高井 蘭山著・澤登 寛聡編『農家調宝記』
評者:石山 秀和
掲載誌:関東近世史研究53(2003.10)


  一

 このたび岩田書院影印叢刊として、澤登寛聡氏編による高井蘭山著『農家調宝記』が刊行された。澤登氏による本書解題によれば、高井蘭山は、宝暦一二年(一七六二)生、天保九年(一八三八)没。江戸の人で通称を文左衛門といい、幕府与力の高井鉄之助の息であったとする。蘭山の経歴については、与力、旗本用人、戯作者もしくは「雑学」者などの諸説があって、判然としないところがいくつかみられる。より確実な経歴は今後の検討課題としている。

 ただし、戯作者としての事績は、江戸文学の世界で比較的知られており、蘭山は数多くの作品を編述・校正したとある。著書・編書・校訂書を合わせた作品は一〇〇余点におよんでおり、字書・節用集・漢詩・俳諧・異国情報・医学・養生・食事・書札・寺社の縁起と参詣・商業・教訓・重宝記・読本・暦・法・往来・芸術・兵法など多分野にわたる。

 澤登氏は、本書が江戸時代における「実用・実業的な知識を含む常識的な知識」の普及を趣旨として出版されたと、蘭山による序文などから位置づけている。言い換えれば、本書は前述のような多分野の著作をもつ「雑学」者高井蘭山ならではの作品ともいえる。

 では、次に本書の内容について紹介する。

  二

 本書には、影印版として『農家調宝記』三編三冊が収録されている。それぞれの目次はつぎの通りである。(中略)

 目次を一見してもわかるように、本書は農業で生活していく上で必要と思われる知識を、広範囲に網羅していることがわかる。また、専門的な用語による説明ではなく、通俗的な言葉で綴られていることも本書の特徴である。目次をはじめ本文にもふりがなが付されており、幅広い読者層を想定したものと理解できる。

 本書解題には澤登氏による書誌情報の検討がなされている。『農家調宝記』は文化六年刊、版元は和泉屋金右衛門。『農家調宝記』嗣編は文化一四年刊、版元は同じく和泉屋である。『農家調宝記』続編は文政五年刊、版元は同じく和泉屋である。ちなみに、いずれも編者の所蔵である。

 しかし、『農家調宝記』には諸本がいくつかあり、『江戸時代女性文庫』第九一巻(大空社)に掲載された『農家調宝記』(謙堂文庫所蔵本)には、版元が花屋久次郎となっている。澤登氏は、このことについて諸本の一つである国立公文書館内閣文庫所蔵本の検討から、最初に花屋久次郎によって製作・販売された後に和泉屋金右衛門に版権が移ったものと考察している。したがって、出版年は文化六年よりも遡ることになる。

 版元の花屋久次郎と高井蘭山との関係は非常に密接である。解題には『国書人名辞典』から蘭山の関わった作品を列挙しているが、版元は記されていない。そこで、これらの作品の内、『享保以後江戸出版書目−新訂版−』(臨川書店、一九九四年)にあるものとを照合させると、そのほとんどが花屋久次郎による出版であることがわかる。『享保以後江戸出版書目』には文化一二年までしか出版書籍を収録していないので、寛政二年から文化一二年までの蘭山関係作品の四〇点から検討すれば、『享保以後江戸出版書目』にある蘭山関係の作品は四〇点中に二二点をみることができた。他の二七点は江戸で出版されていないのか、確認できなかった。そして、この一三点の中で版元が花屋久次郎のものは九点である。

 また、『享保以後江戸出版書目』には、『国書人名辞典』に未収録のものもあった。『農家用文章』(文化九年刊)、『田舎用文章』(文化九年刊)、『消息往来講釈』(文化一〇年刊)で、いずれも版元は花屋久次郎である。したがって照合した結果、四三点中一六点の高井蘭山の作品が確認でき、一六点中に一二点が花屋久次郎による出版であったことになる。

 『改訂増補近世書林板元総覧』(青裳堂書店、一九九八年)によれば、花屋久次郎は店舗を江戸上野山下五条天神門前、もしくは下谷竹町二丁目勘六店としており、東叡山御用書物師で『柳多留』の板元であったとされている。花屋久次郎と蘭山とがどのような関係があったのか、その詳細は不明だが確認できる版本の割合からしても、両者の関係が密接であったことがわかる。

