部での調査に基づき、いわゆる憑きもの筋の家が新しい家ではなく、草分けの家でもない第二期くらいの入村者であることを指摘し、何が憑きもの思想を拡大させたか、多数地帯と少数地帯という地域差の生じた原因は何かと問いかけるとともに、憑きもの思想の因子の解明が必要なことを指摘する。第六論文の「明治改革以前における村氏神の地域差−近世地誌による中国地方十二ヵ国の比較−」では、近世の地誌を利用して、村氏神全体の中で勧請神社がどれほどの割合になっているかを計算し、「東半に低く、西半に高く、中でも安芸・石見および備後西北部においては最も高率であることが知られるのである」(一五三頁)と述べ、この勧請神社の多い地域が真宗地帯であり、また講組結合型社会であると指摘し勧請神社の受容も、真宗の受け入れも講組結合型社会であったことに一因があると主張する。

 第七論文は「真宗地帯における非教義要素の地域差−安芸門徒地帯と北陸同行地帯との比較−」であり、本書に初めて掲載される親稿である。真宗優位とされる安芸地域と、同じく真宗優位として知られる北陸地方とを比較した意欲作が本論である。民俗分布図による比較とフィールドワークによる比較により、同じく真宗地帯であっても信仰生活に大きな違いが見られることを指摘する。その要因として真宗導入の時代背景の違いを紹介するとともに、両地域の社会構造の違いに着目する。中国地方では、真宗地帯は講組結合型であり、非真宗地帯は同族結合社会であり、真宗進出に対して、同族地域では抵抗力が強く、広まらなかったのに対して、講組結合型社会では進出を許したのではないかと指摘する。ところが、北陸真宗地帯は同族結合型社会であり、中国地方と北陸地方との違いを「真宗がいまだ神紙不拝、余宇排除をさまで強く唱えなかった時期に、ムラのタテ構造の仕組を巧みに活用しつつ入ったのである」(二九一頁)と述べるとともに、同族地域において、中国地方及び北陸地方ともに住民一人当たりの石高が高かったことを指摘する。そして「北陸同行地帯と安芸門徒地帯とでは、同じ真宗地帯といっても、その自然条件に違いがあり、それによって形成された社会構造にも大きな違いがあり、かつ真宗浸透の歴史的経緯においても著しい違いがあった。それが今日なお同じ教義のもとにある土地であっても、その非教義的要素に対する姿勢に大きな違いを生じさせた所以であろうと思うものである」(二九四頁)と述べる。

 第八論文の「回顧稽今−民俗学創設のころ−」は、著者が見た戦後の民俗学発展の跡を語ったものであり、第九論文は「柳田国男翁の書簡」で、著者に送られた柳田国男の書簡を、著者の解説を付してまとめたものであり、この二つの文章は民俗学の歴史の貴重な資料となろう。

