大藤ゆき編『母たちの民俗誌』
評者・矢口裕康 掲載紙 國學院雑誌100-8(99.10)


坪井洋文は「生活文化と女性―炉の主婦座と家―」(『日本民俗文化大系 第10巻(家と女性)』一九八五年刊)の中で、女性についての民俗学的研究の問題点について、次のような指摘をしている。「これまで民俗学は、女性の研究についてはどちらかというと、部分に関する問題にこだわりすぎたのではなかろうか。それは炉の座や主婦の名称にもあらわれているように、女性と家とは切り離すことのできぬ関係にあったとしても、生活様式の全体像をとおして把握する必要があった」と女性の民俗を、生活様式の全体像とのかねあいでとらえるべきではないかという、しごくあたり前のことを先ず述べている。この指摘は、女性の民俗のみではなく、かつて民俗学の各分野においても部分に焦点をあて、全体から部分をみる視点が不足していた面もあったといえる。このこともふまえた上で、坪井は六つの視点を提示している。「そこで私自身の反省をもこめて、問題点を整理しておくならば次のようになる。まず第一に、女性の生殖機能にかかわって出産や月事の独自性を強調し、さらに育児・家事などにおける母性愛ないし献身の枠を出なかった。第二に、婚姻体系の類型をもとにして、聟入姻の先行 説を主張するあまり、必要な史料研究と歴史学的研究の成果にたいする検討がなされなかった。第三に、女性の宗教的役割を引き出すことにより、その霊力性は強調されたが、女性の日常生活との関係は閉ざされていた。第四に、生産労働や行商といった女性の独自の分野の研究は進んだが、それと他の生産様式との全体的関係が問われなかった。第五に、とくに明治民法下における女性思想家たちの社会運動とのかかわりに、みずからの研究成果を重ねていく問題意識が欠けていた。第六に、人類全体にかかわって、女性の位置づけや理解を求めようとする営みが少なかった」とまとめている。この坪井の指摘、特に「女性の日常生活との関連」にも焦点をおいてまとめられたのが『母たちの民俗誌』だといえる。
そして本書の画期的なことは、女性(編者・大藤ゆき)による、女性たち(女性民俗学研究会等)の、女性(母たちの民俗誌)をテーマにした一書として成っ立っていることであろう。しかし、書名は「女たちの民俗誌」ではなく『母たちの民俗誌』である。何故、今この一書なのかということを含めて、母たちの民俗誌のもつ意味について具体化してみたい。『母たちの民俗誌』は、「お袋」幻想、「母」、誕生 形成される「母」反応する「子ども」たち「母」の転成 象徴としての「母」〉の六章立て一八本の論考から構成されている。以上の構成からもわかるように、内実は母としての女性のみではなく、妻・女としての女性の現実に対する多角的な発言となっている。当初、大藤ゆきが一九九八年三月一一日米寿を迎えるので、米寿記念論集として企画され、編集委員会が主となり、女性民俗学研究会有志他の寄稿という形ですすめられていた。その後大藤ゆきを編者としたいという希望が出され、今を生きる母たちの民俗を、様々な観点から論じた女性たちからの世間への発信として編まれたのである。その発信を、本書世話人小林笑子他は「あとがき」で「編者自身が研究の継承母体となった『母』の民俗を、多様に『今日的検証』とすることになろうか。そこでは民俗が創造し形成し続ける、日本人の運命としての『母』の誕生と転成、子どもの習俗的姿態に炙りだされる『母』、その象徴性が抽出される筈であった」としている。本書の母胎となった女性民俗学研究会は、機関誌として『女性と経験』を発刊している。