 残念ながら、『享保以後江戸出版書目−新訂版−』には『農家調宝記』の記載がない。いかなる理由で記載がないのか不明であるが、『農家調宝記』の初版年代の確認を含めて検討課題となるであろう。

  三

 さて、実用的な書物として出版された『農家調宝記』は、実際にどのように利用されたのか、あるいは実用的なものであったのかが気になるところである。ここでは、本書の利用状況や本書の『農家調宝記』初編に収録される「願書類」の内容から考えてみたい。

 解題には農家のみならず、「士人」、身分制的秩序に暮らす人々に向けて出版されたとしている。多くの人々に読まれたと考えられるものの、特に「農家」ではない「士人」も読者層であったという具体的な考察が必要かと思われる。

 下総国葛飾郡藤原新田(現船橋市藤原)の安川家には、文政年間より万延年間までの日記が残されている(安川家文書調査団編『船橋市安川家史料目録付史料解題』(船橋市教育委員会、昭和51年))。安川家は代々名主を務め、持ち高も100石を超える豪農である。日記の文政一三年閏三月三日条には、「堀田様公用人様江書状呉来、村山金太夫様、農家調宝記恩借仕、三編三冊」(『安川家史料目録』‥経営112「■(草かんむり+屯)斎館日記春秋」)とある。

「堀田様」とは佐野藩主堀田摂津守のことで、用人の村山は安川家の娘を武家奉公へ斡旋するなどして、安川家とは懇意な関係である。その堀田家用人の村山から安川家は『農家調宝記』を借りたとある。「士人」から「農」へと伝えられた書籍、さらにいえば「士人」に必要な書籍であったことがここでは確認できる。そして、安川家には『農家調宝記』が三編三冊とも現存している。士・農の共通の書籍としてみることができるのである。

 『農家調宝記』には実用的な知識を多く収録しているが、なかでも証文類や手紙の書き方が三編三冊共通にみられることには注目してよいであろう。そして、本書に収録されているような書き方を当時の人々がおこなっていたのかが、「実用」を知る上で検討作業の一つとなろう。

 例えば、本書七一頁の『農家調宝記』初編に収録される「願書類」には、「高札場新規普請願書」がある。次に本文だけを掲載する。

 乍恐以書付奉願上候
 一、何国何郡何領何村御高札上家及大破候処、以前度々修覆相加候上故、朽候処多、此度者修理茂届兼候ニ付、前々之通不残新規被仰付被下置候様仕度奉存候、御見分之上職人入札取之可奉入御覧候、先格之通諸入用半高者村中割合を以取立可申、半金者被下置候様奉願上候、御高札大小十枚年数も相立文字茂見兼候二付、是又新規御掛替被下置候様仕度奉存候、村役人共下見分仕候上此段奉願上候、以上
 年号月日(以下略)

 これは高札場が大破してしまった際に、村人が新規普請を役人へ願い出るためのものである。新規の普請では、@役人の見分と、A高札を建てる職人による入札をおこなって、B普請に関わる諸入用の半分は、「先格の通り」に領主負担にすることがわかる。

 新規普請の手続きとして、以上の三項目があったことがわかるのだが、実際にこの通りの願書、もしくは手続きであったのか、『農家調宝記』の「実用性」についての検討が必要である。

 武蔵国埼玉郡割目村(現埼玉県加須市割目)では、天保二年に領主の旗本万年氏へ次のような「御高札場仕様帳」が提出された(江戸東京博物館所蔵‥史料番号90371593)。

 (表紙)
  天保二年
  御高札場仕様帳
  卯三月
  (本文)
  御高札                   
一、建柱弐本但長壱丈
    代八匁四寸角
  (中略)
  小以 銀百拾弐匁七分五厘
     為金壱両三分弐朱卜弐分五厘
右者文政四巳年春御建替被成下置候処、
且此節及大破ニ難捨置候間、何卒当卯ノ
春猶又御建替御普請被成下置候
様奉願上候、以上
  
  天保二年卯年三月
          御知行所
            名主 林右衛門
  万年七之助 様
      御役人中様

 この「仕様帳」は蔵人の入札をもって作成されたものと思われる。高札場の修復には一両三分二朱程度掛かっている。しかし、文面通りの解釈をすれば、領主である旗本万年氏が全額負担しているとも考えられる内容である。関連資料がないため、これ以上の検討は難しい。ただし、比較の素材として次のような史料がある。