 著者石塚尊俊は、山陰あるいは中国地方にこだわり、本書はそのこだわりを具現化したものといえよう。その方法の特徴は、一地域の詳細な調査による社会構造の分析ではなく、一定の範域すなわち山陰あるいは山陽をも含めた中国地方全体の民俗の地域差を見ることであった。石塚は、本書の第五論文「俗信の地域差とその基盤−憑きもの研究梗概−」で、憑きもの筋伝承の多数地帯と少数地帯との地域差を検討した。この論文は一九七九年に掲載されたものだが、その二十年前に「俗信の残留と地域性の問題−憑きもの筋の多寡と家結合の形態−」〔石塚 一九五九 九−一五〕を発表している。この中で「出雲土佐などにはいわば、講組地帯における孤島的同族地帯である故にもっとも多いという風に考えてよいのではないか」〔石塚 一九五九 一四〕と述べる。石塚は、さまざまな民俗儀礼や俗信の社会的背景に着目し、家結合の形態に注目していた。石塚は本書でも触れているように、一九六一年に「民間伝承の地方差とその基盤−中国地方における信仰伝承の場合−」〔石塚 一九六一 一−八〕を発表する。「民間伝承が地方ごとにそれぞれ特色をもって残留していること、したがって、異なれる幾つかの伝承圏を重ねていくならば、そこに当然民俗区画図とでもべきものが描けるのではなかろうかという期待は、誰しも抱くところであろう」〔石塚一九六一 一〕と述べる。ここで石塚は、本書で主張する中国地方東北部と西南部との違いを指摘し、同族体の膨張量に著しい差異があり、同族指数の多いところは真言・禅・日蓮が、少ないところでは真宗が受容されていることを指摘する。この論文の核の部分が、本書掲載の各論文に継承されていることは明らかであろう。ところで、本書でも触れられているが、この論文に対しては、桜井徳太郎と千葉徳爾からの批判があった。桜井の批判に対して、石塚は反論している〔石塚 一九六三 一−八〕が、千葉に対しては、本書でもあえて反論はしなかったと述べている(四五頁)。千葉は、石塚を批判した論文を『地域と伝承』〔千葉 一九七〇〕に掲載し、そこで「石塚氏の方法では、配置や濃度との対応順序よりも、その分布し所在する在所の土地的な、また社会的な性格との関係が問題の中心となっています」〔千葉 一九七〇一八八〕と述べ、さらに真宗信者が多い土地であっても、その土地から移住していく人々が土地についた小祠を残し、新たにそこに住む者が引き継いで祭りを継承している事例をもって「石塚氏の推測は当たっていないということになるのではないでしょうか」〔千葉 一九七〇 一九〇〕と述べる。つまり千葉は真宗地帯であっても、必ずしも真宗進出以前の土地に根付く神を廃棄していない事例をもって、真宗進出が真宗以前の信仰を全て根絶するわけではないことを主張したいらしい。地域在住の研究者である石塚にとり、このことは当然のことであり、桜井への反論文〔石塚 一九六三一−八〕のなかで、真空地帯であっても全て同じではなく、安芸と石見では若干の違いがあることを指摘している。石塚論文発表から、十数年後、山本質素はこの論文を肯定的に評価した〔山本 一九七四 三−二〇〕。山本はさらにその二十年後に、一部修正の上、別の論文と合わせて再度発表する〔山本 一九三三〕。ここで山本は、石塚尊俊、小川徹、小野重朗、千葉徳爾等の諸説を分析し、「日本民俗には民俗事象の地域差と地域性という課題を解決するための大きな二つの流れがあった。すなわち、@事象の地方差自体を対象にして、その民俗の変遷を跡づける柳田の『蝸牛考』以来の、日本民俗の業績、および方法論的には小野重朗、小川徹への流れと、A地域性を対象に地域的研究の必要性を説いた山口麻太郎、石塚尊俊、千葉徳爾への流れの二つである」〔山本 一九九三 二三〇〕と述べ、「石塚は民俗事象とその事象の存在する土地との関係を念頭におき、その歴史的性格、社会的性格を追求する方向と、より広い範囲での分布とそれを説明する歴史的、社会的原因の追及とを志向していた」〔山本 一九九三 二三一〕と説明する。

 山本が二十年前の論文を再度発表した意味を考えると興味深い。一九七四年時点でまとめた考察を、二十年後に再度公表した意味は、おそらく、地域差研究の進展がほとんどなかったためと考えたからではなかろうか。ところが、石塚はまさに山本が指摘した方法を、中国地方において、地域の仲間とともに、考察を深めていった。一九八四年のシンポジウム「民俗の地域差」〔山陰民俗学会 一九八四 一二−四九〕。一九九〇年のシンポジウム「民俗の地域性」〔山陰民俗会 一九九〇 一−五一〕、そして一九九九年には『中国地方における民俗の地域性』〔山陰民俗学会 一九九九〕を刊行する。