『女性と経験』の見返し部分には柳田國男の「女の会ヘ」と題した言葉がある。「学問の基礎とは、@自分をふくめた大勢の人のためになること、A女性全体のためでもあり、Bこれから先の人間を、かしこくすることができるように、C世の中を少しでも明るくすることができるように、D世の中をおだやかに渡ってゆけるように、E日本のために、何が一番考えなければならない問題か、Fどうなるのが国民の幸福であるのか、G日本が今困っている問題に志をたてること。H何のためにやっているのかを寸刻だって忘れてはならない。Iこの点が世の中の待っている点だからという考えをもって研究していってもらいたい。J急ぐ問題、急がぬ問題、大事な問題と、第一、第二と順序づけてゆくこと」(文中@とJは筆者による)と一一点、女性民俗学研究会へ贈る言葉としている。柳田のこれ等の提唱は研究する者すべてへの提言でもある。本書は、柳田の「女の会ヘ」の表明に対しての一つの答えともなっている。
川口みゆきは「母なる雑誌『主婦の友』」の中で、柳田の言葉を「とても励みになる言葉だ。柳田は、学問のための学問ではなく、『生きる』ために学問をすることの大切さを説いている」とうけとっている。川口によれば、「女の会ヘ」は「大藤ゆきが女性民俗学研究会の代表になった一九八六(昭和六一)年、『女性と経験』一一号の巻頭言として載せるようになったものである」とする。また大藤ゆきを「この柳田の教えを、実行した『学ぶ女』なのだ」としている。まさに『母たちの民俗誌』も、大藤ゆきを中心とした女性研究者によって表明された様々な観点である。
川口は大藤ゆきと『主婦の友』の関係について次のようにまとめている。「大藤ゆきは戦後の混乱期に、新しい時代の新しい女性の生き方を模索した。そこでは、多様な意味でのメディアからの刺激を大きな手がかりとしたはずである。彼女は、『主婦の友』を仲間たちと回覧して読み、石川の『母なる仕事』を受けとめた。思えば、『女性民俗学の母』とも言える大藤ゆきもまた、『時代の母』としての男性・石川武美に育てられたのであった」と「母なる雑誌『主婦の友』」を結んでいる。大藤ゆきと『主婦の友』との関係を提示し、このこともあっての女性民俗学の母としての大藤を指摘しているのである。面白い着眼である。さて、「時代の母」としての石川武美について、川口は「雑誌『主婦の友』は、一九一七(大正六)年二月一四日、石川武美によって創刊された女性のための生活雑誌である。(略)『主婦の友』という名前は、河北新報という新聞の家庭欄のコラム名からヒントを得たものだという。当時、『主婦』という言葉には『ぬかみそくさい』イメージがあって、周囲から反対されたそうだ。(略)石川は主婦にこだわった。人々が幸せに暮らすことのできる世の中にするためには、家 庭生活を切り盛りしている主婦にこそ、たくさんの情報を手渡すことが必要だと考えたのだ」とする男性編集者である。石川は、『主婦の友』創刊当時は、東京家政研究会であった社名が、一九二一(大正一○)年主婦の友社と改名することになった雑誌編集者であるのみならず、一九四七(昭和二二)年、結婚式場・写真館・「主婦の友ストア」という店や相談室・女性専用の「お茶の水図書館」も開設した人物である。現在、男女雇用の平等が唱えられ男女共同参画社会をということがうちだされているが、一九四七年に、具体的に実践を試みている男性がいたのである。その情報のうけとつ手の一人に、大藤ゆきも存在していたことになる。
このことは、大藤ゆき年譜《一九四七(昭和二二)年三七歳》に「この頃、回覧雑誌を購読。『主婦之友』『婦人之友』『婦人公論』『女性改造』『家庭と農園』など」とあることからもわかる。回覧雑誌とは、現在の私達から理解しがたい存在だが、当時の『主婦の友』にも「回読によって主婦の友はできるだけ多くの家庭でご利用願います」との断り書きがついている。川口は、この一九四七年と一九九七年の『主婦の友』を「食べる、装う、住まい、からだ・健康、生き方」の記事を比較することから、母たちの民俗誌を解いていっている。女性雑誌から女性の民俗を繙いてゆくのも、今後の視点の一つといえよう。