  日本橋御高札并内外相建有之候
  御高札板新規御修復之儀取調申上候書付
               喜多村彦右衛門

日本橋御高札場内外二相建有之候御高札之
儀、去丑三月廿一日火災之節御高札都合
拾枚持退候得共御高札場并串共焼失
仕候段、町役人共より御訴申上候二付取調可申上旨
被仰渡候間、相糺左二申上候

  一、右御高札場弐拾五ヶ年以前文化三寅年
  三月中芝車町より出火之節焼失仕根岸
肥前守殿御掛二而御建直之節奈良屋市右衛門江
糺被仰渡相調申上候処、御伺之上町方御掛に而
同年十月御建替被仰付候儀二御座候
   (中略)
右之趣を以町触仕御入用吟味仕候処、別紙入札寄
書之通落札高金百弐拾八両二而御座候、右落札
通二而請負可被仰付哉奉存候、尤落札金
高之内引方之儀再応吟味仕候処、此上引方
無御座候旨申之候、依之仕様注文帳壱冊
内訳帳壱冊入札寄書壱通御高札場
絵図壱枚相添先達而被成御渡候訴書一通
返上仕、此段奉伺候

  但町方御掛二而出来仕候得者、先例落札人
御番所江被召出請負被仰付其節 
  私共之内出席仕候、尤御修復中御組見廻
  被仰付候、御入用之儀者皆出来之上町方
  御入用六百両金之内二而相渡申候
  以上
  寅八月
    喜多村彦右衛門

 これは、『旧幕引継書』第3集(日本マイクロ写真株式会社)のうち『高札場修復書留』(リール番号・・142)にある日本橋高札場の新規普請に関する史料である。文政一三年三月の火災によって日本橋の高札場が焼失し、新規に普請をおこなうに際して、工事費が一二八両で落札となった。町年寄の喜多村民が、その経緯の説明と仕様帳や絵図などの関係書類の提出をおこない、あわせて町奉行書へ普請の伺いをおこなっている。

 最初の箇条にもあるように、高札場の普請は「町方御掛」が先例となっていることがわかる。今回も普請がおわった後に町入用から負担することとしている。町と村との差はあるが、こちらは全額町人の負担である。『農家調宝記』には、普請費用の半分は領主負担の内容であった。

 こうした3つの差異をどのように考えれば良いのであろうか。「実用性」において理解すれば、『農家調宝記』には負担軽減の典型的な様式を掲載したことになるのか。それとも、「先例」という文言に注目すれば、高札場の費用は領主・領民の相互関係で個々に変化するものと考えることもできる。そうであれば、あくまでも『農家調宝記』に記された内容は、参考程度のもので必ずしも共通のものではないといえる。現段階ではこれ以上の検討はできない。今後の課題として提示しておきたい。
 
  四                    
 最後に本書の題名にもある「調宝記」と呼ばれる書物について述べる。解題にもあるように「調宝記」は「重宝記」とも表される。こうした書物は元禄時代以降、出版文化の隆盛とともに数多く出版されるようになったとしている。当時の人々の日常生活のさまざまな常識に関する書物がどのように成立していったのかも重要な検討課題であろう。

 和田正路は随筆『異説まちまち』の中で次のように述べている(『日本随筆大成』第一期九巻一〇〇頁、吉川弘文館)。

 一、節用集と云もの、虎関の作なりと云。近古の板行にて、今時までも少年の訓詁第一となりて、家ごとの宝とす。(中略)予幼年の此より、いろいろの事書入て、重宝記の類になりぬ。百人一首も左之通にて、今時は歌の註も歌の絵もぬきて、重宝記のようになりぬ。

 この随筆の成立年代は宝暦明和頃と考えられている。江戸時代には様々な書物が出版されていることは衆知の通りだが、広く一般に普及した「節用集」と呼ばれる字書が「重宝記」のようになったり、「百人一首」も「重宝記」のようになったとしている。この頃になると、「重宝記」のような実用的な書物が急速に普及しはじめてきたことがわかる史料である。こうした「重宝記」となった「節用集」と本書とは類似する点も多くみられる。紙数の関係上多くを述べられないが、「重宝記」という書物の性格を検討する上で、さまざまな書物を視野に入れて検討しなければならないことを付け加えておきたい。

 評者の力不足で、些末な事例の提示に終わってしまった部分もあるが、本書の全体的な理解には広範囲の知識が必要であるといえる。江戸時代の「常識」を検討する上で格好の素材といえる本書は、今後とも多くの検討すべき点がある。本書は大学のゼミのテキストとして使用されていると聞く。多くの研究蓄積を期待して止まない。


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