 元来、民俗学の出発点は、地域による民俗儀礼の差異を発見したことに始まるといってもよい。差異を歴史的な先後関係に置きかえた結果が、重出立証法や周圏論であった。だが、石塚は一定の範域つまり自身の拠点としての中国地方を対象にして、その中での民俗の地域差を検討し、地域差の背景として、家結合の形態にその遠因を求めた。憑きもの筋という強いインパクトを持った俗信も、勧請神社の地域差も、真空地帯と非真空地帯の民俗の地域差も、家と家との結合状態のあり方の変化さらには歴史的に該当地域の生産力の差異に関わりのあることが指摘する。石塚が第二論文等で繰り返し主張する、中国地方西半地区で真宗が非常な発展を遂げた背景として、この地区が講組型の社会構造であったことにより在来信仰と直接衝突する真宗であっても容易に進出できたのに対して、同族型地域である中国地方東半部では保守的で外来信仰を受け付けないがために、非真宗地域となったという結論は、現在の実態を精査したものであり正しいだろう。しかし、講組型であるから真宗が進出したのではないことは、石塚自身第七論文での安芸門徒と北陸同行との比較により認めている。同族型から講組型への移行期の不安定要因の中で安芸門徒地域は真宗地帯となり、北陸では、真宗進出の時期の差から同族地域での有利さを利用して真宗が進出したとする。評者の疑問とするところは、同族型から講組型への移行についてである。

 耕地の広狭が同族型と講組型を決定したとの説は、耕地の余裕がなくなると同族型から講組型へ移行するのであろうか。社会構造の型が容易に移行するかどうかは疑問である。安芸門徒地域と北陸同行地域との比較はなお慎重に検討されなければならないだろう。新宗教である真宗の進出を容易にしたのは、社会構造の型であろうか。同じく真宗地帯である安芸と北陸に真宗が進出した理由を説明するためには、真宗圏としての圏域内を分析することも必要であろうが、個別村落の詳細な分析が必要と思われる。蒲池勢至等の村落調査分析からヒントが得られるのではないか〔蒲池 一九九三〕。

 本書のタイトルには「地域差」が使用されている。小川が、要領よくまとめているように、地域差と地域性に関する用語上の混乱がある〔小川 一九九八〕。だが、「地域差」の確認は民俗学の原点であり、地域差の確認から民俗研究ははじまるのである。だが、地域差をいかに認識しても「地域性」を主張できるだろうか。本書における真宗文化圏と非真宗文化圏を認めてもこの両地域の差は「地域性」の違いではなく、「地域差」である。松崎はその困難さを説明しつつ小盆地宇宙論に着目して地域性掌握の方法を提示〔松崎 一九九〇〕しているが、評者は民俗学に於いて「地域性」という用語の使用を避けるべきではないかと思う。本書のタイトルを「地域性」とせずに「地域差」としたことは評価できる。

《参考文献》
石塚尊俊 一九五九 「俗信の残留と地域性の問題−憑きもの筋の多寡と家結合の形態−」『伝承』2
石塚尊俊 一九六一 「民間伝承の地方差とその基盤−中国地方における信仰伝承の場合−」『日本民俗学会報』一六
石塚尊俊 一九六三 「信仰伝承の解体をめぐる問題」『日本民俗学会報』二七
小川直之 一九九八 「地域差と地域性−その可能性の検討−」宮田登編『現代民俗の視点三 民俗の思想』朝倉書店
蒲池勢至 一九九三 『真宗と民俗信仰』吉川弘文館
山陰民俗学会 一九八四 「シンポジウム 課題民俗の地域差」『山陰民俗』四三
山陰民俗学会 一九九〇 「シンポジウム 民俗の地域性」『山陰民俗』五四
山陰民俗学会 一九九九 「中国地方における民俗の地域性」『山陰民俗』
千葉徳彌 一九七〇 『地域と伝承』大明堂
松崎憲三 一九九〇 「民俗学における地域性研究の予備的考察」竹田旦編『民俗学の進展と課題』国書刊行会
山本質素 一九七四 「日本民俗学会における〔地域〕の概念」『城』1号
山本質素 一九九三 「日本民俗学における〔地域差〕と〔地域性〕概念について」『国立歴史民俗博物館研究報告』五二

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