石川武美・大藤ゆきそして大藤時彦の関係から、気になる、いや是非提示したいことがある。私も男であるので、変な視点と思われるかもしれないが、『母たちの民俗誌』これらの論考を、もし夫がいれば夫の評価もきいてみたい。このことから、女性の民俗に対するまた一つの出発点が見出せるかもしれないと思ったしだいである。女性として生きる女・妻・母の視点から成り立ったのが本書であるので、参画者としての夫からの視点である。女性研究者が、女性の妊娠・出産・子育て・生き方を語れば本音がでてくるはずである。しかし本音を語ることが即本質へと辿りつけるとは限らない。さて、本音を語り本質へ通じるには、どう聞き書きをするかということに対して示唆に富む論考も見出すことができる。
花部ゆりいか「『ことば』で綴る産育習俗」、杉浦邦子「聴耳の芽生え」がそれにあたろう。花部は「宮前T地区の三○代から四○代の女性たち(筆者も含む)からの、産育に関する聞き取りを報告する。現代の民俗を報告する手立てとして、通常行なわれる報告書によるリライトを出来るだけ避け、話者の生の声―語り資料を全面に押し出す方法を採ってみた」とする。それを「『ことば』で級る民俗というわけである。この方法を採ったのは、話者自らの『ことば』による表現形態の中に、産育をめぐっての直截的な考え方や生活感情を読みとってみたいとの思いからである。民俗語彙を中心にした項目別の調査報告とは、自ずから趣が違うはずである。語り資料が内に秘める可能性を問うてみたいと思う」ともしているが、少なからず本音を描き出すというねらいは、本考の中で大いに活きている。そして「これまでの人間関係の蓄積があるからこそ、踏み込んだ話も聞けたと思っている。その結果は資料の形で提示したが、個人に焦点を当てるあまり、プライバシーを犯すことになりはしないかという危惧もあった」と、話を聞くことの基本としての人間関係の蓄積あっての聞き書きであるからこそ、本 音を聞け本質へとせまれることを述べている。民俗の基本は個人の生活空間の集積であるゆえに、プライバシーを犯すかもしれないとの危惧もふまえてまとめてある。かつ「しかしながら都市生活者の民俗を探る上で、個人に焦点を当てる視点は大事なことだと考えるし、都市生活者の心意を明らかにする上からも、本稿は語り資料を全面に出してみた次第である」と結んでいる。花部の聞き書きの対象が神奈川県川崎市宮前区であるゆえに、都市生活者が云々という表現になったのであろうが、このことは都市に限らず地方の民俗にもあてはまる視点である。
また杉浦は、母語・聴く力・話しことばに着目している。母語に対して、杉浦は「生まれて最初に習い覚えたのがある方言だった場合、共通語に対して方言を母語(略)方言はその土地の気候・風土の中で感じ方や考え方に微妙に影響を受けているので、自然の事象ばかりではなく、社会的な習慣やそこに生活する人の所作や心持ちなどを表現するのに適した言葉(略)方言は書き言葉ではなく話し言葉であるが、話し言葉こそが気持や心のあり様を表現するにふさわしく、何よりも子どもは話し言葉で育てられるのである」としている。乳幼児が最初に出会う話し言葉こそが、人間の思考を方向づける大切な言葉「母語」であることは確かである。であるならば、杉浦は「人生の初めの身体と精神が養われる時期に聞かせる言葉は、遣い慣れたもっとも気持ちを伝えやすい言葉であってほしい」としている。その上で「昔から無意識になされてきた幼い者への言葉の教育は、まさに生活に根差した幼言葉(略)扶育者とのやり取りを基本とした、幼児に相応しいもの(略)自然に身体に染み込ませる母の言葉」によってであったとしている。杉浦は、言葉の源泉としての母語に着目している。
以上のように私達に民俗をとらえる上での新たなる視点を提示してくれた論考の多くは、野村敬子をはじめ國學院大学出身の女性達の手によっている。國學院で民俗学を学んだ学生達の多くは女性であったことを改めて確認した。ぜひ、女性のみならず、男性研究者にも手にとってほしい。そしてそこからも論議をおこしてはしい。『母たちの民俗誌』を世に問うた意味と、今後の方向性を見出してゆくことができるであろう。
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