斎藤卓志著『刺青 TATTOO』
評者・村澤博人 掲載紙 週刊読書人(99.10.22)


メークアップが着脱可能な衣服だとしたら、タトゥーは着脱ができない衣服である。一度まとったら最後、それ自身が自分であり、一生脱げないからこそ、そこに魅力が発生する。
本書は日本民俗学を専攻した著者が、いつしか気になる存在となっていた刺青についての虚像と実像とを自分の目で確かめたくなり、十一年かけて聞き書きしたものを材料にまとめた労作である。従来も習俗として扱ったものや伝統的な彫物に関しては出版されているが、現代の刺青を含めて言及したものは少ない。
刺青とは「彫師と客、二人の協同作業で形を与えられた瞬間から視線のるつぼにたたき込まれる……、社会的な対象としてみられるものへと転換する」ものであり、「見られることへの恐れ」ゆえに「彫ることをためらわせ、しりごみさせる関所となっている」と著者は考える。だからそこに分け入ることで、「刺青」「タトゥー」を浮かび上がらせたい、というのが著者の思いである。
構成は、まず、刺青と社会の関係をかつての禁令や谷崎潤一郎の「刺青」を通して過去のありさま、言葉の意味をクリアにしている。続いて意匠と彫る技術、聞き書きとしての刺青師の素顔と刺青を背負う人たち、そして著者の刺青論が呪力と心性、刺青を装うという視点から展開されている。
かつては日本人やオランダ人の彫師と親交があった私にとって、本書の魅力は「刺青師」や「刺青を背負っている」人への聞き書きである。彼らの発言の端々に、著者の述べたい刺青論への布石が打たれている。たとえば「三代目彫よし」のくだり、最初の切り出しにだじろぎを感じさせながらも、「日本人として一つのの伝統を引きついでいるという気持ちがある。いま、ジャパニーズ・タトゥーの立っているポジションはすごいものがある。……からだを知り尽くした上に、ひとつひとつの意味を持った図柄でまとめあげていく」と語らせたり、「タトゥーがからだの一部になってみると、痛いのは嫌いだが、痛いのも魅力。……『そんな大袈裟なものではないです。タトゥーは今まで生きてきたうちの中で好きな物』」と刺青を入れた女性に少しの気負いもなくしゃべらせている。
一方、刺青を含めたからだにこれほどこだわる時代の背景に「自分探し」を指摘し「刺青をそうした自己を立て直す手段のひとつ」と考えたいゆえに、その前に立ちはだかる社会の壁を壊すためには「刺青を見るものの心の奥の照り返し」を問い直す必要があると著者は結論づけている。
余程の興味で自分で近づいていかない限り、刺青を目の前で見る機会がない日常生活のなかで、たとえ刺青が見えたとしても、それを入れた個人まで見えないのが現実である。刺青そのものより、刺青を入れたさまざまな個性のある人との出会いにより、刺青に対する見方も変わると思う。その意味で本書の聞き書きは貴重である。もっと大勢の若い人の話を聞きたくなってしまう。(むらさわ・ひろと氏=ポーラ文化研究所主席研究員)
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